鐘の音
あの地獄のような時間から抜けだせた安心感からか、気づけば半分、眠っていた。
「着いたぞ」
それでも完全に手放せるほど呑気じゃない。
水面のなかで聞こえた声に重たい瞼を開け、鉛が詰まっているような頭を持ち上げる。
先に乗りものを降りたベルベッドを追うよう、まったく働かない頭で私も降りる。
と、目の前には視界に収まりきらないほど、横にも縦にも大きな建物が居座っていた。
壁はどこを見ても真っ白。それを強調するかのように、建物の周りには明かりがあって。
数える気もなくすほどの窓はすべて光で白く塗りつぶされ、キラキラと眩く輝いている。
私が知っているどんな建物とも違う。
宝石の夜を見たあの部屋の外観も、呆気にとられるほど美しいものだったけれど、これは……
とにかく馬鹿みたいに広大な敷地を見渡すだけで、その格の違いを見せつけられたような気分だ。
その間は重たい頭のことも、疲れた体のことも忘れてしまうほど圧倒されていた。
これほどの物をどうやって造れるんだろう。
まさか、人の手で?
こんなに惜しみなく電気を使ってショートしないの?
信じられない気持ちでただただ見上げ続けていると、私の反応を黙って見ていただけの青年が「行くぞ」踵を鳴らしだす。
建物の扉は私の部屋よりも大きいんじゃないか。
扉の前で待ちかねていた黒いスーツの男が二人、ぴったり息の合った動きをもって、同時に片方ずつ開いてみせる。
すると一気に開けた眼前の向こうは白。
中央に階段があって、その左右には、花瓶に入れられたたくさんの赤い花が、宝石の夜とも引けをとらない輝きの下で、鮮明に咲いていた。
…………夢を見ているんだろうか。
そうじゃなきゃ、こんな光景はありえない。
ただでさえ動かない頭が軽くパニックを起こす。
なんだか、胸が苦しくなってきた。
呼吸が、…………うまく酸素が取り込めない。
「どうした、大丈夫か?」
遠くの方から怪訝そうな声が聞こえてくる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、」
だんだん体のなかが空になっていく。
息があがり、心臓がドクドクと不規則に跳ねはじめる。脈拍が乱れ、世界が歪む。
声が……! あのおぞましい声が聞こえてくる!
『今日は三目盛り増やそう』
『大丈夫なのか、そんな一気に投与して。すぐに壊れてしまうぞ』
『そうなったら始末させるだけだ。被検体はまだいくらでもいる』
血も温度も感じない、絶対零度の声だけが鼓膜の内側にべったり貼りついて剥がれない。
嫌だ、嫌だ、苦しい……っ!
膝が崩れた。
冷たくて白い床。そこに醜いほど歪んだ顔が、──────ぼさぼさに乱れた髪の女が反射している。
途端、それが自分の敵のように思え、その顔を引き裂いてやろうと両手の爪をたてる。
何度も何度もそれを掻きむしるたび、血で汚れていく。
「禁断症状か……!」
焦りを滲ませた声音が舌をうつ。そうして駆け寄ってきたベルベッドの体を突き飛ばす。
するとそれは面白いように後ろへ吹き飛んだ。
まるで小さな子どもみたいに、簡単に。
「ニクス様!」
今度は黒い服を着た男や女が数人。わらわらと吹き飛んだ体の元へ走り寄り、その内の何人かが私を押さえつけてくる。
敵だ。こいつらも全員、私の敵だ。
一度冷たい床にねじ伏せられた体はけれど、少し力を入れただけで起き上がり、男たちを払い除ける。
悲鳴が響いた。空気を切り裂くほどの。
それが自分のものだと遅れて気づいたときは絶望し、恐怖に慄く瞳に晒されては堪らなくなる。
私はその場から走った。
楽になりたくて。助けてほしくて。縋るような気持ちで走った。
苦しいのに。それなのに湧きあがってくる怒りにも似た衝動を抑えることができず、無我夢中で、でたらめに走って、走って、走った。
流れていく視界の端には、色とりどりの光が火花のように散っていく。
誰かが私を見て悲鳴をあげる。
目の前にいる人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
そのすべてにどうしようもない怒りがぐつぐつと煮えたぎる。
だめだ。だめ。
人を見てしまうと皮膚のすぐ下を這う得体の知れないものが、もっと大きく、激しくなっていくばかりだ。
理性がどろどろに溶けていくのが分かった。
けれどわずかに残ったそれが、人のいない場所へと足を向かわせようとする。
それが果たしてどこにあるのかは分からない。
心臓は今にも破裂しそうだった。でも走り続けているから苦しいんじゃない。
外は暗いはずなのに、赤い。
だんだん光が少なくなってきた。
開けた場所から狭い路地へ紛れ込んでいく。
──────そのとき、どこからともなく聞こえてきた。
何かが激しく弾けるような音が。
一度だけ鳴り響いたそれは、しばらく残響していた。
私はそれが何かを知っている。
あれなら私を救ってくれるかもしれない。
まるでそれが唯一の光のように思えて。
まだ残響して震えている空気のなか、導かれるように、私は走った。




