第五話 婚約破棄、承りました
第五話 婚約破棄、承りました
外は雪だった。
重たい灰色の空から、湿った雪が静かに降り続いている。
成瀬本家の日本家屋は、冬の冷気を閉じ込めたように静まり返っていた。長い廊下には白檀の香が薄く漂い、磨き込まれた床板に庭の雪明かりがぼんやり映っている。
九条梓は応接間へ通されると、静かに座布団へ腰を下ろした。
今日は両家の親族会議だった。
表向きは「今後の婚約進行確認」。
だが本当は違う。
ここ数か月で積み重なった問題を、両家とも無視できなくなっていた。
床の間には古い掛け軸。
鉄瓶の湯が、しゅんしゅんと小さな音を立てている。
成瀬家当主である湊の父・成瀬隆一が低い声を出した。
「本日は、いくつか確認したいことがある」
重苦しい空気だった。
湊は梓の斜め向かいに座っている。
視線が合わない。
その隣には、当然のように佐伯梨花がいた。
淡いピンクのワンピース姿。
妙にしおらしく俯いている。
梓はそれを見ただけで理解した。
今日は“そういう日”なのだと。
「湊」
隆一が息を吐く。
「お前、最近ずっと佐伯さんを優先しているそうだな」
「……」
「結納欠席、新居問題、先日の宝石の件。九条家へどう説明するつもりだ」
湊は苦い顔をした。
「親父、だからそれは」
その時だった。
梨花が小さく鼻をすすった。
「……私のせい、ですよね」
か細い声。
部屋の空気が変わる。
「梨花さん」
成瀬夫人が慌てる。
梨花は震える指で腹部を押さえた。
「ごめんなさい……私、お兄ちゃんに迷惑かけたくなくて……」
湊が顔を上げる。
「梨花?」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「でも……もし、赤ちゃんがいたらって思ったら……怖くて……」
空気が凍った。
誰かが息を呑む音。
鉄瓶の音だけが妙に大きく響いていた。
梓は静かに梨花を見つめる。
妊娠。
言葉自体は断定していない。
だが、意図は十分だった。
親族たちがざわつき始める。
「どういうことだ」
「まさか湊くん……」
「いや、違っ――」
湊が慌てて立ち上がる。
だが梨花は泣きながら湊の袖を掴んだ。
「ごめんなさい……私、ひとりじゃ不安で……」
その姿は、完全に被害者だった。
梓は黙って座っていた。
胸は驚くほど静かだった。
怒りも、嫉妬もない。
ただ確認していた。
この男が、ここで何を選ぶのかを。
「湊」
父・隆一の声が低く落ちる。
「説明しろ」
長い沈黙。
湊は苦しそうに顔を歪めた。
そして、梓を見た。
「……梓」
「はい」
「梨花は、放っておけない」
梓は静かに瞬きをした。
やはり。
「今、精神的にも不安定なんだ」
「そうですか」
「もし本当に妊娠してたら……俺、責任取らないといけないし」
部屋の空気が張り詰める。
九条家側の親族が顔色を変えた。
「成瀬くん、それはつまり」
「いや、まだわかんないですよ!?」
湊が焦って否定する。
だが否定しきれない。
その曖昧さこそが致命的だった。
梓は静かに湊を見つめる。
この人はいつもそうだ。
拒絶しない。
線を引かない。
曖昧にする。
その優しさで、全部を壊していく。
「梓」
湊が苦しそうに言った。
「お前は強いから、一人でも生きていけるだろ?」
その瞬間。
部屋の空気が完全に止まった。
雪の落ちる音すら聞こえそうな静寂。
梓は湊を見つめた。
強いから。
だから後回しにしてもいい?
傷つけても耐える?
我慢できる?
理解して当然?
――なんて、傲慢。
胸の奥で、最後の何かが静かに切れる。
だが不思議と苦しくはなかった。
むしろ、ようやく全てが整理された感覚だった。
ああ。
この人は、最後までこちらを守る気がない。
梓は静かに頷いた。
「承知いたしました」
その声に、湊が目を見開く。
「……え?」
「婚約解消のご意思、確かに承りました」
「いや、ちょっと待てよ」
湊が慌てる。
「そういう意味じゃ」
「では、どういう意味ですか?」
静かな声だった。
だが冷たい。
氷のように。
湊が言葉を失う。
梓はゆっくりバッグを開いた。
そして一冊のファイルを机へ置く。
重たい革表紙。
室内灯を受け、金文字が静かに光る。
【婚約事前合意契約書】
空気が変わった。
成瀬隆一の顔色が変わる。
「九条さん、まさか」
「確認作業です」
梓は静かにファイルを開いた。
紙の擦れる音だけが響く。
「婚約不履行条項」
淡々と読み上げる。
「一方的婚約破棄、第三者関与による信用毀損、共有資産侵害が認められた場合――」
湊の顔から血の気が引いていく。
「おい、梓」
「違約金および損害賠償請求を可能とする」
梨花が青ざめた。
「え……」
梓は静かにページを閉じる。
「本件につきましては、後日正式な書面を送付いたします」
「待てよ!」
湊が声を荒げる。
「本気でやるつもりか!?」
梓は静かに視線を上げた。
「成瀬さん」
「……」
「私は最初から、本気で契約しておりました」
その言葉に、誰も反論できなかった。
外では雪が降り続いている。
白く、静かに。
まるで何かを埋め尽くすように。
梓は立ち上がる。
着物の裾がさらりと揺れた。
もう涙は出なかった。
代わりに胸の中には、静かな確定だけがあった。
この婚約は終わった。
いや。
正確には。
今ようやく、“契約終了処理”が始まったのだ。




