完璧な檻
右隣に座る男は、いとも簡単にそう言ってのけた。
なに……?
声にだしたつもりだったけれど、それは音にならなかったみたい。
標的ではなかった? 標的ではなかったって、そう言ったの?
信じられないものを目の当たりにしたよう、私は瞬きも忘れて、涼しい横顔を見ている。
「私が君に言った言葉を覚えているか? スラムで、君が落とした物を拾ったときに言った」
「…………」
「あれはカエラムから貰った物だな? 縫い目が綺麗なままだった」
一瞬、目を逸らした私を見て、それを肯定だと取ったのか。ニクスは正面を向き、どこか遠い目をする。
その瞳に何が映っているというんだろう。
「使徒はただ純粋にあれを縫い続けている。それが自らに課せられた務めの一つだと思って。だが、教会と私はそれを利用し、標的を定めるための道具として使っている」
「……お守りのことを、言ってるの?」
ようやく喉から発せられた音は、まるで生まれて初めて喋ったみたいにたどたどしい。
「ああ。あの中には標的の位置が分かるよう、仕掛けが施されているんだ。もちろん、あれをスラムで配っている聖職者たちは何も知らない」
「………………」
慣れた手つきで縫い物をしている、あの金糸が過ぎる。
「君には信じられないかもしれないが、スラムには私たちの協力者がいる」
「協力者?」
それはつまり、人体実験に関与している人間が、スラムにいるってこと?
スラムにいながらスラムの人たちを売っていた、裏切り者が──────
そいつが、私のことも売ったっていうの?
正直、信じられない気持ちのほうが大きかった。けれどその一方で、納得してしまう自分もいる。
あそこで生きている人間なら、見返り次第では人を捨てられるかもしれない、と。
「スラムで配られている物全てに仕掛けがあるわけではない。標的は正直、誰でもいい。だから誰がそれを受け取ったのか、協力者が見つける。見つけた後は、またあのお守りとやらを介して、私が回収する。そういう手筈だ」
「でも、私がもらった物には何も仕掛けられていなかったんでしょう?」
あれは、……この男の言葉がすべて真実だとしたら、何も知らないカエラムが、なんの下心もなく私に渡した物。そういうことになる。
星だと、彼は言っていた。
むかしの人は星に願いをかけていた、と。
それがまさか、標的を選ぶための道具だったなんて。
「そうだ。君の物には何も。ただ、どういうわけか協力者が君の物を見て、標的だと誤解をした可能性がある」
誤解って……
本当にただの勘違いであんな目にあわされたって?
だけど、その協力者にお守りを見られたのだとしたら、いったいどこで?
だってあの日はルーシーと部屋でお喋りをして、マスターがコーヒーを分けに来てくれただけ。
部屋から持ちだしもせず、相変わらず今も調味料と一緒に並んでいるのだ。
それなのにどこで見られたというの?
記憶を一つずつ手繰り寄せ、そこではたと気づく。
あのときルーシーが言っていた言葉。
マダムがお気に入りの客にお守りを渡している、と。
店で渡しているものはもっと縫い目が雑だった、と。
もしも、それを受け取って、いつも笑っているという客がニクスのことだったら……
「協力者って、いったい誰なの? そこまで話したなら全部教えて」
体ごと男のほうへ向け、強い口調で詰め寄っていく。
一音も聞き逃さない。そんな気持ちで睨む私を、赤い瞳は横目で眺め、黙ってしまう。
──────話して。
目を細め、促す。
すると薄い唇が、ゆっくりと開いた。
「…………ある男。とだけ言っておこう」
「………………」
男。
それなら一人しかいない。
マスターだ。ルーシーじゃない。あの人が、裏切り者だった。
マスターが部屋を尋ねてきたとき、私はてっきり、片付けられていないキッチンを見られてしまったと思っていた。
だけどあれは間違いだ。
本当は、お守りに気づいていたんだ。
驚きや、悲しみ。唯一の友ではなかったという安堵。
そんな単純な言葉じゃあ間に合わない。言い表せるわけがない。
怒りや落胆。とにかく、ぐちゃぐちゃになった感情。
どうして? どうして? 答えのない問いばかりが浮かぶ。けれどそれはむしろ冷静に、私の頭を働かせていく。
「さて。私は全て手の内を明かした訳だが。なぜだと思う?」
「……え?」
笑みを含んだ問いかけに、声が洩れた。
遅れて向けられた瞳を凝視するのみ。目の前の赤は、ただ静かに答えを待っている。
「なぜって、それは私が聞いたから」
「君が私に尋ねてきたのは、君がなぜスラムへ帰れないのか。その理由だったはずだ。にも関わらず私は全てを君に話した」
「……それって、」
口を紡ぐ。
答えたくなかった。もしかして、と。最悪な答えが思い浮かぶ。
それを口にしてしまったら、いよいよ後には引けなくなる。そんな気がして。
だけどそれは相手が許してくれなかった。
しばらく静かに待っていたニクスが、時間切れだと言わんばかりにふっと笑う。
そうしたら想像通り。耳を塞ぐには遅すぎた。
「君のことはまだ良く知らないが、君ならその体のことを知ってもなお、スラムへ帰ると言い出しそうだったからな」
そこで瞳が、真正面から私を捉えた。
「これで帰せないもっともらしい理由がもう一つ増えた」
まるで悪戯が成功したとでも言いたげに、逃げ場を奪われて、私は思わず声を荒らげてしまった。
「ふざけないで! そんなこと知らないわよ!」
「ではまた症状が現れたらどうする。症状を抑える中和剤を摂取しなければ、死ぬぞ」
「…………」
「人を襲うだけの化け物となり、使徒に始末されるしかなくなるが。それでもいいと言うのか?」
一つ一つ確実に退路を絶たれていく。
心は抗いたくて、必死に嫌だと叫んでいるのに、返す言葉だけがどこを探しても見つからない。
「君を巻き込んでしまった責任は、私にある。ここでの君の生活は保証する」
「は……? 生活は保証する? それってつまり、大人しくあんたに飼われてろって言いたいの!?」
無意識に、叫んでいた。
冗談じゃない。好き勝手に私の人生を弄んでおいて、今度はそれをただ黙って受け入れろって言うの?
……頭では理解している。もうどうしようもないことなんだって。だけど心が追いつかない。
「君はもう元の生活には戻れない。それが現実だ。そこに議論の余地などない」
「はっ………」
力なく、もう笑うしかなかった。
どこまでも正論で追い討ちをかけてくる。
……あのお守りさえ受け取っていなければ。
そもそもカエラムと出会っていなければ、私は今もスラムで顔も知らないママやパパを恨み、ニクスのような金持ちたちを憎みながら歌を続けられていたはずだ。
夢が叶うことはなくても、普通に生きていられた。
スラムでの生活がマシだと思えるほど、歌を奪われてまで、この男に飼われるしかない未来が恨めしい。
「誰があんたなんかに…………!」
背中を向け、負け惜しみのようにそう溢すだけで精一杯。
あとはただただ、唇を噛むしかできなかった。




