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第十話 契約終了後、自由を獲得しました

第十話 契約終了後、自由を獲得しました


 秋の風が、庭の木々を静かに揺らしていた。


 赤く染まり始めた楓の葉が、さらさらと音を立てて石畳へ落ちていく。


 都心から離れた山間の邸宅。


 朝霧の残る広い日本庭園には、小さな池と白い飛び石があり、水面には金色の鯉がゆったりと泳いでいた。


 九条梓は縁側へ腰掛け、静かに紅茶を口へ運ぶ。


 アールグレイの香りが、秋の冷えた空気へゆっくり溶けていく。


 遠くで鹿威しが鳴った。


 こん、と乾いた音。


 都会では聞こえなかった静けさだった。


 梓は目を細める。


 半年。


 たった半年で、人生は驚くほど変わった。


 東京を離れたのは春の終わりだった。


 婚約解消。

 違約金請求。

 共同事業整理。


 全ての手続きを終えたあと、梓は九条家所有のこの別邸へ移り住んだ。


 誰にも居場所を知られていない。


 電話も必要最低限。


 予定を他人へ合わせる必要もない。


 急な呼び出しも、

 「寂しい」の一言も、

 無断侵入もない。


 穏やかだった。


 驚くほど。


 むしろ以前の自分が、どれほど消耗していたのかを、今になってようやく理解する。


「寒くありませんか」


 背後から低い声がした。


 振り返ると、真壁恒一が立っていた。


 相変わらず隙のない黒スーツ姿。


 だが都会の会議室で見る時より、どこか柔らかい空気を纏っている。


「平気です」


 梓は微笑む。


「真壁さんこそ、長旅お疲れ様でした」


「仕事ですので」


 真壁はそう言いながらも、少しだけ肩の力を抜いた。


 使用人が新しい紅茶を置いていく。


 湯気がふわりと立ち上る。


「ご報告があります」


「ええ」


 梓はカップを置いた。


 真壁は革鞄からファイルを取り出す。


 だが以前のような緊張感はなかった。


 もう“戦闘”は終わっている。


「成瀬氏ですが、現在も借金返済中です」


 梓は静かに頷いた。


「そうですか」


「役員権限は正式に剥奪。現在は関連会社へ出向扱いとなっています」


 秋風が梓の髪を揺らす。


「佐伯梨花氏は?」


「詐欺容疑については示談成立。ただし債務整理中です」


 真壁は淡々と続ける。


「現在、複数の支払い遅延が確認されています」


 梓は池の水面を見つめた。


 揺れる紅葉。


 静かな波紋。


 もう感情は動かなかった。


 怒りも、

 憎しみも、

 後悔も。


 全部、遠い。


 真壁が少し視線を和らげる。


「……気になりませんか」


「何がです?」


「成瀬氏のことです」


 梓は少し考えた。


 そして穏やかに答える。


「いいえ」


 本当にそうだった。


 以前なら、湊から連絡が来ないだけで予定を気にしていた。


 梨花の存在に胸を痛めた。


 だが今は違う。


 朝は静かな庭を歩き、

 本を読み、

 仕事を整理し、

 好きな時間に眠る。


 誰かの感情に振り回されない。


 その平穏が、何より心地よかった。


「真壁さん」


「はい」


「私は、ようやく理解しました」


「……」


「自由って、誰かに愛されることじゃなかったんですね」


 真壁が静かに耳を傾ける。


「誰にも、自分の境界線を壊されないことだった」


 秋風が吹き抜ける。


 木々が揺れ、赤い葉が一枚、梓の膝へ落ちた。


 梓はそれを指先で摘まむ。


 薄く、軽い。


 まるで昔の感情みたいだった。


 真壁が静かに言った。


「成瀬氏、最後まで九条様へ会いたがっていました」


 梓の手が止まる。


 だがそれだけだった。


「そうですか」


「……会われなくて良かったのですか」


 長い沈黙。


 池の水音だけが響く。


 やがて梓は、小さく微笑んだ。


「ええ」


 柔らかな声だった。


「もう終わった契約ですから」


 その表情に苦しみはない。


 ただ静かな終息だけがあった。


 真壁はそれ以上何も言わなかった。


 代わりにファイルを閉じる。


「では、回収業務は予定通り継続します」


「お願いします」


「承知しました」


 事務的な会話。


 けれど不思議と穏やかだった。


 梓は再び紅茶を口へ運ぶ。


 香り高い湯気が頬を撫でる。


 空は高く澄み、雲がゆっくり流れていた。


 都会の喧騒も、

 裏切りも、

 泣き声も、

 もうここには届かない。


 梓は静かに庭を眺める。


 風が吹く。


 木々が揺れる。


 そしてその胸には、ようやく本物の静寂が訪れていた。


 もう怒りすら残っていない。


 ただ、契約が正常に終了した。


 それだけだった。


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