第九話 あなたは、信用を失いました
第九話 あなたは、信用を失いました
四月の東京は、桜が散り始めていた。
淡い花びらが雨に濡れ、歩道へ張り付いている。
成瀬湊は、九条ホールディングス本社ビルを見上げていた。
以前なら警備員たちは深々と頭を下げ、専用エレベーターへ案内しただろう。
だが今は違う。
自動ドアの向こうで、受付スタッフたちが緊張した顔をしている。
湊はネクタイを緩めた。
数日まともに眠っていない。
頬は痩け、髪も乱れていた。
成瀬家からは事実上の勘当。
役員権限停止。
個人口座凍結。
さらに梨花の借金問題。
世界が崩れる音を、毎日聞いている気分だった。
だが、それでも。
梓なら話を聞いてくれるかもしれない。
そう思ってしまった。
いや。
思いたかった。
エントランスへ入る。
大理石の床が冷たく光っている。
吹き抜けには静かなピアノ曲。
花の香り。
磨き上げられた空間。
昔、梓が言っていた。
『信用とは、空気みたいなものです。失って初めて価値が分かる』
あの時は意味が分からなかった。
今なら分かる。
受付へ近付く。
「……成瀬様」
女性スタッフの顔が引きつった。
「九条に会いたい」
「申し訳ございません」
即答だった。
「アポイントが確認できません」
「急ぎなんだ」
「ですが」
「頼む」
湊は初めて頭を下げた。
「一回でいい。話したいだけなんだ」
受付スタッフが困ったように視線を泳がせる。
そこへ、低い声が響いた。
「お引き取りください」
空気が変わる。
黒いスーツ姿の男。
真壁恒一だった。
銀縁眼鏡の奥の目は冷たい。
「真壁……」
「九条様は、今後一切の私的接触を拒否されています」
事務的な声。
湊は唇を噛む。
「……一分だけでいい」
「お断りします」
「俺、ちゃんと謝ってないんだよ」
「必要ありません」
真壁は即答した。
「九条様は、謝罪を求めておりませんので」
その言葉が胸へ刺さる。
謝罪すら必要ない。
つまりもう、感情の土俵にすら立っていない。
「……俺、間違ってた」
湊の声が震える。
「梨花のことも、全部……」
「でしょうね」
真壁は淡々としている。
「ですが、それを九条様へ報告する義務はありません」
「っ……」
「あなたは既に“関係者”ではないので」
冷たい。
だが正しかった。
湊は拳を握る。
「梓は……元気なのか」
真壁がわずかに目を細める。
「業務に支障はありません」
それだけだった。
泣いているかもしれない。
苦しんでいるかもしれない。
そんな期待すら許されない。
湊はそこでようやく気付く。
梓はもう、自分を人生から完全に切り離している。
その時だった。
真壁が封筒を差し出した。
「なお、こちらを」
「……何だよ」
「追加請求書です」
湊の顔が引きつる。
「追加……?」
「信用毀損による二次損害が発生しました」
真壁は淡々と説明する。
「婚約破棄騒動に伴う共同事業停止、取引先損失、ブランド価値毀損――」
「待てよ……」
「合計三千六百万円」
頭が真っ白になる。
「……そんな」
「正式書類は後日送付します」
「もうやめてくれ……」
湊は掠れた声を漏らした。
「もう十分だろ……」
真壁は静かに湊を見る。
「十分?」
「……」
「九条様は、一度でもあなたへ感情的報復をしましたか」
答えられない。
「契約に沿って処理しているだけです」
「でも……っ」
「あなたは、契約を軽視した」
低い声。
「その結果、信用を失った」
受付ロビーは静まり返っていた。
社員たちが遠巻きに様子を窺っている。
かつての御曹司。
誰もが羨む立場だった男。
それが今は、受付で立ち尽くしている。
湊は震える手で封筒を受け取った。
重い。
紙のはずなのに、鉛のようだった。
「……梓は」
最後のように呟く。
「本当に、俺に会わないのか」
真壁は数秒黙っていた。
そして懐から一枚の紙を取り出す。
「伝言です」
湊の目が揺れる。
震える手で受け取る。
そこに書かれていたのは、たった一文だった。
『あとは弁護士を通してください』
それだけ。
名前もない。
感情もない。
謝罪への返答も、
恨みも、
怒りも。
何一つない。
湊は紙を見つめたまま立ち尽くした。
遠くでエレベーターが開く音。
社員たちの足音。
春雨の匂い。
全てが妙に遠い。
その瞬間、ようやく理解した。
梓はもう、自分を“恋人”として見ていない。
未練すらない。
そこにあるのはただ一つ。
損害。
契約。
回収。
つまり自分はもう、“損失案件”なのだ。
胸の奥が、空洞みたいに冷えた。
湊はゆっくり視線を落とす。
磨き上げられた大理石の床へ、桜の花びらが一枚、雨に濡れて貼り付いていた。
まるで、踏み潰された何かの残骸みたいだった。




