真実
「話して。私がもうスラムに帰れないって、どういう意味?」
乗り物のなかは無音に近い。
鼓膜に届く自分の声は、牙を剥きだしにした嫌悪の塊だ。
その左隣で長い足を組み、優雅に座っている男は正面を向いたまま、おもむろに口を開く。
「君の体は中和剤が切れると禁断症状を起こすようだ。覚えていないのか?」
「禁断症状?」
「例えば、呼吸困難から始まり強い殺人衝動……君は屋敷に着いた途端、錯乱して飛び出していった」
そう言われてよくよく思いだしてみれば、真っ白な建物を見て圧倒されていたとき、突然呼吸が苦しくなって、それで……
それで、どうなった?
そこから先がまったく思いだせない。
それなのにどうしてだろう。真っ暗で空っぽみたいな記憶のなか、金糸が過ぎるのはなぜなんだろう。
まるで呪いみたいに焼きついて、それだけが離れない。
下を俯いてしまう。ニクスが言葉を並べていく。
「ルカ……いや、カエラムにも言ったが、弟が錯乱した君を見つけ、中和剤を与えたんだろう。あれは教会の使徒だからな」
「教会の使徒? なにそれ」
初めて聞く言葉に顔をあげる。
「表向きは街の治安を維持するため、教会の務めを果たすべく、今は亡き神に選ばれた者のことだ」
「表向きはって、」
なんだか胸の奥がぞわぞわする。
知らなくてもいい秘密に触れているんじゃないか。
一抹の、……そう、不安だ。
赤い瞳だけがちらりとこっちを見た。
「本来の役目は、実験で生まれた失敗作を始末すること。それが使徒の務めだ」
「……は? 失敗作? なによそれ」
恐怖じゃない。怒りで声が震える。
この男は人のことをなんだと思っているのか。
失敗作ですって? よくもそんな涼しい顔をして言えるものだ。神経を疑う。
それになによりも、ヤツだ。
「それじゃあやっぱり、カエラムも実験のことは知ってたんじゃない」
なにも知らないような顔をして。やっぱり全部嘘だったんだ。
込み上げてくる怒りを押さえようと、握りしめた拳までも震えてしまう。
膝に乗せた怒りを。ニクスが視線を落とし、見つけたようだ。
「いや、使徒は何も知らない。知らされていない、といった方が正しいか」
「……どういうこと?」
「言葉通りだ。使徒は……カエラムは何も知らない。ただ教会の務めを果たしていると信じている」
「意味が、分からない」
「そうだな」
そしてニクスが語りはじめる。
使徒になるためにはある試練を受けなければならないこと。その試練とは、劇薬を投与し、私が味わった地獄のような苦しみを耐え抜いた者だけが、使徒として選ばれること。
そして試練を乗り越えた者には、人智を越えた力が授けられる、と。
試練を乗り越えられなかった者は、理性を失い、ただの化け物に成り下がる。
使徒は、神に選ばれなかった者を、神に代って始末していると信じている。
いや、信じ込まされている。
「…………」
静寂だけが居座っている。
あの日、店からの帰り道。
カエラムが頭上から落ちてきた夜を、思いだす。
五十メートルもの高さから落ちてきて、一人は地面に叩きつけられてもなお生きていて。
カエラムは私の目の前で、綺麗に着地してみせた。
普通に考えればありえない話だ。
あれが……? あれが授かった力だと言いたいの?
「だが、君が投与されていた劇薬は、また別のものだ。まだ完成の目処もたたない実験途中のものでね」
理性的な声は一切変わらず、淡々と話し続けている。
私はただ、隣にいる男を呆然と眺めるしかできない。
「私もまた、表向きは教会に寄付を続ける信心深い人間の一人だが、裏では非人道的な行いに対して出資をしている、狂った男だ」
分かっているのならどうして。
言葉がでてこず、目だけで非難をする。
ニクスは私の視線を受けて、瞼を伏せた。
唇の端にはわずかに笑みがある。
そしてまた私を見た。
「本来ならば、君は標的ではなかった」




