射る
宝石の夜は、だけど時間が経てば経つほどに、強烈な光を増して、記憶のなかで輝きを放つ。
あの夜、私は確かに早くこの場所に帰りたいと願うような気持ちを抱いていたのに。
どうしてだろう。
戻ってきたはずの日常は、以前にも増してモノクロだ。
お決まりのピアノ。お決まりの歌。それを、お決まりの客の前で一緒に歌う。
私にはきっとお似合いの、赤い安物のドレスで。
「そういやアイツはどうした? 最近あの汚ねぇ面を見てないが」
「ああ。そういやそうだな。どうせどっかで野垂れ死んでんじゃないのか」
歌が途切れた。
ぽろんぽろん、と。ピアノのソロパートに変わったところで、大騒ぎしている男たちの声に被せるよう、ひと際大きな話し声が聞こえてきた。
──────アイツ。
いつもステージの真ん前で指笛を鳴らし、「歌より脱いでくれよ」と、飽きもせず毎度同じセリフを浴びせてくる常連客のことだ。
もう一週間になる。
あの夜の次の日、上の人間に絡んでいたところに声をかけた日には店に来ていたけれど、その次の日からぱったり来なくなった。
相変わらず誰も私の歌は聞いていないし、男たちはこの世の恨み辛みを吐きだしたり、とても口にはできない冗談で笑ったりと騒々しい。
でも、いくぶんか静かだ。
「──────攫われたんだよ」
間奏が終わった。
私が歌いだすまで一拍、間があった。
一人で静かに酒を飲み続けていた、別のテーブルにいた客の言葉に一瞬、店のなかがしんと静まった。
「教会に攫われたんだ。きっと今ごろネズミになってるさ」
「抱いて」「壊して」私の歌声がはっきりと鳴り渡る。
次の瞬間、どっと笑い声が満ち満ちた。
私の歌をかき消すほど。
「そうかよ、ネズミにな。あんな図体のでかいネズミなら、実験しがいもあるだろうぜ」
「わはははははっ! いつも施しにケチつけるからだ。目ぇつけられたのかもしれねぇな!」
今夜はそれがツマミの代わり。
男たちのなかで妙な一体感が生まれているのを尻目に、私は一人仕事を終え、いつものようにカウンターに立っているマスターに声をかける。
黙って頷くのを見て、裏口から出て行く。
「どうせどっかで野垂れ死んでいる」
客の言葉を思いだして、私もきっとそうだと思ってしまう。
あの常連客は毎晩、顔をだしていた。
出禁にされることを嫌がっていたくらいだ。突然、唯一の娯楽に飽きた、とは考えにくい。
それなのに姿を見せなくなったなんて、男の身に何かが起きた。そう考えるほうが自然。
だけどそんなのは珍しい話じゃない。
いつも見ていた客がいつの間にか来なくなって、ある日、道端でカラスに突かれていたなんていう光景は、スラムじゃあ日常茶飯事。
腐った風を切り、土の上を歩く。癖みたいなものだ。
家にいるから安全とは言い切れないが、外はそれ以上に危険なのだ。いつ、面倒事に巻き込まれるか分かったものじゃない。
だから走るように歩く。
──────と、ピタリ。足が止まった。
あの日、あの夜。
頭上から人が落ちてきた場所で。
あれから癖がもう一つ増えた。無意識に足を止め、上を見上げしまう、最悪な癖が。
そうしたところで昨日と変わらないのに。
真っ暗なホログラムの空の切れ端があるだけ。レプリカのお星さまはまったく見えない。
偽物たちが、上にいる人間たちと同じように私たちを見下ろしているだけ。
明日も、きっとそう。
「………………」
自分を鼻で笑い、頭を戻した。真っ直ぐに。
はっと息を呑んだのは、狭い路地を塞ぐように人が立っていたからだった。
それも、修道服を着た青年が。




