籠のなかの鳥
コンコン。
控えめなノックの音で目が覚める。
はっと飛び起きて周囲を見回せば、やっぱり夢じゃない。真っ白な光が満ちる新世界が広がっている。
私、いつの間に……
どのくらい眠っていたんだろう。
絵本を読んでいるときとそう景色は変わらない。
「……はい」
絨毯の上で丸くなっていたからか。
少し固まった首の筋肉を揉みながら、まだ完全には起きていない、低い声で返事をする。
すると真っ白なドアの向こう側から、穏やかな女性の声が聞こえてきた。
「失礼いたします。ニクス様が昼食を共にするようにとの仰せでございます。お支度をお願いいたします」
あまり抑揚のない声は、けれど選択の余地すら与えてはくれない。もう決まったことなんだと言わんばかりの響きだ。
溜め息が洩れる。
ここで抵抗したところで意味があるとは思えない。
もうこの場所で生きていく以外に選択肢がないのなら、意地を張り続けるよりもっと賢く動かなきゃ。
「分かった」
しかたがないと溜め息混じりに答え、絵本を棚に戻してから適当に手ぐしで整え、ドアを開ける。
真っ白な背景に、黒いワンピースと白いエプロン。私とそう年齢が変わらなさそうな女性が、前髪一つ垂らさず、部屋の前で待っていた。
そして私を見るやいなや、その場に屈み、白い履物を差しだされた。
履けってことね。素足を突っ込む。
包み込むような柔らかい感触。お金持ちというものは、泡をはじめ、こういうふわふわしたものが好物らしい。
黒髪を後ろで一つに結んだ彼女の後を追い、絵や青い花が飾られた廊下を歩く。
「こちらでございます」
女性が頭を下げ、私の前から脇へ逸れる。
部屋に入ればそこには、縦に長いテーブルとずらりと揃えられた椅子。それ以外の家具はなく、やっぱり白で統一された部屋のなか、落ち着いたグリーンのスーツに着替えたニクスが座って待っていた。
私が部屋に入ってきたのを見て、黒服を着た若い男性がすっと椅子を引く。
しかたなくそこへ座ると、今度は別の男性がスープの入ったお皿を私の前に置き、まだなかが赤いお肉や彩りが鮮やかなサラダを並べていく。
その傍らには、窓から射し込む光に反射して輝く銀色のフォークやナイフ、スプーンがある。
こんなにたくさん、何に使えばいいの? 思わず凝視ししてしまう。
まさか食べさせる係りがでてきたりしないでしょうね。
ここまで甲斐甲斐しく世話をされるのだ。ありえない話しじゃない。
そんなことを真剣に考えていると、不意に小さく笑う気配がして、顔を上げた。
向かいの端に座るニクスが口を開く。
「マナーは問わない。好きに食べてくれ」
「…………」
赤い髪をした人を視界に収め続けている間、鼻先にはずっと、食欲を刺激する香りが私を誘惑し続けている。
腹の虫が鳴く。
するとニクスが眉を少し上げ、先にスプーンを手に取った。
それから音もたてずに口へ運ぶ。
見よう見まねで私もスプーンを右手に取り、透き通ったスープを一口。
「!」
あまりに色が薄かったから、私が作るスープと同じように、なんの味もしないんじゃないかと思っていたけれど。
ただ水で薄めたものとは全然違う。
とても優しい味がする。
……おいしい。
思えば、ずっと食事をしていなかった。
だから舌が、胃が、喜んでいるのが分かる。
次にニクスがナイフとフォークを取り、すでに切れているお肉をさらに小さく切り分けて口に運んでいく。
私は、一切れをそのまま口に突っ込んだ。だってそのほうが早いから。
柔らかい!
スラムで手に入るお肉は薄くて筋が多く、おまけに硬い。だけどこれは柔らかいというより溶けていく。
お肉にかかっている赤いソースもさっぱりしていてとてもおいしい!
思わず感動してしまって、口内に残る旨みの余韻に浸っていると。
「君のことを少し調べさせてもらった」
しばらく沈黙だけが泳いでいたなか。
目線を正面へ向ければ、赤い瞳とかち合う。
「君はスラムで歌い手をしていたらしいな」
「……だったらなに」
身構えずにはいられない。怒っているような刺々しい音が口をつく。
右手にナイフ。左手にフォークを握り締め、相手をきつく睨む。
けれど正面の薄い唇には軽い笑みが浮かぶだけ。
一度、瞼を伏せた瞳が戻ってくる。
「ちょうど私も劇場を経営している。君にその気があるのなら、最高のステージを用意しよう。もちろん実力は見極めさせてもらうが」
「…………は?」
「歌い手から歌を奪うのは、声を奪うのと同じことだと。母が生きていた頃に言っていた。君もこの先ずっと歌えないのは辛いだろう」
「母?」
「ああ。マリア・カラス。聞いたことは?」
「マリア……カラス」
呪文を呟くみたいにその名前を口にして。
「マリア・カラス!?」
思わず大きな声が飛びだした。
「知っているのか?」
「当たり前でしょう。スラムにいる人はみんな知ってる。伝説の歌手でしょ」
でも、待って。
それじゃあ部屋で見つけたあの日記は、彼女の?
ニクスの母親がマリア・カラスだということは、当然カエラムの母親でもあって……
私の名前を尋ねてきた夜、笑いもせずからかいもせず、ただ真面目な声音で「いい名前じゃん」と。
たったそれだけ。そう口にした金糸の姿が脳裏に浮かぶ。
「それで、君の答えは?」
硬い声音が金糸を攫った。
改めて瞳を見つめ返すと、そこには挑戦的な色がある。私がどう答えるのか楽しんでいるみたい。
それがヤツの姿と重なって見える。
ほんとに、兄弟揃ってタチが悪い。
劇場って……
そこがどれだけの場所かは想像もつかない。
だけど、ガラクタで作られたステージとはまったく違うんだろう。
──────本物の歌手だ。
「まさか、怖気付いたのか?」
「誰が……っ!」
挑発的な声音が鼓膜に刺さり、プライドが顔をだす。
前に乗りだした私を見て、ニクスは少しだけ視線を下げた。
「それでは決まりだ。明日、カエラムの元から帰ってきた後でいい。君の歌を聞かせてもらおう」
「え? カエラム?」
なんでここでヤツの名前が?
凝視する先では、ニクスが丸いグラスに注がれた赤い飲み物を一口。その姿はただ優雅そのもの。
グラスが音もなく置かれ、視線が向けられる。
「君の症状を抑えるための中和剤を持っているのは弟だけだ。これからは毎日、カエラムの元へ送らせる」
「…………」
症状って、禁断症状のこと?
突然なんの前触れもなく動悸が激しくなるあれが、禁断症状?
ふざけた実験のせいで、そうなったってことよね?
カエラムがニクスに言っていた、「明日は僕のところへ寄越せ」という言葉はそういうことか。
……やっぱり気に食わない。
勝手に体を作り変えられたことも、それが単なる手違いだったってことも。
まるで見えない首輪を嵌められているような気持ち悪さだ。
そして何より大人しく従うしかない今の状況。
それがとてつもなく気に食わない。
思いだせば思いだすほど不快だ。
「──────ふっ」
一切の音が存在しない部屋のなかでは、息を吐くような小さな音さえよく聞こえる。
現実から逸れていた意識を戻し、ニクスを睨めば、「失礼」そのまま黙ってしまう。
「……なによ」
なんで今、笑ったわけ?
眉を顰める。
「いや、」
ニクスがまた小さく笑ったあと、ゆっくりと視線を上げてくる。
「君を見ていると、猫を飼っているような気持ちになるな」
「は? 猫?」
ますます顔を歪めてしまう。
「はっ。さすが訳の分からない人体実験をしているだけはあるわね。人が猫に見えるなんて!」
吠えるように吐き捨てた私の正面には、白い光のなか。
静かな微笑だけがある。




