燻る兆し
無造作に並べた調味料と一緒に、ぽいっと置いただけのお守りを一瞥する。
「それで、彼氏がどうしたの」
だけど次の瞬間には、頭の片隅から追い払って、コーヒーカップを左右の手に持ちながら、ルーシーの隣に腰を落とし、問いかけた。
ルーシーの分は砂糖とミルクが多め。それを両手で受けとり、「そうそう!」思いだしたように、リップで濡れたような唇を開く。
「聞いてよぉ、彼ってばね、あたしの仕事を理解したうえで、あたしのことを愛してるって言ってくれてたの。全部受け止めるって。それなのにね、昨夜いきなり仕事をやめてくれって言いだしたんだよ? あたしのことは今でも愛してるけど、やっぱり他の男を相手にする仕事は耐えられないって」
「仕事を?」
彼女の、もう何番目かも分からない彼氏とは面識がない。
ルーシーが言うには、暴力もされないし、今の彼は優しくていい人。なのだとか。
色々と話を聞いている身としては、少し面倒な男だな。等と思わないでもないけど、恋愛をしたことがないわたしにアドバイスできることなんか何もないから、いつも話を聞くだけしかできない。
一人でいる時間、どこで何をして、どんなことを考えていたのか。
そんなことを二人で会ったときに報告しなきゃいけないなんて、私だったら付き合いきれない。
だけどルーシーは、それを愛されていると感じて嬉しいらしい。
私も誰かを好きになったらそう思えるのか。
想像したことはあるけれど、結局行きつく答えはいつも同じ。
私には一生、縁のないもの、だ。
「そうなの。ひどくない?」
今にも泣きだしそうな顔を見て、「うん」相槌をうつ。
コーヒーカップに口をつけると、ピリピリした苦味が口の中に広がっていく。
「彼だって、ここで仕事を見つけるほうが難しいって分かってるはずなのに。稼ぎのことをとやかく言うつもりはないけど、彼も朝から晩まで屋台に立ち続けて何とか一人で食べていける暮らしなんだよ? あたしが今の仕事をやめたら、どうやって家族を養えばいいの?」
「確かに、そうだよね」
ルーシーが深い溜め息を吐きだした。
それからゆっくりと両手で包み込むようにして持ったコーヒーカップに口をつける。
「おいしい」ぽつりと溢した後、少し冷静になったみたい。
彼女は遠くを見つめ、おもむろに口を開いた。
「彼の言いたいことも分かる。本気であたしを愛してくれるからこそだって。あたしだってお金のことを考えなくていいなら、もっと他の仕事をしてたと思う。だけど、現実はそうじゃないから」
「うん。彼は理解してくれたの?」
「ううん。愛があればお金なんてなくてもいいって言うの。でも愛だけじゃお腹は膨れないし、生活できないじゃない。そう言ったら彼、ルーシーはやっぱり娼婦なんだね。だって! 別れてやったわ」
ルーシーは暫くケラケラと笑っていた。
何でもないことなんだと。まるでちっとも傷ついてなんかいないと言う風に。
スラムで暮らしていて、お金より愛が大事だなんて。
本気で言えるほど彼氏が呑気な人間なのか、それとも恋が、人をそうさせてしまうのか。
「……そう」
ただそれだけしか言えない自分がもどかしい。
でも、他にかける言葉も見つからない。
黙り込んでコーヒーを飲み続ける私の様子を窺うような大きな瞳が、明るい笑顔を咲かせてみせた。
そして、天を仰ぐ。
「あーあ。あたしもマリア・カラスみたいに、ある日突然、王子様が現れたりしないかなぁー」
「マリア・カラス?」
「そう、知ってる?」
ソファーに後頭部を預けたまま、完全に吹っ切れた様子の瞳が問いかけてくる。
「まあ、聞いたことはある。伝説の歌手でしょ?」
同じ名前だという理由で、よくからかわれた。
だから余計に自分の名前が嫌い。
「そう! 憧れちゃうなぁ。あたしたちと同じスラムで生まれ育ったのに、偶然マリアの歌を聞いた王子様に見初められて、歌手になる夢を叶えたなんて、ロマンチックだよねぇ」
「王子様って……ただ空に近い場所で暮らしてるだけの、歳の離れたお金持ちってだけでしょ」
「でもマリアにとっては王子様だよ。夢ごと愛してくれる人が現れたら幸せじゃん!」
「そうなの?」
「そうだよぉ。はぁぁぁ。毎日こんなに頑張って生きてるんだから、死んじゃったカミサマはお願いごとのどれか一つぐらい叶えてくれてもいいじゃない」
「お願いごと……」
その言葉に、追い払ったはずのモノと一緒に金色の髪をしたヤツが脳裏をよぎった。
私は、死んでしまったカミサマなんて信じていない。
願っているだけでいつの間にか願いが叶うなんて、そんな都合のいい話があると思わない。
『信じるものは救われる』教会の連中は口を開けば人の柔い部分を擽るような言葉ばかり並べるけど。
でも、ルーシーがそうだったらいい。と、そう口にする気持も分からないわけじゃない。
こうして友人と話している間くらい、現実を忘れたくなる彼女の気持ちは、お金持ちサマから聞かせられる夢物語より、理解できる。
だから、どんな王子様なら嬉しいか。そんなことを子どものように喜々として語る声に耳を傾け、ピリピリとした苦味を味わっている。
と、不意に部屋のドアがノックされた。
軽く、ゆっくり、三回。
その癖には心当たりがある。
私はすぐに立ち上がると、空になったコーヒーカップをシンクに置いてから、薄いドアを開けた。




