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第六話 違約金二億円をご請求いたします

第六話 違約金二億円をご請求いたします


 年が明けた東京は、刺すように冷えていた。


 高層ビル群の隙間を吹き抜ける冬風が、黒いコートの裾を揺らしていく。


 成瀬グループ本社ビル。


 三十二階、特別会議室。


 重厚なウォールナットの長机を囲み、成瀬家と九条家の関係者たちが無言で座っていた。


 空気は重い。


 誰も咳ひとつしない。


 ただ、壁際の加湿器だけが小さく蒸気を吐いている。


 九条梓は窓際の席に静かに腰掛けていた。


 黒のパンツスーツ。

 艶のない銀縁眼鏡。

 長い黒髪を低い位置で束ねている。


 その姿は婚約者ではなく、完全に“交渉人”だった。


 正面には成瀬湊。


 その隣に佐伯梨花。


 さらに成瀬家の顧問弁護士や役員たち。


 誰もが硬い表情をしている。


「……それで」


 最初に口を開いたのは湊だった。


 苛立ちを隠せない声。


「今日は何なんだよ」


 梓は静かに視線を上げた。


「婚約終了に伴う契約確認です」


「だから、そんな大袈裟にする必要ないだろ!」


 机を叩く音。


 空気が揺れる。


「俺たちは話し合えば済む問題だって言ってるんだ!」


「話し合い?」


 梓の声は穏やかだった。


「話し合いで、祖母の形見は戻りますか」


「……」


「結納の信用低下は回復しますか」


「それは……」


「新居への第三者侵入は、なかったことになりますか」


 淡々とした言葉が、刃のように落ちていく。


 湊は言葉に詰まった。


 その時、梨花が小さく呟く。


「そんな責めなくても……」


 梓の視線が向く。


 梨花が肩を震わせた。


「私、悪気あったわけじゃないし……」


「でしょうね」


 即答だった。


「あなたは一度も、悪いことをしている自覚がなかった」


「っ……」


「だから問題なのです」


 会議室が静まり返る。


 梓はバッグから一冊のファイルを取り出した。


 濃紺の革表紙。


 金文字。


【婚約事前合意契約書 原本】


 それを机へ置く音が、異様に重く響いた。


 湊が顔をしかめる。


「またそれかよ……」


「成瀬さん」


 梓は静かにファイルを開く。


「あなたは、この契約締結時に弁護士同席のもと署名捺印しています」


「わかってるよ!」


「では内容もご理解されているはずです」


 紙をめくる音。


 乾いた静寂。


「第七条」


 梓は淡々と読み上げる。


「婚約関係にある双方は、第三者へ婚約者権限および婚約資産を無断共有してはならない」


 湊の眉が寄る。


「それ、梨花のこと言ってんのか」


「他に該当者が?」


「家族みたいなもんだろ!」


「戸籍上は他人です」


 ぴしゃりと言い切る。


 湊が息を呑む。


「さらに第十一条」


 梓は止まらない。


「婚約者の所有資産に対する毀損、加工、持出、譲渡については、原状回復義務を負う」


 梨花の顔色が変わった。


「ちょっと待ってよ……ネックレスのこと?」


「はい」


「でもお兄ちゃんがいいって」


「許可権限は所有者にあります」


 静かな声だった。


 感情がない。


 だからこそ怖い。


 湊が苛立ちを爆発させた。


「だから! 金なら払えばいいんだろ!?」


 梓はゆっくり視線を上げた。


「払えますか?」


「は?」


「あなたは、あのブルーダイヤの市場価値をご存知ですか」


 沈黙。


 答えられない。


 梓は淡々と続ける。


「推定資産価値、一億二千万円」


 会議室にざわめきが走った。


 梨花が青ざめる。


「い、一億……?」


「加えて」


 梓はページをめくる。


「結納不履行による家門信用毀損」


「誕生日会食キャンセル損害」


「共同資産管理違反」


「第三者利益供与」


 言葉が並ぶたび、湊の顔色が変わっていく。


 まるで判決文だった。


「以上を踏まえ、算定した違約金総額は――」


 梓は静かにファイルを閉じた。


 そして真っ直ぐ湊を見る。


「二億円です」


 その瞬間。


 空気が凍った。


 加湿器の蒸気音すら止まったような静寂。


「……は?」


 湊が乾いた声を漏らす。


「に、おく……?」


 梨花の唇が震える。


「そんなの、冗談でしょ……」


「契約に冗談はありません」


 梓は即答した。


 湊が立ち上がる。


「ふざけんな!!」


 怒鳴り声が会議室へ響いた。


「たかが婚約だろ!? 二億なんて払えるわけないだろ!!」


「署名時点で、あなたは同意しています」


「こんなの脅迫だ!」


「法務確認済みです」


 感情のない返答。


 湊の呼吸が荒くなる。


「お前……本気で俺から金取るつもりなのか……?」


 その問いに、梓は数秒沈黙した。


 窓の外では雪混じりの雨が降り始めている。


 灰色の空。


 冷たい街。


 梓は静かに言った。


「私は一度も、感情であなたを裁いていません」


「……」


「契約に従っているだけです」


 その言葉が一番残酷だった。


 泣きながら責められる方がまだ救いがある。


 だが梓は違う。


 彼女は怒りではなく、“処理”をしている。


 湊は初めて恐怖した。


 自分はもう恋人ではない。


 完全に“債務者”として扱われている。


 梨花が泣き出す。


「お兄ちゃん……どうしよう……」


 その声に、湊がはっと顔を向けた。


 だが次の瞬間、梓の声が静かに落ちる。


「なお」


 全員が息を呑む。


「支払不能の場合、資産差押え申請へ移行いたします」


 会議室の空気が完全に凍り付いた。


 窓の向こうで、冬の東京が静かに霞んでいた。



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