第三話 感情的判断による損害発生
第三話 感情的判断による損害発生
十二月の夜だった。
街路樹に巻き付けられたイルミネーションが、濡れた舗道を青白く照らしている。吐く息は白く、タクシーの窓越しに見える銀座の街は、まるで硝子細工のようにきらめいていた。
九条梓は静かに車を降りた。
黒のドレスの裾が、冷たい風にわずかに揺れる。
「お待ちしておりました、九条様」
ドアマンが頭を下げる。
目の前にあるのは、完全会員制レストラン『ラ・ルミエール』。
国内予約最難関とも呼ばれる店だった。
半年前。
湊が自ら予約した店だ。
『梓の誕生日、絶対ここ連れていく』
珍しくはしゃいだ声で言っていた。
その時の湊は、本当に嬉しそうだった。
だから梓も、少しだけ期待していた。
店内へ入ると、柔らかなクラシック音楽が耳を撫でた。シャンデリアの光は温かく、磨き抜かれたグラスが静かに輝いている。
バターと赤ワインソースの香り。
低い談笑。
遠くでナイフとフォークが触れ合う音。
「こちらへ」
案内された窓際席には、二人分のグラスが並んでいた。
東京の夜景が一望できる席。
だが、向かい側の椅子は空のままだった。
梓は腕時計を見る。
午後七時十分。
約束の時間を少し過ぎている。
その時だった。
テーブルの上のスマートフォンが震える。
画面には、成瀬湊の名前。
梓は静かに通話を取った。
「もしもし」
『梓、ごめん』
聞こえた瞬間、梓は理解した。
来ない。
声でわかる。
『梨花がさ……急に泣き出して』
やはり。
梓は窓の外へ視線を向けた。
眼下を走る車のライトが川のように流れていく。
「どうされました?」
『なんか今日、一人だと無理らしくて』
背後から、梨花の甘えた声が聞こえる。
『お兄ちゃぁん、まだぁ?』
梓の指先が、わずかに冷えた。
『ごめん、本当に。今日の食事、また今度埋め合わせするから』
「成瀬さん」
『ん?』
「今日は私の誕生日です」
『わかってるよ! だから悪いって思ってる』
「では、なぜそちらを優先されるのですか」
一瞬、沈黙。
そして湊は少し苛立ったように言った。
『お前、そういう言い方やめろよ』
「……」
『梨花は今、不安定なんだよ。放っておけないだろ』
まただ。
梓は思う。
いつも同じ。
梨花が寂しいと言えば、湊はそちらへ行く。
梨花が泣けば、梓との予定は消える。
その繰り返し。
「予約はどうされますか」
『え?』
「この店です。キャンセルなさいますか」
『あー……そうだな。俺行けないし』
軽い口調だった。
梓は静かに目を閉じた。
「承知しました」
『怒ってる?』
「いいえ」
『ほんとか?』
「ええ」
本当に怒ってはいなかった。
もう怒りを通り越していた。
湊はほっとしたように笑った。
『よかった。じゃあ埋め合わせするから』
「必要ありません」
『え?』
「お忙しいでしょうから」
そこで通話を切った。
数秒、静寂。
店の空気は温かいのに、指先だけが妙に冷たい。
「……失礼いたします」
控えていたギャルソンが静かに近付いてくる。
「お連れ様は」
「キャンセルでお願いいたします」
一瞬だけ、相手の目に同情が浮かんだ。
「かしこまりました」
丁寧な所作で下げられていく二人分のカトラリー。
磨き抜かれた銀が灯りを反射する。
梓は静かに座ったまま、その様子を見ていた。
隣席では恋人たちが笑っている。
グラスの中でシャンパンが弾ける音。
甘いデザートの香り。
幸福な夜。
その中に、自分だけが取り残されていた。
「九条様」
支配人が頭を下げる。
「大変申し訳ございません。本日のキャンセル料ですが……」
「構いません」
梓はバッグからカードを取り出した。
「規定通りで」
「……ありがとうございます」
会計金額を見ても、表情は変わらない。
二人分フルコース。
ワインペアリング。
個室料。
合計、三十八万六千円。
決して払えない額ではない。
問題は金額ではなかった。
問題は、“軽視”だ。
梓はレシートを受け取り、静かに封筒へ入れる。
革製の薄い封筒。
そこには既に何枚もの紙が入っていた。
結納欠席時の料亭代。
新居クリーニング費用。
鍵交換見積書。
そして今日のキャンセル明細。
梓は万年筆を取り出した。
封筒の表へ、静かな字を書く。
【損害一覧】
インクが紙へ染み込む。
その瞬間だった。
スマートフォンが再び震えた。
SNS通知。
梓は画面を見る。
投稿者――佐伯梨花。
『お兄ちゃんが来てくれたから寂しくない♡
今日はすき焼きパーティ!』
写真には鍋を囲む二人。
湊が笑っている。
テーブルには大量の酒。
楽しそうな笑顔。
梓は数秒、画面を見つめた。
そして静かにスマートフォンを伏せる。
胸は不思議なくらい静かだった。
悲しくないわけではない。
だがもう、涙になる段階を過ぎている。
代わりに浮かぶのは、冷え切った確信だった。
この男は、優先順位を決められない。
守るべき契約より、その場の感情を選ぶ。
それは恋愛では致命的だ。
まして、九条家と成瀬家の婚約のような巨大契約では。
「……お誕生日、おめでとうございます」
帰り際、若い女性スタッフが小さく言った。
一瞬だけ、梓は目を瞬いた。
「ありがとうございます」
そう答えると、女性は少し泣きそうな顔をした。
外へ出る。
冷たい夜風が頬を撫でた。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
街は美しく、残酷なほど輝いていた。
タクシーへ乗り込む直前、梓は夜空を見上げる。
細い月が浮かんでいる。
湊は知らないのだろう。
失った信用は、二度と元に戻らないことを。
契約とは、一度の破綻で全体が崩れるものなのだと。
梓は静かに目を閉じる。
その胸の中で、感情の代わりに数字だけが積み上がっていった。




