新世界
いくら抵抗しても乗り物が止まることはない。
いっそ死んだほうが……と、考えなくはなかったが、けれど次の瞬間にはこう思うのだ。
どうして私がニクスや教会のために死んでやらねばならないのか、と。
だけどニクスに飼われるのもごめんだ。
そんな感情を行ったり来たりとしている間に、また私は戻ってきてしまった。
ニクスが「私の屋敷」と、言っていた場所に。
「この部屋を使うといい」
子どもみたいに不貞腐れたままの私を振り返り、何食わぬ顔をした男が言った。
部屋、と言うにはあまりにも広く、清潔感がありすぎてむしろ落ち着かない。
大きな窓から射し込む朝の光。大人が余裕で三人は横になれそうなほどのベッド。そこには屋根があって、白いレースがかかっている。
どれも白で統一された家具は、光が反射して輝いている。
ニクスは一人で住んでいるから遠慮などいらないと言っていたが、それならこの部屋だけでも充分すぎると思うのに、これほどまで大きな家が必要なのかと。
感性を疑ってしまう。
ただ黙って部屋のなかを見回す。
どれもこれもきっと一級品なのだろう。だけど私の目を奪ったのは、本がたくさん並べられた、背の高い棚だった。
汚れも破れた跡もない。まるで新品かのような背表紙たちを、ぼぉっと眺めていたからか。
ニクスが視線を辿り、ふと小さく笑う。
「死んだ母の物だ。この部屋は元々彼女が使っていたからな。興味があるなら好きに読むといい」
「…………」
返事もせず、目を逸らす。
けれど相手は特に気にした様子もなく、視界の端で私を見ている。気がする。
……なんなの? 落ち着かない。不快な気持ちだ。
するとおもむろに、理性的な声が言ってきた。
「だが、その前に身なりを整える方が先だ。部屋の奥に浴室がある。仕度はもうさせているから使うといい」
言いたいことだけを残し、背中を向けて立ち去ろうとする。
こうして明るい場所で見る後ろ姿は、肩幅が広く、ウエストがきゅっと引き締まり、姿勢がいい。
ヒップラインもシャープで立体的。
癪に障るほど、スタイルがいい。その後ろ姿に、とっさに問いかけていた。
「待って。あんたたちは何のために人体実験なんてしてるの」
どうせもう何を聞いたところでスラムには帰れないんだ。だったら、その理由を知りたい。
ニクスは黙っていた。
何も答える気がないのか、と。私が眉を顰めたとき、小さな音が鼓膜に触れた。
「…………報われなかった男の復讐だ」
「は? なによそれ、どういう意味?」
ますます顔を歪め聞き返す。
が、それ以上は何も返ってこず。ニクスは部屋から去っていった。
意味が分からない。理由を聞けば聞くほど釈然としない。もやもやしたしこりを吐きだすよう、大きく鼻から息を吐く。
そうして初めて、自分の格好をまじまじと見つめて、思う。確かにボロボロだ、と。
安物の赤いドレスは生地が薄いから、所々ほつれ、穴が開いている。ピンヒールはたぶん、檻のなかだ。
髪も……
胸元にかかる毛先を取って、少し匂いを吸い込めば、薬品臭い。
……部屋の奥に浴室がある。そう言ってたっけ。
柔らかすぎる絨毯を、──────おまけに真っ白なんだもの。汚したらまずいと無意識に思ってしまい、できるだけ爪先で立って歩く。
壁際にドアが一つ。銀色のドアハンドルを掴んで回す。
と、広々とした真っ白な洗面室が、あの場所と重なって見えてしまった。
カエラムに連れ込まれた、あの部屋と。
ただ違うのは、遮るものが一切ない。まるで一つの部屋みたいだ。
暗い赤や明るい赤。たくさんのドレスが吊るしてあって、背の低い棚には分厚いタオルや下着までも、一切の乱れもなく、陳列されているようだ。
真っ白な床に真っ白な壁。その中央に鎮座する、真っ白なバスタブ。
円形のそこからもわもわと湯気が立ち上り、赤やピンクの花びらまで浮いている。
ここまでくると、感動というより戸惑いのほうが大きい。
だってシャワーでさえ、スラムで使っているような細くて小さなおもちゃみたいな物とは全然違う。
銀色に光り輝いている。
そばには液体の入ったガラス瓶がいくつも並んでいて……
足元にドレスを落とす。空の籠があったから、とりあえずそのなかへ入れてみる。
それから恐る恐る、銀色の蛇口を少しだけ捻ってみた。
「わっ!」
驚いた自分の声が反響する。
少ししか捻っていないのに! シャワーからは勢いよく温かいお湯が降り注いでくる。
少しの濁りもない透明が、ぽたぽたと毛先から滴り落ちてくる。それも無臭だ。
もったいない!
すぐにお湯を止める。
信じられない。生まれて初めてこれだけの液体を一気に浴びた。
ええと、髪はどれで洗うんだろう。
石鹸は、……見当たらない。
迷いに迷って、右端の、少しオレンジ色をしたものを手の平にだし、髪につけてみる。
そうしたら甘くてとてもいい香りが浮遊しはじめ、みるみる内に泡まみれになってしまう。
「な、なにこれ!?」
間違えたのかも! こんなに泡がでるなんて、洗い流せる?
不安が勝り、慌てて蛇口を捻る。
なんとか洗い流せた……
あとは体を洗うだけだ。
それなのに使わないガラス瓶の方が多い。
いったい何に使うのかさっぱり分からない。
とにかく次は……なんとなく、透明なものを選び、右手で腕から塗っていく。
が、それも爽やかな香りと共に、あっという間に泡まみれ。
お金持ちがこんなに泡が好きだなんて知らなかった。
体を纏う恐ろしいそれを早々に洗い流し、息を吐く。
「……疲れた」
もうでよう。
と、視界の端で捉えてしまったものを、私は真正面から凝視した。
……これが、バスタブ。
湯気がでてる。熱いのかしら。
「…………」
試しに足の指先だけをつけてみる。
「!」
想像していたりより熱くはない。むしろ、気持ちいいと感じるほどちょうどいい。
そのままくるぶしを。膝を。
飲み込まれるみたいにもう片方の足もつけて。
その場に座り、全身がお湯に包まれる。
…………なにこれ。
体から力が抜けていく……
「はぁぁぁぁ」
思わず、感嘆の息が洩れてしまった。




