第一話 結納欠席は、信用低下の始まりです
第一話 結納欠席は、信用低下の始まりです
薄い金箔を散らした白磁の湯呑みから、ほうじ茶の香りが静かに立ち上っていた。
都内屈指の老舗料亭『花筏』。磨き抜かれた黒檀の廊下には柔らかな灯りが落ち、庭園の鹿威しが、こん、という乾いた音を響かせている。
九条梓は背筋を伸ばしたまま、座敷の上座に座っていた。
結納の日だった。
深緑の訪問着の袖口から覗く指先は白く細い。その指先が、膝の上で静かに重なっている。
時計の針が午後七時を回った。
しかし、婚約者である成瀬湊はまだ来ない。
向かいに座る父、九条宗一郎が低い声で言った。
「成瀬くん、遅いな」
「渋滞でしょうか」
梓は穏やかに返した。
だが、その瞬間だった。
畳の上に置かれたスマートフォンが震えた。
画面を見る。
――成瀬湊。
梓は通話ボタンを押した。
「もしもし」
受話口の向こうは騒がしかった。車の走行音。雑踏。誰かの笑い声まで混じっている。
『梓、ごめん』
湊の声は焦っていた。
『梨花が倒れた。今、病院にいる』
梓は無言で障子の向こうの庭を見た。
雨上がりの石畳が濡れて光っている。
「……そうですか」
『本当に急だったんだ。呼吸が苦しいって泣いてて、放っておけなくて』
放っておけない。
その言葉を聞いた瞬間、梓の胸の奥で何かが小さく軋んだ。
まただ。
この半年、その言葉を何度聞いただろう。
梨花が熱を出した。
梨花が怖い夢を見た。
梨花が寂しいと言った。
そのたび湊は、婚約者よりも彼女を優先した。
梓は静かに尋ねる。
「病院はどちらですか」
『え?』
「お見舞いに伺います」
数秒、沈黙が落ちた。
『……いや、いいよ。もう落ち着いたし』
「では、結納には来られますか」
『今日は無理だ。本当にごめん』
その背後で、甲高い女の笑い声が聞こえた。
梓の目がわずかに細くなる。
『お兄ちゃん、それ取ってー』
電話が慌てて遠ざけられる音。
『あ、いや、違っ――』
「梨花さんもご一緒なのですね」
『……』
沈黙。
そして湊は、少し苛立った声を出した。
『こんな時くらい責めるなよ。梨花は家族みたいなものなんだ』
家族みたいなもの。
梓は目を閉じた。
なるほど。
今日という日より優先される“家族”なのか。
「承知しました」
『梓?』
「本日はお身体を優先なさってください」
それだけ告げ、通話を切った。
座敷の空気が重く沈む。
父が眉を寄せる。
「どうした」
「梨花さんが体調を崩されたそうです。成瀬さんは病院へ」
宗一郎の顔から感情が消えた。
「……結納を欠席したのか」
「はい」
短く答える。
母が困ったように笑った。
「でも、急病なら仕方ないでしょう?」
「そうですね」
梓は微笑んだ。
完璧な笑みだった。
だがその笑顔の奥で、冷たい計算機が静かに動き始めていた。
結納欠席。
事前連絡なし。
親族への心証悪化。
料亭キャンセル不可。
損害額。
信用低下。
契約履行能力。
頭の中で数字が淡々と並んでいく。
湊は優しい。
だが、優しさと責任感は別だ。
情に流される人間は、必ず判断を誤る。
梓はそういう人間を仕事で何人も見てきた。
投資銀行時代、破綻した企業の経営者は皆、同じ目をしていた。
「悪気はなかった」
「仕方なかった」
「助けたかった」
結果として周囲を巻き込み、損失を広げる。
感情で境界線を曖昧にする人間は、組織を壊す。
ふと、スマートフォンが再び震えた。
SNS通知。
梓は何気なく画面を開く。
そこに表示された写真を見た瞬間、座敷の空気が遠のいた。
明るい居酒屋。
テーブルいっぱいの料理。
ピースサインをする佐伯梨花。
頬は健康的に赤く、満面の笑みだった。
投稿文。
『お兄ちゃん来てくれた♡
やっぱり世界一優しい!』
添付された写真の端には、苦笑いする湊の横顔が映っていた。
病院ではない。
酒席だ。
梓は無言で画面を見つめた。
指先が、すう、と冷えていく。
怒りはなかった。
悲しみも、驚きも。
ただ静かに理解した。
ああ。
この人は。
契約を守れない人間なのだ。
「梓?」
母の声で我に返る。
梓はそっとスマートフォンを伏せた。
「なんでもありません」
そう言って微笑む。
だがその瞳から、熱だけが綺麗に消えていた。
庭で鹿威しが鳴る。
こん――。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
梓は静かに湯呑みを持ち上げる。
ぬるくなった茶を一口飲む。
香ばしさの奥に、わずかな苦味が残った。
その瞬間。
婚約者・成瀬湊は、梓の中で“将来を共にする伴侶”ではなくなった。
代わりに浮かび上がったのは、冷たい評価だった。
――回収不能リスク資産。
梓は静かに視線を伏せる。
そして心の中で、淡々と損切りの準備を始めていた。




