休息
ニクスと呼ばれた青年が、白衣の男と揉めている。
だけど私には関係ない。どうでもいい。
ただ歌い続ける。
「………………分かりました」
諦めたような、絞りだした声が落ちた。
白衣の男がポケットから鍵を取りだし、カチャ。軽い音が鼓膜にあたる。
「やめて……っ。もうなにもしないで!」
恐怖で体を縮こませている間に檻が開き、ベルベッドの腕が私へ向かって伸びてくる。
「いや……っ!」
訳の分からない薬を投与されるのはもう嫌だ。
いくら後ろへ下がろうとしても、鉄の檻がそれを阻み、逃げられない。
腕は宙を浮いたまま。
持ち主は、柔く微笑んでみせた。まるで、泣きだす前みたいな、歪んだ表情で。
そして落ち着いた声音で囁くのだ。
「大丈夫だ。君が怖がるようなことは何もしない」
「………………」
信じてもいいのか。真意を赤い瞳のなかから探っていると、「触るぞ」ゆっくり腕が動きだし、今度こそ私の肩を掴んだ。
壊れものに触れるみたいにして、柔く。
薄い生地の上から伝わる体温は、少し高い。
それは確かに血の通った人間のものだ。どこか機械のように見えていた白衣の男たちとは違う。
促されるまま、よろよろと立ち上がる。
力がうまく入らない私の体を支え、青年は左右に開く扉を抜けていく。
その隣の部屋には檻の数だけ机が並び、それまでモニターを睨んでいた白衣の男が一人。
ふっと視線をこちらへ寄越して驚く。
そしてとっさに椅子から立ち上がったものの、青年が視線だけで制すると、白衣の男は何も言わず、けれどずっと戸惑った眼差しで見送っていた。
部屋をでてからは真っ白な廊下を歩き続けた。扉が左右にいくつも並んでいた。
ロビーのような場所を抜け、大きな自動扉をでて行く。
外は暗かった。
どこかほっとするほどの、ぽつぽつとした暖色の明かりが色づいている。
久しぶりに……本当に久しぶりに感じた外の空気と解放感は、けれど慣れ親しんだものとはまったく違った。
スラムのケーキが腐った酸っぱいものでもない、消毒薬に紛れ込む腐敗臭でもない。
澄んだ空気と共に、かすかに花の香りが混ざっている。
どこだったかも分からない、──────知りたくもない場所をでると、すぐに目の前に横づけにされた、縦に長い黒塗りの乗りものが停めてあった。
私たちが近づくと後ろのドアが勝手に開く。前の席に座っているスーツ姿の男が何かしたんだろうか。
青年が先に私を乗せると、その隣に自分も乗り込んでくる。
私はもうあの地獄を見なくてもいいの?
この男を信用してもいいのか。
どうして私を連れだしてくれたの?
…………疲れた。
頭も、体も。何もかもが限界だった。
目が回ったようにふらふらする。
左側の席にいたスーツ姿の男が、ハンドルのようなものを握る。
静かにすーっと動きだした乗りものの名前は知らない。
だけど座り心地がとてもよく、体が沈む。
そのせいか余計に頭を真っ直ぐ支えていることができず、こてん。
と、一瞬、青年の肩に頭を預けてしまう形になった。
けれどどこの誰かも分からない相手なのだ。
それを必至に持ち上げる。
「構わない」
隣からふっと笑う気配がした。
「疲れただろう。私の肩でよければ使ってくれ」
ふわりと顔の前を遮る右手。硬い声音とは正反対に、優しい手つきが私の頭を引き寄せる。
これがいつもの私なら、絶対に言われるがまま知らない相手に身を預けるなんてしない。
でも、その手を振り払って突き飛ばすことがどうでもいいと思えるほど、疲れていた。




