幕開け前夜
まるで水面から顔をだしたリンゴみたいに、意識が浮かびあがってくる。
そのまましばらくぷかぷかと浮いているような、心地いいこの感覚はなんだろう。
きっと、魂が体から抜けていくときはこんな感じなんだろうな。
あんまりにもその浮遊感が気持ちいいから。目を覚ますのが惜しくて、大人しく閉じたまま。
そうすると感じる、鼓膜を指先だけで撫でていくような、……歌だ。
わたしを思いだして、と。ダーリン、と。
子守歌みたいに囁く歌声が、けれど今は切なくて、薄らと瞼を開けた。
世界はまだ輪廓を持たない。ぼんやりとしている。
それでも、世界が淡いオレンジに色づいていることは分かるし、黒い何かが見える。
いまだ不安定なものを見定めようとして、懸命に焦点を絞って、絞って。
それが、だんだん形になっていく。
瞬間、影を落とした空色の瞳を見つけてしまった。
それは瞼を開けた私に気づかず、私の眼前で縫い物をしている。
……………………え。
なぜかカエラムを下から見上げているアングルに、思考が完全に停止してしまう。
瞬きも忘れるほどに。
近くで見る手は小さく、迷いもない針さばきは止まることなく動き続けて。
──────ふっ、と。
本当に小さくふっと、その瞳が逸れた。私に。
「目が覚めた? 気分は?」
その言葉に既視感を覚える。
確かあの夜も、目を覚ました私にカエラムは、開口いちばん似たようなことを聞いてきた。
あのときはベッドの上。
そして今は、膝の上。
「っ!!」
私は飛び起きて、さっと周囲を見回した。
ラジオから流れる甘ったるい歌。
猫足のチェストにビューロー、チェアが置かれ、サイドテーブルには、──────今日は白い花が一輪、陶器の入れ物に挿してある。
そして振り向く。
そうしたら、ガラス一面に広がる宝石の夜がある。
間違いない。
私はまた、空にいちばん近い場所に来てしまった。
だけど、あのときとは全然違う。
ホログラムの空に散らばった光も、色とりどりの明るいネオンも……あの夜確かに心が惹かれた宝石の夜は、けれどなんだか不気味なものに見える。
「なんで、」
どうしてまた私はここに? どうしてカエラムがいるの? どうして、どうして。
もう言葉では追いつかないほどの疑念や疑問が押し寄せてきて、うまく形にできず喉の奥で詰まる。
きっと呆然と、宝石の夜に見惚れているように見えたのかもしれない。
呆れたような、溜め息混じりの声が、
「それはこっちの台詞だよ」
それに釣られるよう、ゆっくり顔だけをやれば。
射るような瞳が私を待ち構えていた。
一瞬、息を呑む。
そんな私を見透かしてか、一度瞼を伏せながら、カエラムは深く息を吐きだした。
「だけどその前に、気分はどう? 気持ち悪くない?」
さっきよりもわずかに砕けた音だ。
「……だい、じょうぶ」
「そう。ならよかった」
そこにあの生意気な笑顔はない。
「あんた、スラムに帰ったんじゃないの」
おもむろに、手のなかにあった完成品をそっとテーブルの上に置く。
一箇所に集められたそれを見て。
「スラム……に、帰ったわよ!」
教会、修道服の青年、白衣の男たち。
そこですべてを思いだし、弾かれたように立ち上がりソファーから離れる。
そのときテーブルに膝をぶつけてしまった。
しかし痛みをやり過ごし、テーブルを挟んで真正面から教会のクソ野郎を睨みつけた。
そこに座るヤツが、ソファーに背中を預け、裸足のままの私を少し見上げてくる。
「それじゃあ、どうしてここに?」
そう問いかけた後、馬鹿にしたように鼻で笑う。
「また娼婦に間違えられたとか?」
「なっ!」
なんなの、こいつ!
ずっと表情のなかった顔が初めて動いたと思ったらそれ?
感情に火がつく。だけど、ここで私が怒れば怒るほどヤツのペースに飲まれてしまう。
両手で固く握り締めた拳はそのまま、鼻から熱を吐きだす。
その代わり、腹の底から軽蔑していると態度で示し、低い声を発するのだ。
「ふざけないでよ、惚ける気? 全部あんたたちのせいじゃない」
「どういう意味かな?」
「はっ」
あまりにも白々しくて、思わず乾いた笑いが洩れた。
やっぱりこいつも同じだ。
まるででたらめな作り話をあたかも真実かのように話してまわる、教会の連中。そのなかの一人だ。
「どういう意味かって? 私を襲ったのは間違いなく教会の男だった。それでどうなったと思う? 目が覚めたら檻に閉じ込められていて、毎日毎日、訳の分からない薬を打たれ続けたの」
「はぁ?」
カエラムはくだらないおとぎ話を聞いたように、露骨に眉を顰めた。その反応がますます神経を逆撫でしていく。
「教会の男? まさか、それが教会の仕業だって言ってるのか?」
「だからそう言ってる! 教会はスラムの人間で人体実験をしてる。あの噂が本当だったってことでしょう?」
「………………」
次はどんなふざけた嘘を吐くのか。腹がたちすぎて瞼が痙攣してくる。




