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第八話 家族ごっこは終了です

第八話 家族ごっこは終了です


 三月の雨は冷たかった。


 成瀬湊は、灰色の空を見上げながら車のドアを閉めた。


 成瀬グループ本社。


 かつて自分が誇らしく見上げていた高層ビルは、今は妙に遠く感じる。


 玄関前で社員たちが頭を下げる。


 だがその目は、以前とは違っていた。


 同情。

 困惑。

 そして噂を見る目。


 婚約破棄。

 違約金二億。

 資産差押え。


 ここ一か月で、湊の周囲は一気に崩れ始めていた。


「専務」


 秘書が青ざめた顔で駆け寄る。


「銀行側から再度連絡が……」


「あとにしてくれ」


「ですが」


「あとでいい!!」


 思わず怒鳴る。


 周囲が静まり返った。


 湊は舌打ちし、そのまま役員専用エレベーターへ乗り込む。


 鏡に映る自分の顔が酷かった。


 目の下の隈。

 無精髭。

 乱れたネクタイ。


 眠れていない。


 ここ数日、電話が鳴り止まなかった。


 銀行。

 弁護士。

 父。

 株主。


 誰もが責任を求めてくる。


 そのたび湊は思う。


 なぜこんなことになったのか、と。


 ただ梨花を放っておけなかっただけだ。


 家族みたいな存在だった。


 困っていたから助けた。


 それだけなのに。


 エレベーターが止まる。


 役員フロアへ出ると、重苦しい空気が漂っていた。


 会議室の扉が開く。


 中では父・成瀬隆一が険しい顔で座っていた。


「来たか」


 低い声。


 机の上には大量の資料。


 赤字で印刷された数字が並んでいる。


「九条側との共同案件、完全停止だ」


「……」


「株価も下がった。銀行も融資を渋り始めてる」


 湊は唇を噛んだ。


「梓がやりすぎなんだよ」


 その瞬間。


 隆一の拳が机へ叩きつけられた。


「まだ分からんのか!!」


 会議室が震える。


「九条梓は感情で動いていない!」


「……」


「お前が契約を軽視した結果だ!」


 湊は顔を歪めた。


 理解したくなかった。


 梓がこんなに冷たい女だったなんて。


 だが同時に、胸の奥では分かっていた。


 彼女は最初から何度も警告していた。


 線を引けと。


 責任を持てと。


 自分はそれを、全部“冷たい”で済ませた。


「……梨花は?」


 隆一が吐き捨てるように言う。


「まだあの女を庇う気か」


「関係ないだろ」


「ある」


 隆一は一枚の封筒を投げた。


「見ろ」


 机へ散らばる写真。


 湊の目が止まる。


 ネオン街。

 派手な男たち。

 ブランドバッグを抱えた梨花。


 ホストクラブだった。


「……なんだよ、これ」


「調査報告書だ」


 隆一の声は氷のように冷たい。


「佐伯梨花。ホストクラブへの年間支出、推定三千万」


 湊の顔色が変わる。


「嘘だろ……」


「さらに消費者金融七社から借入」


「……」


「ブランド品転売履歴あり」


 頭が真っ白になる。


「待てよ……梨花はそんな子じゃ」


「現実を見ろ」


 さらに資料が投げられる。


 スマートフォン画面のスクリーンショット。


 裏アカウント。


 そこに映っていた文字を見た瞬間、湊の呼吸が止まった。


『梓マジうけるw』

『真面目ちゃんって搾取しやすーい』

『お兄ちゃんちょろすぎ♡』


 指先が震える。


「……なんだよ、これ」


「本人の投稿だ」


 胃の奥がひっくり返る感覚。


 頭の中で、梨花の笑顔が崩れていく。


 寂しいと泣いていた顔。

 不安そうに縋ってきた姿。


 全部。


 演技だったのか?


「あとだ」


 隆一が最後の紙を置く。


「妊娠検査」


 そこには、病院名と結果。


【妊娠反応なし】


 湊の視界が揺れた。


「……嘘」


「最初からだ」


 会議室の空気が重く沈む。


 湊は椅子へ崩れ落ちた。


 耳鳴りがする。


 あれだけ庇った。


 梓を傷つけてまで守った。


 その結果がこれなのか。


「……梨花」


 気付けば、立ち上がっていた。


 気が付くと車を飛ばしていた。


 雨の高速道路。


 ワイパーが激しく動く。


 赤信号すら滲んで見えた。


 向かった先は、梨花のマンションだった。


 ドアを叩く。


「梨花!!」


 返事はない。


 さらに叩こうとした瞬間、中から笑い声が聞こえた。


 男の声。


 知らない声。


 湊の動きが止まる。


 やがてドアが開いた。


 梨花だった。


 だがその姿を見て、湊は凍り付く。


 派手なメイク。

 露出の多い服。

 そして背後には、若い男がソファへ座っていた。


「……お兄ちゃん?」


 梨花は露骨に嫌そうな顔をした。


「何しに来たの」


「何って……」


 湊の声が掠れる。


「これ、どういうことだよ」


「は?」


「妊娠、嘘だったのか」


 一瞬、沈黙。


 そして梨花は盛大にため息を吐いた。


「あー……それ?」


 悪びれもない。


「だってああでも言わないと、お兄ちゃん梓さんのとこ戻りそうだったし」


 頭が真っ白になる。


「お前……」


「ていうかさ」


 梨花は苛立ったように髪をかき上げた。


「いつまで来る気?」


「……え?」


「お兄ちゃんもう金ないじゃん」


 その言葉が、胸へ突き刺さった。


 梨花は鼻で笑う。


「だって、お兄ちゃんもう価値ないし」


 静寂。


 雨音だけが響いている。


 湊は立ち尽くした。


 理解できなかった。


 いや。


 本当はずっと気付いていたのかもしれない。


 ただ認めたくなかった。


 梨花は自分を必要としていたわけじゃない。


 金。

 居場所。

 都合のいい依存先。


 それだけだった。


 背後で男が笑う。


「誰、この人?」


「昔の財布」


 その瞬間。


 湊の中で何かが完全に壊れた。


 家族。


 絆。


 守らなければならない存在。


 そう信じていたものが、音を立てて崩れていく。


 冷たい雨が吹き込む廊下で、湊はただ立ち尽くしていた。


 そして初めて理解する。


 自分は誰も救えていなかった。


 ただ、自分の甘さで全てを壊しただけなのだと。



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