金糸の行方
ドアを開けると薄闇のなか、仏頂面が立っていた。
シャツとパンツ。ラフな私服姿は店で見るよりも随分、若く見える。
片手に紙袋を抱え、私を拾ってくれたあの日と同じ低い声が一言。
「飲むか?」
小さなアルミ袋を一つ、差しだした。
「うん、いつもありがとう」
右手で受け取る。
と、そこへ下がった視線が不意に上を向く。それが、私の肩越しに遠くを見ていることに気がついた。
その視線を辿って後ろを振り向けば、綺麗に整理されたとは言えないキッチンが見えるかもしれない。
「……片付けるつもりよ」
念のため。何も言われていないし、直接指摘されたことはないけれど、マスターが几帳面な性格だということだけは知っている。
だから、掃除をサボってしまった日は何だか気まずい。
その心の内を見透かされてしまったのか。
表情に変化はないけれど、マスターは瞼を伏せ、頭を緩く左右に振った。
「いや、すまない」
無機質な瞳が戻ってきた。
「邪魔したな」
マスターは早々に背を向け、薄闇のなかへ溶け込もうと動きだす。
「ありがとう、気をつけて!」
慌てて声をかける。けれどその背中が振り向くことはないし、反応もない。ただすっと消えていった。
ドアを閉め、ないよりはあった方がマシ。その程度の鍵を右へ回す。
アルミ袋を片手に振り向く。と、ちょうどルーシーがシンクにコーヒーカップを置いているところで。
「あっ」ふと、調味料が並んだ辺りに落ちた視線が、何かに気づき、声をあげた。
「これ、あたし知ってる!」
無邪気に弾んだ音が、手を伸ばし、指先でひょいと摘んだもの。
それは、お守りだった。
「知ってる?」
「うん。教会の人が配ってるヤツだよね?」
「そう、みたいだね」
お星さまに願いをかける、だっけ。
私はまったく知らなかった。
「それにね、うちのマダムもお気に入りのお客にプレゼントしてるの」
「プレゼント?」
「そうなの。あたしと同じで意外とカミサマとか信じてる人なんだよ。何だっけ。教会のリネン? にサンドーしてる。とか言ってたし」
「へぇ。珍しい人だね」
スラムであの黒い噂を知らない人は、そういない。
ましてや娼館のマダムが何も知らないとは思えない。
それなのに、好意的な人もいるんだ。
偽善者と。教会への罵詈雑言をツマミに酒を飲み、施しを受けながら唾を吐き捨てる人たちをたくさん見てきた。
私も、教会に対しての不信感は拭えない。
ここで暮らす人はみんなそうだと思っていたから、マダムの話はかなり意外だし、正直驚いた。
「カミサマ」と、おまじないみたいに口にするルーシーも、教会を信じているマダムも、彼女たちはまるで少女のような清らかな一面を失わずに持っている。
そして同時に、脆い。
と、そう感じてしまう。
「だけどマダムのお気に入りのお客って、上の人間でしょう? そんなものを貰って喜ぶの?」
きっと欲しいものは何でも金で手に入れられる連中だ。言葉は悪いけれど、そんな子ども騙しみたいなもので喜ぶとはどうしても思えない。
「さあ。喜んでるかは分からないけど、いつも笑って受け取ってくれるよ」
指先で摘んだままのお守りを、彼女は目線の高さまで持っていく。それからまじまじと眺めはじめた。
ひっくり返してみたり、横から見たり。
いったい何をしているんだろう。黙ってその行動を見ていると。
「でもこれ、すごく綺麗にできてるね」
持ち上げたものはそのまま、顔をこちらに向けて、感動しているような、生き生きとした瞳とかち合う。
「店で配ってるものは、もっと縫い目が雑なんだ」
不意に思いだす。
修道服を着た膝の上で、ちくちくとお星さまを縫い続けていた姿を。
「これを作った人は、きっとマリアの幸せを祈って、ひと針ひと針、丁寧に作ったんだろうね」
──────勘弁してほしい。
追い払っても追い払っても、脳裏を過ぎる金糸。
私をからかって笑う、生意気な笑み。
それから、宝石の夜。
『いつかあんたが劇場に立つ日が来たら教えてよ』
私をバカにするために言ったんだと思った。
だけど鼓膜に残っていた声は、本当にそんな日が来ると信じている。
少しも疑うことを知らない、純粋な祈りに聞こえるなんて、勝手に記憶を美化しないで。
違う。絶対に違うんだから。
「…………やめてよ。そんなんじゃない」
纏わりつく記憶が心のなかにまで手を突っ込み、かき混ぜてくるようで。気持ちがざわつく。
だけどその奥の方から確かな嫌悪が顔をだせば、少しだけほっとするのだった。




