蜜の罰
クリーム色のレンガが積まれた建物を見上げる。
両開きの細長い窓が均一に並び、小さな花をつけた赤色が、低い柵を覆うように咲いている。
その背景には偽物の空。
昨日も今日も、きっと明日もそれは白くて明るい。
ここに来るのはこれで三回目だ。
でも、一度目と二度目。ここに来たときの気持ちはぜんぶ違う。
今日はまるで、殴り込みに行くみたい。
最初から敵意を剥きだしにし、仁王立ちする私の後ろで、黒塗りの乗り物が静かに去っていく。
いつまでも慣れない回転扉。そこに、鎖骨をだしたワインレッドのドレス、髪を綺麗に纏めた女が映る。
その顔は、笑っちゃうくらい強張っている。
格好だけは空にいちばん近い場所で暮らす人たちと変わらない。
それなのにもたもたと回転扉をすり抜けながら舌を打つ私は、やっぱり異質。もちろん、悪い意味で。
コツコツ、と。
大きなシャンデリアが反射する白い床を早足で鳴らす。
いつも静かなロビーを抜け、あらかじめニクスから聞いていた部屋番号を目がけてヒールを鳴らし続ける。
部屋のドアがずらりと左右に鎮座しているエリアまで来ると、敵意を鳴らしていたそれは途端、絨毯に沈む。
音は何もない。落ち着いた暖色の明かりが色づくなか、空気が震える気配だけがする。
真っ白なドアに、黄金のドアハンドル。
プレートには四桁の番号が金色で刻まれている。
その前で、私は一度だけ大きく息を吐きだした。
視線は下げたまま。黒いハイヒールの爪先と睨み合いながら、ドアをノックする。
待ったのは数秒。
ドアが引かれ、隙間から洩れる白い光と共に、いちばん最初に映ったのは、黒。
改めて見ると場違いだと思う。
それを確認するよう、視線を上げていけば。
黒の修道服が。首から下げたロザリオが。ケープに、空色の瞳が。
そこに金糸がかかっている。
互いの瞳だけが交わって数秒。空色が私の全身をさっと視線で撫でたあと、少し顔を歪めた。
その表情さえ、腹がたつほど美しい。
「その服、あんたの趣味?」
「……どうでもいいでしょ。さっさとすませて」
「せっかちだなぁ」
やれやれ、と。カエラムは軽く肩を竦めてみせる。
「まあいいや。どうぞ」
ドアの後ろへ隠れるようにして、脇に逸れる修道服を睨みつけながら足を踏み入れる。
そこで初めてラジオから歌が流れているのに気づく。
またあの、囁くような女性の歌声だ。
そしてテーブルの上。
そこには相変わらずお守りが一ヶ所に纏められている。
……カエラムは知らない。
きっと、私を待っている間も縫い続けていたんだろうあれが、人体実験の標的を選ぶために使われていると。
ニクスの言葉を信じるなら、彼も利用されている側の人間だ。
「昼間はつまらないだろ」
カエラムの言葉に振り返る。
朝でも昼でも変わらない陽射しを受ける金糸は、一層明るく見える。
ドアの前に立っていた空色の瞳が、私の後方へと逸れた。
それを追ってまた振り向きなおす。
と、ガラス一面の向こう側。そこにはもちろん宝石の夜はない。
その代わり、空に届きそうなほど高い建物や、屋根が斜めになった建物。
大小さまざまな形をしたものが窮屈そうに並んでいる。
「……どうでもいい」
景色を見にきたわけじゃない。
だからカエラムを真正面から睨みつける。
そして目だけで急かす。
「ほんとせっかち」
笑い声を含んだ声が、天を仰ぐ。
けれどすぐに修道服の内側へ手を突っ込んで、煙草の箱とジッポーを取りだした。
それを見て、ぎょっとする。
「待って、なんで煙草?」
さっきから散々、早くすませてと態度でそう言っているのに。
なにを呑気に煙草など吸おうとしているのか。
意味が分からず敵意が引っ込む。
けれど当の本人はきょとん、とした顔で。
「なんでって、これが中和剤だからだよ」
当たり前だと言わんばかりの口調。
「それが中和剤? そんなことある?」
またからかわれているんじゃないか。
半眼で凝視を続ける私にカエラムは、少し小首を傾げるような格好で、口を開く。
「へぇ。僕を疑うんだ?」
まるでおもちゃを見つけたとばかり。
生意気な笑みはどこか楽しげに見える。
……いや、ここでその手に乗るわけにはいかない。
屋敷へ早く帰りたいわけじゃあないけれど、ここにも長くいたいとは思わない。
「分かったわよ!」
一言そう吐き捨て、そっぽを向く。
クスクス笑う小さな声が鳴るなか、キーンとした金属音が鼓膜を叩く。
そして独特な甘い匂いが浮遊しはじめる。
私はそっぽを向いたまま、右手を差しだした。
もちろん、煙草を受け取ろうと思って。
だけど渡されたのは、少し拗ねた声音だけだった。
「なに突っ立てんのさ。届かないんだけど」
「──────は?」
思わず顔を正面へ戻す。
カエラムはもう笑っていなかった。
意味が分からない。
届かない? 何が?
頭のなかで思考を巡らせる。
その間、金糸の持ち主は気まずそうに顔を少し逸らした。
「……ソファーに座ってくれよ」
小さな声で呟かれた言葉。
それを聞いて、ようやく意味を理解した。
そういうことか。
確かに彼は私より小柄だ。
「って、いや、どういうこと? 何しようとしてるの? それを私にくれればいいじゃない」
一瞬そういうことかと納得してしまった自分を叩き、すかさずまた右手を差しだす。
「そんなのダメに決まってんじゃん。吸うにもコツがいるんだ。適当に吸えば意識を飛ばすよ。覚えてないのか?」
「なんのこと?」
「初めてあんたと会ったときだよ。腰を抜かしてるあんたを立たせてやろうとしたら、僕のことをチビだとか言いやがって。仕返しのつもりでこれを吸わせたら、あんた意識飛ばしたじゃん」
恨めしそうに言われて、もうずいぶん遠く感じる記憶が、けれど匂いをも伴って、鮮明に蘇ってくる。
確かに、言った。
近づいてくるカエラムに「人殺し」「チビ」と。
それからあの、自分勝手なキスを、覚えている。
「またそうなると困るから。今度はちゃんと加減するし、大人しく言うことを聞いて」
「なに、それ」
ぽつりと言葉が洩れ、突っ立ているだけの私にカエラムが少し顎を上げて言った。
「まさか、無理やりされるのが気に入ったとか?」
ついさっきまで気まずそうにしていた態度とは一変。
からかうような声音がまた私の神経を刺激してくる。
「誰が!」
それを一蹴し、私はソファーへどさっ! と、腰を落とした。
足を組み、腕を組む。
また小さな笑い声だけが背後から聞こえてくる。
何がそんなにおかしいの?
まったく、癪に障る。
再び私は顔を左へ。そっぽを向く。
すると私の前にヤツが立つ気配がした。
すぅ。と、煙草を吸うわずかな呼吸の音が、やけに大きく鼓膜に響く。
……なんだか落ち着かない。
心臓がそわそわする。
腕が。
ソファーのへりに左手をつく。
それが私の視界にはっきりと映り込む。
心臓が、また一段と脈を打ち、心音が鼓膜まで響いてくる。
そこへふと、影が落ちた。
「マリア」
とても静かな声音だった。
まるでラジオから流れてくる歌声にも似た響き。
名前を呼ばれ、一度だけどきりと大きく心臓が跳ねる。
なんなの、これ。
自分でも自分の体が分からなくて。
それでも意を決して正面を向く。
目線は絶対に合わせない。
唇が軽く重なった。
でもすぐ離れて。
「……口、開けて」
甘い吐息がかかる距離で、カエラムが低く囁く。
「大丈夫。怖くないよ」
諭すような柔らかな温度に、ちっ。内心で舌を打つ。
そして思いきり両目を閉じて、ほんのわずかだけ唇を開く。
再び重なった唇は、けれど壊れ物に触れるみたいな優しさをもって。
隙間から砂糖菓子のような甘い香りが体内へ流れ込んでくる。
強張った体から力が抜けていく。
あの夜……宝石の夜。
カエラムはこの煙草を『ただの精神安定剤』だと言っていた気がする。
彼も使徒になるために劇薬の呪いを受け、私と同じように中和剤がなければ生きていけない体になってしまったのか。
私は修道服の胸ぐらを掴んだ。
うまく力が入らなかったから、強くは掴めなかった。
それでも、決してこんなことを受け入れているわけじゃないと。
大人しく従っているだけじゃないと。
態度だけでも示したかった。
カエラムが喉の奥で笑う。
唇がゆっくりと離れていく。
そっと瞼を開いた。
すぐ目の前にある空色の瞳が、私の瞳を覗き込んでいる。
「…………」
「…………」
言葉はない。
ただ視線だけが交わされていて。
睨みつける私の顔が空色に映り込んでいる。
──────不意に、カエラムがニヤリと笑った。
「もっと、する?」
からかうような、試すような。
小首を傾げ、金糸がさらっと目元に落ちる。
とにかくふざけていることは確かだった。
「このクソガキ!」
胸ぐらを掴んでいた手で、私は胸を押し返した。




