秘密の裏側
バスタブは、人を駄目にする。
危うく牙が抜け落ちるかと思った。
あまりの心地よさに脳までふやけて、うっかりすべてを許してしまいそうだった。
そりゃあ毎日あんなものを使っていたら、頭のなかがお花畑になってもしかたがない。
ただ無防備な状態でお湯に包まれていたら、過去の色んなことを考えてしまう。
自分の身の振り方について考えはじめたところで、なんとか抜けだすことができたけれど。あのままじゃあ危なかった。
それでもまだ油断はできない。
適当に選んだ赤いロングドレスは、生地がいいからなのか肌触りが滑らか。そして私の全身からは甘い香りが放たれている。
スリットこそないが、鎖骨や背中がでるタイプで、私が普段、店で着ているものとそう変わらない。
それでもこのドレス一枚で、スラムだったらどのくらい生きていけるのか。当分働かなくても食べていけそう。
そんなものを纏っている自分は、なんだか自分ではないような。とても落ち着かない気分。
だから少しでも気を紛らわせたくて、まだ乾いてもいない髪をタオルで拭きながら、私は本の背表紙を順に眺めていた。
空や星。そんな文字が入ったタイトルばかり。
「あ」
それまで流し続けていた視線がふと止まり、思わず声が洩れた。
青い背表紙に金色の文字。そこには『お星様のカペラ』と。
見覚えのあるタイトルが並んでいる。
ママ先生にもらったはずなのに、なぜか忽然と姿を消してしまった、私が大好きな絵本。
端のほうに詰まったそれを両手で引っ張りだし、星空が描かれた懐かしい表紙を見て、唇が笑む。
パリッと紙が剥がれる音と一緒に表紙を開く。
すると、絵本のなかから不意にバサッと落ちてきた一冊の薄い本。
「あ!」
慌てて屈み、淡い黄色をした……本かと思ったけれど、そこにタイトルはない。
薄っぺらいそれの表には、『メモリー』とだけ黒字で印字されている。
なんだろう、これ。
棚に並んでいるどの本とも違う。異質な見た目をしたそれを拾いあげ、軽い気持ちで開いてみる。
と、白い紙には手書きの文字が並んでいた。
少しだけ癖のある、けれど女性が書いたものだと一目で分かる、柔らかい筆跡。
◆
◆
彼の蜂蜜色の髪を思いだした。
匂いや柔らかい感触までも、完璧に。
あんまりにもよく似ていたから。懐かしいような、恋しいような気分になってしまって、おもわず買ってしまった。
なんとなくこうして書いてみたけど、ここでならホントのあたしでいられる。そんな気がするから、ときどきまた書いてみようと思う。
◆
◆
彼は今もあの小さな部屋で一人、星を縫い続けているのかしら。
スラムで暮らしていたころは、上を見上げてもなにも見えない真っ暗闇だった。
だけど空にいちばん近いこの場所からは、彼が縫いつけたお星様がよく見える。
だからあたしは毎晩、願うの。
どうか彼の夢が叶いますように。元気でいますように。
あたしが最後にかけた呪いが、今も解けていませんように。
◆
◆
私が死ぬときは あなたのなかがいい
遠く離れてしまっても
心はあなたのなかがいい
ダーリン そのときは
私を思いだして思いだして
形を声を味を
きっと思だしてねダ ーリ ン
こんな歌を作ったら、あの人が怒るかしら?
あなたへのラブソングだよって言ったら信じてもらえるかしら。
最近はあたしが空を見上げているだけで、彼のことを考えているんだろうって、機嫌が悪くなる。
大きな子どもみたい。しかたのない人。
◆
◆
「………………」
これは、日記だ。
それにしてもここに書いてある歌詞。
私が宝石の夜をはじめて見た日、ラジオから流れていた歌と同じだ。
ニクスは死んだ母親の部屋だと言っていた。
だとすればこの日記は彼女の?
……いや。いくら顔も知らない相手とはいえ、これじゃあ人の秘密を勝手に覗いているようなもの。
少しの罪悪感と共にそれを閉じ、棚へと戻す。
それからそのまま絨毯の上に座り込み、もう一度、絵本を開いた。




