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消えない十字架

 強く胸元を押したつもりだった。

 だけどうまく力が入らなくて、華奢な体は一歩、後ろへ下がっただけ。

 顔を少し背けて下を向き、おかしくて堪らないといった様子で肩を震わせている。

 その横顔に、金糸がはらはらと落ちて隠している。

 それが落ち着いたころ、修道服の内側へ手を突っ込み、今度は小さな筒のような形をした小物をだして、そのなかへ吸いかけの煙草を押し入れた。

 そしてまた内側へ手を突っ込む。

 相変わらずあの修道服は謎に満ちている。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 立ち上がろうとして、足の裏にぐっと力を込めた。

 つもりが、やっぱりうまく踏ん張れず。

 少し腰を浮かしただけで、またすぐにソファーの上に、すとんと落ちる。

 それを見て、カエラムが言う。

 ふふんと、笑ったままの顔で。


「もう少しゆっくりしていきなよ」

「嫌。すぐに帰る」

「そんなに兄さんの屋敷が気にいったの? なんか妬けるなぁ」

「ふざけないで」


 またすぐにそうやって。

 私で遊んでいるだけだ。

 本当に、本当に。その態度が癪に障ってしょうがない。


「あ、そうだ」


 一度、視線が上を向き、すぐに戻ってきた。

 なにか思いついたような音に、嫌な予感しかしない。


「今日はこのまま泊まっていけば?」


 腹の底から大きな溜め息がでた。


「あんた、人の話を聞いてたの? 私はすぐ帰るって言ったんだけど」


『帰る』という部分だけ強調する。

 そうしたら残念だとばかりに肩を竦めて。


「あんたを抱き枕にしてから、他の人じゃ眠れなくなったんだ。死活問題だよ」

「は? だからなんなの」


 私にはまったく関係ないじゃない。

 そう睨んでやれば、一歩、開いていた距離を静かに詰め、空色の瞳が降ってくる。


「責任、とってよ」


 ニコリ。と、笑うそれは清廉そのもの。だけど言っている言葉はちっとも訳が分からない。


「知らないわよ、そんなこと」


 呆れて溜め息が混ざる。

 そうしている間もずっと、ソファーの上で指を握ったり離しているうちに、なんとか力が入るようになってきた。

 私がその場に立ち上がると、今度はこっちが見下ろす番だ。


「……あんた、本当に何も知らないの?」


 自分でも、どうしてそんなことを聞いてしまったのか分からない。

 ただ勝手に言葉が滑ったのだ。

 だからカエラムは一瞬、「ん?」小首を傾げた。

 けれどすぐに意味を理解したらしい。


「ああ、人体実験のこと?」


 途端、つまらなさそうな声音が返ってきた。


「確かにあんたが使徒の試練を受けるわけないしな。それなのに禁断症状がでるなんて、おかしな話だよね。だけどさ、」


 カエラムが鼻で笑う。


「その話が本当だったとして、教会はなんのためにそんなことをしてるわけ?」

「知らないわよ。私に聞かないで。だけどあんたのお兄さまが言ってた。報われない男の復讐だって」

「報われない男の復讐?」


 私の言葉を一人言のように繰り返し、視線が彷徨う。

 そして戻ってきた空色が、かすかに揺れている。


「……それ、兄さんも関わってるって言いたいの」

「そうよ。私を訳の分からない場所からだしてくれたのは彼だったし、私は手違いで連れてこられたらしいから、その責任をとって面倒見てくれるんだって」

「………………」


 黙り込んでしまったカエラムは、視線を下げたまま。

 ただ一点を見続けている。

 その瞳がなにを考えているのかは分からない。

 私は金糸を見つめ、おもむろに口を開いた。


「あんたもいい加減、目を覚ましたほうがいい。利用されてるのよ。この世界に神様なんていないんだから」


 声のトーンを下げながら、けれどきっぱりと告げた私の言葉を、金糸は微動だにせず聞いていて。

──────は、っと。

 不意に息だけで笑った。


「それ、僕に言う? ……酷いな」


 それから傷ついたような瞳が、私を正面から捉えた。


「あんたは強いんだな。でも、みんながみんなそうはいられない。あんたからすれば、なに不自由なく幸せそうに暮らして見えるここの人たちだって、辛い現実から目を逸らしたい。心が耐えられなくて、なにかに縋りつきたくなる日だってあるんだよ。それが目には見えない、その人だけの神だ」

「…………」


 生意気に人をからかう声が。

 癪に障る声が、今だけは触れたら壊れてしまいそうな。とても脆い響きに聞こえてしまう。

 それでも私は空色の瞳を強く見つめ返す。


「それが悪いことだとは言わない。でも、少なくともあんたの神様は、あんたを裏切ってるよ。カエラム」

「!」


 私がはじめて名前を口にしたからだろう。

 カエラムが一瞬はっとしたように、目を開いた。

 だけど何も言わず立ち尽くしているだけの姿を尻目に、私はその場を後にした。






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