第四話 祖母の形見は、返却不能です
第四話 祖母の形見は、返却不能です
十二月の終わりだった。
ホテルニューグランド東京の大宴会場は、眩しいほどのシャンデリアに照らされ、香水とシャンパンの匂いで満ちていた。
年末恒例の慈善パーティ。
政財界の名士たちが集まる、上流階級の社交場だった。
「九条さん、お久しぶりです」
「先日の投資案件、素晴らしかったですよ」
「成瀬さんとのご婚約、順調だそうで」
次々と向けられる笑顔に、梓も完璧な微笑みで応じる。
黒のマーメイドドレス。
背中でまとめた艶やかな黒髪。
耳元には小粒のパール。
洗練された美しさに、周囲の視線が自然と集まっていた。
だが梓の胸の中は妙に静かだった。
湊はまだ来ていない。
十分前に、
『梨花の支度が終わらなくて』
と連絡が入っていた。
梓はもう何も言わなかった。
会場奥では弦楽四重奏が流れている。
ワイングラスが触れ合う音。
柔らかな笑い声。
高級香水の甘い香り。
その時だった。
「あー! 梓さんいた!」
甲高い声が響く。
振り向いた瞬間、周囲の空気が一瞬止まった。
佐伯梨花だった。
純白のドレスに、大袈裟なほど煌めくネックレス。
その中央で、青白い光が静かに揺れている。
梓の呼吸が止まった。
ブルーダイヤ。
祖母の形見だった。
世界でも産出数の少ない天然ブルーダイヤモンド。
亡き祖母・静江が生前、
『これは梓の婚約指輪にしなさい』
と遺した石。
梓はその石だけは誰にも触らせず、専用金庫に保管していた。
そのはずだった。
「……それを、どこで?」
声が低くなる。
梨花は嬉しそうにネックレスへ触れた。
「これ? 可愛いでしょー?」
無邪気に笑う。
「お兄ちゃんに借りたの!」
周囲の空気がざわついた。
梓の視線がゆっくり湊へ向く。
ちょうど会場へ入ってきた湊が、気まずそうに足を止めた。
「……湊さん」
「いや、その……」
湊は困ったように眉を寄せる。
「梨花が今日どうしても着けたいって言ってさ」
「金庫はどうやって開けたのですか」
「俺が開けた」
あっさりだった。
梓は数秒、言葉を失った。
周囲では弦楽器の音色が優雅に流れている。
だが耳の奥では、何かが静かに軋む音がしていた。
「返してください」
梓は静かに言った。
梨花が唇を尖らせる。
「えー? でもこれ、もう加工しちゃったし」
「……加工?」
「うん!」
梨花は嬉しそうに胸元を持ち上げた。
「リングだと古臭かったから、ネックレスに変えたの。超可愛くない?」
その瞬間。
梓の中で、何かが完全に切れた。
祖母が最後まで大切にしていた石。
病室の白いシーツの上で、
『いつか、好きな人と幸せになりなさい』
そう言って託されたもの。
それを。
勝手に。
加工した?
「……元には戻らないのですね」
梓の声は静かだった。
だが湊は苛立ったように顔をしかめる。
「だから謝ってるだろ」
「謝罪は求めておりません」
「じゃあ何なんだよ」
湊の声が少し強くなる。
「たかが宝石だろ?」
周囲が静まり返る。
梓はゆっくり湊を見た。
たかが。
彼は今、そう言ったのか。
「成瀬さん」
「なんだよ」
「あなたは、あの石の価値をご存知でしたね」
「……ああ」
「祖母の遺品であり、婚約指輪用に保管していたことも」
「だから悪かったって!」
湊が苛立ちを隠さず声を荒げる。
「また買えばいいだろ!」
その瞬間。
空気が凍った。
近くにいた客たちが息を呑む。
梨花だけが気まずそうに視線を逸らしていた。
梓は湊を見つめた。
長い沈黙。
その目から、最後の温度が静かに消えていく。
「……そうですか」
低く、静かな声。
「あなたにとっては、代替可能なのですね」
「話を大げさにするなよ」
「大げさ?」
梓は微笑んだ。
美しい笑みだった。
だがその目は完全に冷えていた。
「形見を無断で持ち出し、加工し、返却不能にした」
「……」
「さらに所有者へ無断譲渡」
湊の顔色が変わる。
「梓」
「これは感情論ではありません」
梓はバッグを開けた。
中から取り出したのは、濃紺の革製ファイル。
金文字で刻まれている。
【婚約事前合意契約書】
湊の表情が強張った。
「おい、まさか」
梓は静かにページを開く。
紙の擦れる音だけが響いた。
「第十二条」
淡々と読み上げる。
「婚約関連資産への無断持出、毀損、譲渡が発生した場合、損害額を請求できるものとする」
梨花が青ざめる。
「え、ちょっと待って……」
「なお」
梓は視線を上げた。
「精神的損害および家門信用毀損については別途協議対象」
湊が息を呑む。
「お前、本気か?」
「本気?」
梓は静かに首を傾げた。
「契約書とは、本気で締結するものですが」
その瞬間だった。
遠くでシャンパングラスが割れる音がした。
高く澄んだ破裂音。
まるで何かが終わる合図のように。
梓はファイルを閉じる。
そして最後に、湊へ微笑んだ。
「安心してください」
「……」
「私は感情的になるつもりはありません」
それが逆に恐ろしかった。
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
ただ静かに、契約を確認している。
湊は初めて理解した。
自分は今、“恋人”を怒らせているのではない。
九条家の資産管理責任者に、“損害案件”として認識されたのだと。
梓は背を向ける。
ヒールの音が大理石へ乾いて響いた。
その胸の奥では、もう悲しみすら静かに凍り始めていた。




