表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/13

第四話 祖母の形見は、返却不能です

第四話 祖母の形見は、返却不能です


 十二月の終わりだった。


 ホテルニューグランド東京の大宴会場は、眩しいほどのシャンデリアに照らされ、香水とシャンパンの匂いで満ちていた。


 年末恒例の慈善パーティ。


 政財界の名士たちが集まる、上流階級の社交場だった。


「九条さん、お久しぶりです」


「先日の投資案件、素晴らしかったですよ」


「成瀬さんとのご婚約、順調だそうで」


 次々と向けられる笑顔に、梓も完璧な微笑みで応じる。


 黒のマーメイドドレス。

 背中でまとめた艶やかな黒髪。

 耳元には小粒のパール。


 洗練された美しさに、周囲の視線が自然と集まっていた。


 だが梓の胸の中は妙に静かだった。


 湊はまだ来ていない。


 十分前に、


『梨花の支度が終わらなくて』


 と連絡が入っていた。


 梓はもう何も言わなかった。


 会場奥では弦楽四重奏が流れている。


 ワイングラスが触れ合う音。

 柔らかな笑い声。

 高級香水の甘い香り。


 その時だった。


「あー! 梓さんいた!」


 甲高い声が響く。


 振り向いた瞬間、周囲の空気が一瞬止まった。


 佐伯梨花だった。


 純白のドレスに、大袈裟なほど煌めくネックレス。


 その中央で、青白い光が静かに揺れている。


 梓の呼吸が止まった。


 ブルーダイヤ。


 祖母の形見だった。


 世界でも産出数の少ない天然ブルーダイヤモンド。


 亡き祖母・静江が生前、


『これは梓の婚約指輪にしなさい』


 と遺した石。


 梓はその石だけは誰にも触らせず、専用金庫に保管していた。


 そのはずだった。


「……それを、どこで?」


 声が低くなる。


 梨花は嬉しそうにネックレスへ触れた。


「これ? 可愛いでしょー?」


 無邪気に笑う。


「お兄ちゃんに借りたの!」


 周囲の空気がざわついた。


 梓の視線がゆっくり湊へ向く。


 ちょうど会場へ入ってきた湊が、気まずそうに足を止めた。


「……湊さん」


「いや、その……」


 湊は困ったように眉を寄せる。


「梨花が今日どうしても着けたいって言ってさ」


「金庫はどうやって開けたのですか」


「俺が開けた」


 あっさりだった。


 梓は数秒、言葉を失った。


 周囲では弦楽器の音色が優雅に流れている。


 だが耳の奥では、何かが静かに軋む音がしていた。


「返してください」


 梓は静かに言った。


 梨花が唇を尖らせる。


「えー? でもこれ、もう加工しちゃったし」


「……加工?」


「うん!」


 梨花は嬉しそうに胸元を持ち上げた。


「リングだと古臭かったから、ネックレスに変えたの。超可愛くない?」


 その瞬間。


 梓の中で、何かが完全に切れた。


 祖母が最後まで大切にしていた石。


 病室の白いシーツの上で、


『いつか、好きな人と幸せになりなさい』


 そう言って託されたもの。


 それを。


 勝手に。


 加工した?


「……元には戻らないのですね」


 梓の声は静かだった。


 だが湊は苛立ったように顔をしかめる。


「だから謝ってるだろ」


「謝罪は求めておりません」


「じゃあ何なんだよ」


 湊の声が少し強くなる。


「たかが宝石だろ?」


 周囲が静まり返る。


 梓はゆっくり湊を見た。


 たかが。


 彼は今、そう言ったのか。


「成瀬さん」


「なんだよ」


「あなたは、あの石の価値をご存知でしたね」


「……ああ」


「祖母の遺品であり、婚約指輪用に保管していたことも」


「だから悪かったって!」


 湊が苛立ちを隠さず声を荒げる。


「また買えばいいだろ!」


 その瞬間。


 空気が凍った。


 近くにいた客たちが息を呑む。


 梨花だけが気まずそうに視線を逸らしていた。


 梓は湊を見つめた。


 長い沈黙。


 その目から、最後の温度が静かに消えていく。


「……そうですか」


 低く、静かな声。


「あなたにとっては、代替可能なのですね」


「話を大げさにするなよ」


「大げさ?」


 梓は微笑んだ。


 美しい笑みだった。


 だがその目は完全に冷えていた。


「形見を無断で持ち出し、加工し、返却不能にした」


「……」


「さらに所有者へ無断譲渡」


 湊の顔色が変わる。


「梓」


「これは感情論ではありません」


 梓はバッグを開けた。


 中から取り出したのは、濃紺の革製ファイル。


 金文字で刻まれている。


【婚約事前合意契約書】


 湊の表情が強張った。


「おい、まさか」


 梓は静かにページを開く。


 紙の擦れる音だけが響いた。


「第十二条」


 淡々と読み上げる。


「婚約関連資産への無断持出、毀損、譲渡が発生した場合、損害額を請求できるものとする」


 梨花が青ざめる。


「え、ちょっと待って……」


「なお」


 梓は視線を上げた。


「精神的損害および家門信用毀損については別途協議対象」


 湊が息を呑む。


「お前、本気か?」


「本気?」


 梓は静かに首を傾げた。


「契約書とは、本気で締結するものですが」


 その瞬間だった。


 遠くでシャンパングラスが割れる音がした。


 高く澄んだ破裂音。


 まるで何かが終わる合図のように。


 梓はファイルを閉じる。


 そして最後に、湊へ微笑んだ。


「安心してください」


「……」


「私は感情的になるつもりはありません」


 それが逆に恐ろしかった。


 怒鳴りもしない。

 泣きもしない。


 ただ静かに、契約を確認している。


 湊は初めて理解した。


 自分は今、“恋人”を怒らせているのではない。


 九条家の資産管理責任者に、“損害案件”として認識されたのだと。


 梓は背を向ける。


 ヒールの音が大理石へ乾いて響いた。


 その胸の奥では、もう悲しみすら静かに凍り始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ