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第七話 債権回収を開始します

第七話 債権回収を開始します


 二月の東京は、骨まで冷えるような雨だった。


 高層ビルの窓を叩く雨粒が、細い線となって夜景を滲ませている。


 九条ホールディングス本社。

 二十八階、資産管理室。


 室内には静かなクラシックが流れていた。


 暖房は効いているはずなのに、空気は妙に冷たい。


 九条梓は大型モニターの前で、淡々と書類へ目を通していた。


「成瀬グループとの共同運営ファンド、停止完了しました」


 若い社員が緊張した声で報告する。


「関連株式の売却指示も終了しております」


「ご苦労様です」


 梓は視線を上げない。


 白い指先で書類を一枚めくる。


 そこには成瀬グループの株価推移。


 すでに市場では噂が流れ始めていた。


 九条家と成瀬家の婚約破棄。

 大型提携解消。

 信用悪化。


 数字は残酷だ。


 感情など一切考慮しない。


「銀行側は?」


「仮差押え申請の準備に入りました」


「そうですか」


 梓は静かに頷く。


 窓の外では雷が光った。


 一瞬だけ、室内へ白い光が差し込む。


 その時、ドアがノックされた。


「失礼します」


 入ってきた男を見て、空気がさらに張り詰めた。


 黒いスーツ。

 銀縁眼鏡。

 無機質なほど整った表情。


 真壁恒一だった。


 企業法務専門弁護士。


 業界では“氷の回収人”と呼ばれている男。


「資料が揃いました」


「ありがとうございます」


 梓はようやく小さく微笑んだ。


 真壁は机へ分厚いファイルを置く。


 ぱたり、と重い音。


「成瀬湊氏名義の資産一覧です。不動産、証券口座、保険、海外口座、すべて洗い出しました」


「早いですね」


「逃がすと面倒ですので」


 さらりと言う。


 社員たちが青ざめる。


 真壁は感情を交えない。


 だからこそ恐ろしい。


 梓はファイルを開く。


「仮差押えはどこまで可能ですか」


「個人口座はほぼ確実です。加えて役員報酬差押えも視野に入ります」


「相続関連は?」


「成瀬本家側が保護に入る可能性があります。ただし、婚約不履行の証拠量が十分ですので押し切れるでしょう」


 淡々と交わされる会話。


 まるで企業買収会議だった。


 そこへ突然、机上の電話が鳴った。


 社員が慌てて受話器を取る。


「……はい。え?」


 顔色が変わる。


「九条様、成瀬様が」


「繋いでください」


 数秒後、スピーカーから荒い息遣いが響いた。


『梓!!』


 湊だった。


 明らかに取り乱している。


『お前何やってんだよ!?』


 梓は静かに椅子へ背を預けた。


「何とは?」


『口座が凍結された! 株も売られてる! 親父まで怒鳴ってるんだぞ!?』


「契約執行中です」


『契約契約って……っ! 本当にここまでする必要あるのか!?』


 背後で何か割れる音。


 湊の呼吸が荒い。


 梓は静かに窓の外を見た。


 雨が激しくなっている。


「成瀬さん」


『なんだよ……』


「私は何度も警告しました」


『……』


「ですがあなたは、毎回“家族だから”で済ませた」


 湊が黙る。


 その沈黙が答えだった。


「現在行っているのは感情的報復ではありません」


 梓の声は低く静かだった。


「債権回収です」


 電話越しに息を呑む音。


『……お前、変わったな』


「いいえ」


 梓は目を細める。


「最初からこうでした」


 そこで通話を切った。


 室内に静寂が戻る。


 真壁が小さく笑った。


「ようやく理解し始めたようですね」


「まだです」


 梓は淡々と書類へ視線を戻す。


「彼はまだ、“怒られている”と思っています」


「では?」


「これは清算です」


 その時だった。


 再びドアが開く。


 受付社員が困惑した顔で入ってくる。


「九条様、佐伯梨花様が……」


 言い終わる前に、高いヒール音が響いた。


「ちょっと!! 何なのこれ!!」


 佐伯梨花だった。


 髪は乱れ、化粧も崩れている。


 普段の余裕はどこにもなかった。


「カード使えないんだけど!? 口座も止まってるし!」


 真壁が静かに立ち上がる。


「佐伯梨花様ですね」


「……は?」


 低い声だった。


 梨花が一歩後ずさる。


 真壁は一枚の封筒を差し出した。


「こちら、正式通知書になります」


「なにこれ……」


「窃盗および器物損壊に関する刑事告訴予定通知です」


 空気が凍る。


 梨花の顔から血の気が消えた。


「……け、刑事?」


「はい」


 真壁は淡々と続ける。


「九条梓様所有の天然ブルーダイヤモンドを無断持出・加工・毀損した件につきまして、被害届提出準備へ移行しております」


「ち、違……っ」


 梨花の声が震える。


「お兄ちゃんがいいって言ったの!」


「所有権は九条様にあります」


「そんな……だって家族みたいな……」


「戸籍上、他人です」


 その一言が刃のように落ちた。


 梨花の膝が崩れそうになる。


「う、嘘……こんなの……」


 真壁は表情を変えない。


「なお、海外逃亡防止のため、現在パスポート利用履歴も確認中です」


「……っ!」


 梨花の瞳が恐怖で揺れた。


 初めてだった。


 今まで泣けば許された。

 甘えれば通った。


 だが今回は違う。


 誰も守ってくれない。


 梓は静かに梨花を見る。


 哀れみはなかった。


 ただ確認していた。


 ようやく現実を理解したのだと。


「なんで……」


 梨花が涙声で呟く。


「なんでここまでするのよ……」


 梓はしばらく黙っていた。


 窓を打つ雨音だけが響く。


 そして静かに言った。


「契約違反には、責任が発生するからです」


 梨花は言葉を失った。


 梓はもう視線を戻している。


 まるで業務が一件進んだだけのように。


 外では冬の嵐が東京を濡らしていた。


 そしてその嵐は今、ようやく成瀬湊と佐伯梨花の人生にも到達したのだった。



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