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第二話 その合鍵は、誰の許可で?

第二話 その合鍵は、誰の許可で?


 十一月の夜気は冷たく、濡れたアスファルトに高層ビルの灯りが長く滲んでいた。


 九条梓はタクシーを降りると、コートの襟元を軽く押さえた。風に乗って、どこか遠くの金木犀の香りが微かに漂ってくる。


 目の前にそびえるのは、成瀬グループ所有の高級レジデンスだった。


 三十階建て。

 最上階メゾネット。


 湊との結婚後、新居として使う予定の部屋。


 もっとも、梓自身はまだ数回しか訪れていない。


 エントランスを抜けると、大理石の床がヒールの音を硬く反響させた。


「こんばんは、九条様」


 コンシェルジュが恭しく頭を下げる。


「こんばんは」


 梓は軽く会釈を返し、エレベーターへ向かった。


 鏡張りの箱の中で、自分の顔を見る。


 疲れている。


 今週だけで、成瀬グループとの共同事業会議が三件。さらに年末の資産整理。寝不足が続いていた。


 本当なら今日は湊と新居の家具配置を相談する予定だった。


 だが昼過ぎに、


『梨花が熱出してさ。今日はそっち行けない』


 という短い連絡が入った。


 梓はもう何も言わなかった。


 エレベーターが最上階へ到着する。


 静かな内廊下を歩き、玄関前へ。


 バッグから鍵を取り出そうとした、その時だった。


 ――かちゃり。


 内側から鍵の開く音がした。


 梓の動きが止まる。


 次の瞬間、扉が勢いよく開いた。


「あっ、梓さんだ!」


 甘い香水の匂いが流れ出る。


 佐伯梨花だった。


 部屋着姿で、片手にワイングラスを持っている。


 梓は数秒、言葉を失った。


 その背後ではテレビの笑い声が響き、キッチンからはバターとガーリックの香りが漂っていた。


 誰かが生活している空気。


 だがここは、まだ正式に入居もしていない新居だ。


「……なぜ、あなたがここに?」


 梓が静かに尋ねると、梨花はきょとんと目を丸くした。


「え? 湊お兄ちゃんから鍵もらったからだけど?」


 当然のような口調だった。


 梓の視線が、梨花の指先へ向く。


 シルバーのキーホルダー。


 間違いない。


 この部屋のスペアキーだった。


「入ってよ。お兄ちゃんもうすぐ帰るし」


 まるで自分の家のように笑いながら、梨花は奥へ戻っていく。


 梓は無言で部屋へ入った。


 リビングには、買ったばかりのソファ。


 梓が選んだ間接照明。


 そしてダイニングテーブルの上には、食べ散らかしたテイクアウト容器が並んでいる。


 白い大理石のカウンターには赤ワインの染みまでついていた。


 胸の奥で、冷たいものが静かに沈んでいく。


「ねえ見て、この部屋すごくない? 夜景やばーい」


 梨花は窓辺で笑っていた。


 東京の夜景がガラス越しに煌めいている。


「ここ、梓さんには広すぎない? お兄ちゃん、一人暮らし長かったから、こういう部屋の方が落ち着くよね」


 まるで品定めするような口調だった。


 梓はコートを脱ぎ、静かにソファへ置いた。


「成瀬さんは、あなたへ合鍵を渡したのですね」


「うん」


 梨花は悪びれもなく頷く。


「だって家族だし?」


 その瞬間。


 玄関の扉が開いた。


「ただいまー」


 成瀬湊だった。


 ネクタイを緩めながらリビングへ入り、梓を見て目を瞬かせる。


「あれ、梓。来てたのか」


「来てたのか、ではありません」


 静かな声だった。


 だが空気が変わる。


 湊は気まずそうに頭を掻いた。


「いや、その……梨花、最近物騒だからさ。一人にしとくの心配で」


「だから、この部屋の鍵を渡した?」


「そんな責めるような言い方するなよ」


 湊の眉がわずかに寄る。


「家族みたいなもんなんだから、別にいいだろ?」


 梨花が嬉しそうに笑う。


「ほらね、お兄ちゃん優しいんだよ」


 梓は二人を見つめた。


 胸の奥で感情が凍っていく。


 これは嫉妬ではない。


 もっと根本的なものだ。


 境界線。


 それが、この男には存在しない。


「成瀬さん」


「ん?」


「この部屋は、婚約後の共有資産扱いになる予定でしたね」


「……ああ?」


「事前契約書、第八条。第三者への無断使用禁止。ご記憶は?」


 湊の顔が曇る。


「そんな堅いこと言うなって。たかが鍵くらい」


「たかが?」


 梓の声は静かだった。


「防犯上の問題。資産管理。情報保護。居住権侵害。合鍵とは、信用の共有です」


「大げさだろ」


 湊は呆れたように笑った。


「お前さ、なんでも仕事みたいに考えすぎなんだよ」


 その言葉に、梨花もくすくす笑う。


「わかるー。梓さんって冷たいよね」


 冷たい。


 その単語が耳の奥に残る。


 梓はゆっくり息を吐いた。


 窓の外では、ヘリコプターの赤い光が夜空を横切っていく。


「……失礼します」


 梓はそれだけ言って踵を返した。


「え?」


 湊が驚いた声を出す。


「帰るのか?」


「はい」


「待てって。そんな怒ることじゃないだろ」


 怒ってはいない。


 本当に。


 むしろ頭は異様なほど冷えていた。


 エレベーターへ向かう廊下で、梓はバッグから革製の手帳を取り出した。


 細い万年筆を抜く。


 そして静かな字で書き込む。


『新居スペアキー無断譲渡確認』


『第三者立入』


『資産管理上の重大懸念』


 さらさらとインクが染み込む音だけが響く。


 怒鳴る必要はない。


 泣く必要もない。


 事実だけで十分だった。


 エレベーターの鏡に、自分の顔が映る。


 感情の消えた目。


 投資銀行時代、破綻寸前の企業を見る時と同じ目だった。


 危機管理能力の欠如。

 情報意識の欠落。

 身内優先。

 責任の曖昧化。


 典型的な失敗案件。


 エレベーターが下降する。


 耳が軽く詰まる感覚。


 静かな箱の中で、梓は目を閉じた。


 もう理解していた。


 成瀬湊は、優しい男なのではない。


 “拒絶できない男”なのだ。


 そして、そういう人間は必ず誰かの境界線を壊す。


 最後には、契約も、信頼も、人生も。



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