マリア・カラス
赤色は何も言わない。
ただ黙ったまま。
私が呼吸を整えている間、ふと瞼が伏せられ、視線は隠れてしまう。
不安からきゅっと、胸元にあてた手でドレスの柔らかい生地を掴む。
そうしたら心音がどくどく、早鐘を打っていた。
──────と、視界の真ん中にいたその人の、薄い唇が弧を描く。
そしておもむろに両手を腹の前で持ちあげ、ゆっくり合わせて拍手をはじめる。
視線がかち合った。
「君がここへ来たのは不運以外のなにものでもないと、今の今まで思ってきたが……どうやら少し悲観し過ぎたかもしれない」
「…………」
「スラムで一生を終えるには、惜しい才能だ」
「………………は」
自然と乾いた笑い声が洩れた。
それは、認められたってこと?
ニクスは称賛しているつもりなのか。
だとしたらやっぱり神経を疑ってしまう。
少し悲観しすぎた?
……なによそれ。
そんなのただの言い訳じゃない。
私が拉致されたことを、結果的によかっただろうと、正当化しているだけ。
自分の罪を少しでも軽くしようとしているだけだ。
腹の底から静かな怒りと嫌悪が湧きあがってくる。
私が何も言わず俯いているのを、ニクスがどう受け取ったのかは知らない。
ただ、一人満足そうだ。
「その実力なら、劇場でも充分通用するだろう。明日、君をデビューさせる。そうしたら君は、本物の歌手だ」
「…………」
「明日の夕方、また迎えにくる。歌は、そうだな。さっき歌ったマリア・カラスの曲を歌えばいい。その内、君の持ち歌を作ろう」
ニクスは私の返答など興味がないというように。
言いたいことだけを残し、部屋から去っていった。
閉じたドアを見つめ、喉が鳴る。
「本物……?」
溢れ落ちた声が震えていた。
まるで現実感がない。
ずっと立っているのに、足が地についていないような浮遊感がある。
いつか、スラムを抜けだして、空にいちばん近い場所で本物の歌手になる。
子どものころからの夢は、だけど一生、叶わないと思っていた。
その夢が叶う。
それなのに、どうしてだろう。
全然、嬉しくない。
むしろ薄ら寒いとさえ思ってしまう。
あの夜、カエラムに「認めるよ。あんたが最高の歌い手だって」そう言われたときのほうが、何倍も心が弾んだのはどうして?
……ああ、そうか。
彼はスラムでの、歌い手としての私を認めてくれた。
でもニクスはどうだろう。
確かに私はまだ本物じゃない。
だけど歌い手としてのプライドはある。
今までスラムでやってきたプライドが。
それを否定されたと思ってしまったのだ。
私はしばらく呆然と突っ立っていた。
そしてふと思う。
こんなの。
こんなのは、まるでマリア・カラスみたいじゃない。
状況は違うけれど、結局は金持ちに見初められて歌ごと買われた彼女とよく似ている。
自然と足が動いていた。
向かった先は、本が並んだ背の高い棚だ。
そこから日記を引っ張りだし、表紙を凝視する。
マリア・カラスもまさか、赤の他人に日記を見られるなんて、望んでいないかもしれない。
だけど彼女がどんな気持ちで想いを綴っていたのか、無性に知りたくなった。
ごめんなさい、マリア。
両目を閉じ、顔も知らない彼女に謝る。
そしてそっとページを開いた。
◆
◆
最近、ますますあの人の束縛がひどい。
やっぱりあの歌をリリースしたことが原因かもしれない。
まだアイツが好きなのか。
私だけを愛してくれ。
毎晩、お酒に酔えば泣いて縋ってくる。
あたしの心は永遠に彼のもの。
それでもいいからあたしと結婚がしたい。
そう言ったのは、あの人なのに。
◆
◆
メモリーを歌うときは、いつも彼のことを考える。
あたしを呼ぶ声。
あたしを見つめる瞳。
あたしの最初で最後のラブソングだ。
彼を捨てて、あたしは夢を選んだ。
あの人と結婚することで、あたしは確かに本物のシンガーになれた。
だけど、ときどき考えてしまう。
もしもあのまま彼と一緒にいたら。
夢は叶えたはずなのに、また違う夢を見てしまう。
◆
◆
近頃は部屋からも出してくれなくなった。
あたしのかわいい子どもたちにすら会わせてくれない。
ルカはときどきこっそり部屋に来てくれるけど、ニクスはきっと、父親の言いつけをしっかり守っているんだろうな。
◆
◆
今日は久しぶりに、劇場に立てた
あたしの歌をお客様に聞いてもらえた。
すごく嬉しかった。
ああ、生きてるんだな。って、実感できる。
だけど、ここへ帰ってくると心に穴があいたみたい。
虚しくて虚しくてしかたがない。
あの人は、愛してるのウソで満足なのかな?
あたしの声で聞くウソは、なんでもホントになるって言っていたけど、よく分からない。
◆
◆
また部屋に閉じ込められる毎日。
あの人がそのつもりなら、あたしにだって考えがある。
◆
◆
メアリーが今日、絵本を見つけて買ってきてくれた。
あたしがずっと前に話していたことを覚えていたんだって。
それがお世話係の勤めです。
なんて言っていたけど、嬉しい。
お星さまのカペラ。
あたしが施設にいるとき、大好きだった絵本。
ときどきこっそり訪ねてきてくれる、あたしの天使にも今度、読んであげようかな。
◆
◆
今日は、メアリーからこんな噂話を聞いた。
今もどきどきして、ペンを持つ手が震えてしまう。
衛兵が話していたんだって。
いつも来るあの変わった星縫いが、小さな子どもを連れてくるようになった。
彼はその子を、『マリア』だと、紹介したって。
彼が結婚したのかは分からない。
でも子どもがいるなら、たぶんそういうことよね?
だけど、それがホントなら、あたしは嬉しい。
だって、あたしの呪いは今も解けずにいるってことでしょう?
◆
◆
彼は人たらしだったから。
衛兵たちと仲良くなるのも早かった。
チケットを買うお金はないから、仲よくなった衛兵にこっそりゲートを通してもらっていた。
懐かしい。
スノードームみたいな部屋も。
蜂蜜色の髪も。
星を縫う小さな背中も。
あたしを振り返る優しい眼差しも。
ぜんぶ。
ぜんぶが恋しい。
◆
◆
ルカが今日、母様が早く元気になりますように。って、お星さまの縫い物を持ってきてくれた。
メアリーから教わったんだって。
小さな手は絆創膏だらけだった。
彼とは赤の他人なのに。
ルカを見てると彼を思いだす。
◆
◆




