薫る思い出
「あ、おかえり」
ネオンの明かりが薄らと暗闇を払うなか、小柄な体がゆらりと立ち上がり、鼻にかかった甘い声が、右手を振っているのが見えた。
「ルーシー? どうしたの?」
コンクリートが剥がれ落ちた階段を上る。
私の唯一の友人は、仕事帰りなのか、ビスチェに短いスカート。ガーターベルトに、踵が細いハイヒール。
それでちょうど私と同じ目線になる小柄な彼女は、「えっ」私を見て驚いた。
「どうしたの、その服。めちゃくちゃかわいい。どこで見つけてきたの?」
無邪気に語気を弾ませながら、大きな瞳で全身を眺めてくる。
スラムで暮らす人間は、嫌でもみんな夜目がきく。
だから薄い暗闇のなかでもはっきりと分かった。その瞳が輝いていることに。
ルーシーは、娼婦だ。
明日食べるものにも困るようなスラムで、女を買うほど余裕のある人間がいるのかと思っていたけど、ルーシーの話じゃあ客のほとんどが、上で暮らす男たちらしい。
でもそういった客は大概、特殊な性癖をもった連中が多く、「金払いはいいんだけどね」と、苦笑していたルーシーを思いだす。
はじめてルーシーと出会ったときも、しつこい客に言い寄られている彼女に声をかけたことがきっかけだった。
「ちょっと色々あって。それよりいつから待ってたの?」
「んー、そんなに待ってない。五分くらい?」
あからさまに話題を逸らしたせいか、ルーシーはそれ以上、何も言わなかった。
ただ顎に人差し指をあて、左右に首を傾ける。
それから思いだしたように、愛らしい顔の前でパチンと両手を叩き、駄々をこねるみたいな声をあげた。
「ねー聞いてよマリア、彼ってばひどいんだよー」
同じ死んだ街で生まれたのに、私とは違って捻くれていないし、愛嬌もあってまっすぐ。
母親と年の離れた弟をひとりで養う彼女に欠点があるとすれば、それは間違いなく男を見る目がないこと。ただそれだけ。
「分かった。話は聞くから中に入って」
外で立ち話なんて、ここでは命取りだ。
ネックレスみたいに首から下げた鍵を取り、薄っぺらいドアを開ける。
電気の供給が不安定だから、明かりがつくかは運次第。
つかなければマッチでランタンに火をつけて回らなきゃいけないけど……
壁に取りつけられたスイッチを押す。
明かりがつかず、今日は駄目な日か。溜め息が洩れる。
だけど数秒後、遅れてやんわりとした控えめなオレンジ色がワンルームの、ほとんど何もない部屋に滲む。
よかった。電気がきているなら唯一の友をもてなすことができる。
「ねぇ、コーヒーがあるんだけど飲む?」
ベッドに2人掛けのソファー、いちおう小さな箱型のテレビ。
たったそれだけで窮屈な部屋。ルーシーはいつものように迷わずソファーの端に腰を下ろした。
「え? コーヒー? 飲みたい! よく手に入れられたね」
「ときどきマスターが分けてくれるの」
「へぇぇ。どうやって買いつけてるんだろう?」
「さぁ。そういうことは何も教えてくれない」
「ううん、相変わらず謎が多い人だねぇ」
唸るような声が背後から聞こえてくる。
いくら考えたところで答えは分からないのに。ルーシーは探偵気取りで、「実はどこかのお坊ちゃまとか?」「上にいる凄い人と繋がってたりして」等と、ひとりで楽しそう。
いつも口数が少なく、それなりに長い付き合いがあっても、笑った顔さえ見たことがない。
思えば、何も知らない事実を、コーヒーの香りと一緒に吸い込んで。
「んーーーいい香り」
ルーシーが堪能するように、思いきり鼻で香りを吸い込む。
マスターは、確かに謎ばかりだ。名前だって知らない。
施設の決まりで、十五歳で施設を出たあと、仕事は見つからず、住む家もなく、しばらく路上で生活をしていた。
空腹は歌で紛らわした。
ときどき気紛れに、私の歌を聞きコインを入れてくる人もいた。
そんな生活を数ヶ月と続けていたとき、「店で歌わないか」と、声をかけてくれたのがマスターだった。
カミサマじゃない。
あの人が、私の命の恩人。




