プライド
屋敷に戻ってきても、胸の奥が落ち着かない。
傷ついたように揺れていた空色を思いだすたび、チクリと奥が痛む。
もしかして罪悪感? そんな、まさか。
それをずっと繰り返し、頭のなかが重い。
だからそれを綺麗さっぱり洗い流せば忘れられるだろうと思い、バスタブに一直線。
まだ毛先からぽたぽたと水滴を落とす髪を厚手のタオルで拭きながら部屋へと戻ってきたとき。
ドアが軽やかにノックされた。
いつもの彼女とは音が違う。
一瞬、身構えれば。
「私だ」
硬い声が短く鳴り、さらに身構える。
正直、開けたくない。
だけどここは彼の持ち物だし、私が部屋にいることは
把握されているだろう。
……しかたがない。
せっかく少しだけさっぱりしたっていうのに。
また気が重くなった。
ゆっくりとドアを開ける。
と、今日は黒に近い灰色のスーツに身を包んだ長身が、面食らったような顔をして私を凝視してくる。
初めて見たその表情を、私は睨む。
「……なに」
刺々しい自分の声。
見上げていると首が痛くなってくる。
綺麗に整えられた身なりが、閉じたままの唇をようやく開く。
「ドライヤーがあっただろう」
ぽつりと溢れた言葉に眉を顰める。
「ドライヤー? なにそれ」
「……なるほど」
瞼を伏せ、軽く鼻で笑う。
なにが「なるほど」なのか。
鼻で笑われたことが気に入らず、睨む両目を細めてみせる。
が、向けられた赤い瞳は気にした素振りもなく。
「部屋に入ってもいいか?」
わずかに首を傾け、問われる。
ここは彼の持ち物だ。それなのに、いちいち私に聞いてくるなんて。
どうせ私が嫌だと答えたところで、大人しく背中を見せてくれるとは思えない。
まるで私にも選択肢があるように見せかけて、その実なにもないのだから。
「好きにすれば」
それだけ吐き捨てて背中を向ける。
ドアが静かに閉じた。
いったいなんの用?
背中で気配を探っていると、ニクスは迷うことなくなぜか洗面室へ向かっていく。
その姿を怪訝に眺めていたら、すぐに戻ってきたニクスの右手には、黒いコードが尻尾みたいに伸びた器具がある。
なんだろう、あれ。
想像もつかないし、なぜ彼が今それを持ってきたのかも意味が分からず。
ただ凝視し続けている私の視界のなかで、ベッドの近くに尻尾の先端を壁に刺す後ろ姿だけが動き続けている。
そして振り返る。
「こっちに来て座ってくれ」
「…………」
左手が、絨毯の上にどうぞと宙に浮いている。
その手とニクスを交互に見やる。
なんなの?
いったい何をする気?
疑心から動けずにいる私を見て、薄い唇がやれやれと言わんばかり。溜め息混じりに言った。
「君の髪を乾かすだけだ。それ以外は何もしない」
「髪を……?」
乾かす?
説明されてもますます意味が分からない。
けれど、器具を持って待っているニクスはたぶん、私が動くまで部屋から去る気がなさそうだ。
警戒はそのまま。
しかたがなく言われた通りにベッドの側まで行き、腰を下ろす。
なにかあったとき、いつでも立ち上がれるようにと、もちろん正座で。
真っ白な絨毯の上。
ドレスのスカートが花びらみたいに広がっている。
ニクスが私の背後へ回る気配がした。
すかさず体半分だけで振り返り、様子を窺う。
すると彼はベッドの端に座っていて、開いた両足の間にすっぽりと私を収める格好になった。
長い両足に左右を囲まれ、「ちょっと」抗議の声をあげたと同時にカチッと小さな音が鳴ったかと思えば、ブォォォォっと、低い唸り声が部屋に鳴り渡る。
「えっ!」
驚いて肩を竦めてしまった。
だけど次の瞬間、温かい風が髪で遊びはじめる。
なびく髪のなかに手を入れ、ニクスが上へ弾くような手つきをもって動かしていく。
その手は、思わず戸惑うぐらい、とても丁寧だ。
ニクスが少し声を張った。
「覚えておけ。これを使えば数分で髪が乾く。おまけに痛まないし、風邪をひくリスクを減らせる」
「……数分?」
「ああ」
いつもの硬い音まで温風に解されてしまったのか。
それとも聞き間違いだったのか、その響きは柔らかい。
なんだか自分が小さな子どもになったような、複雑な気持ちになる。
ニクスの言葉は本当だった。
ものの数分で髪は乾き、しかも指に引っかからない。
まだ熱を含んでほのかに温かい髪。
その毛先を掴んで座り込んでいると、器具をまた洗面室へ持っていき、戻ってきたニクスが笑う。
「どうやらお気に召したようだな」
「…………」
悔しい。
否定できない。
そんな便利な道具がこの世に存在したなんて。
知らなかった。
「それより、以前君に話した劇場の件だが。覚えているか?」
不意に問われ、側に立っている赤い瞳を見た。
「君の歌を聞かせてもらおう」
試すような視線が私を射る。
「…………」
からかわれているだけかもしれない。
馬鹿にされているだけかも。
いくら生活を保証するといったって、劇場にまで立たせようなんて、本気とは思えない。
でも、私にもプライドはある。
馬鹿にされたまま終わるのはごめんだ。
私が立ち上がると、ニクスは後ろへ下がった。
そのまま壁へ背中を預け、私を見ている。
……男たちを喜ばせていた歌ではだめだ。
カエラムに聞かせた歌はもっとだめ。
だったら、──────
ずっと。ずっと頭にこびりついて離れなかったあの歌を。
きっと、日記の持ち主であるマリア・カラスの歌だ。
私 が 死 ぬ と き は
あ な た の な か が い い
遠 く 離 れ て し ま っ て も
心 は あ な た の な か が い い
脳裏に、金糸がちらつく。
はじめて聞いたときは甘ったるい曲だと思っていたのに。
歌えば歌うほど心が震える。
ダー リ ン そ の と き は
私 を 思 い だ し て 思 い だ し て
形 を 声 を 味 を
き っ と 思 い だ し て ね ダ ー リ ン
「…………」
歌が終わった。
最後は息が続くまでビブラートを放った。
空気を震わせていた音の余韻がゆっくりと引いていく。
胸を押さえ、呼吸を乱した私を、ニクスは真っ直ぐと見つめ続けていた。




