エピローグ 季節の織り糸を紬ぎながら
エピローグ 季節の織り糸を紬ぎながら
春の雨は、絹糸みたいに静かだった。
山間の邸宅を囲む若葉が、淡い雨粒を受けて柔らかく揺れている。
縁側へ座った九条梓は、膝の上の布へそっと触れた。
さらり、と指先を滑る絹。
薄桜色の反物だった。
「今年は春色を選ばれたのですね」
背後から穏やかな声がする。
振り返ると、呉服店の女将・志乃が微笑んでいた。
六十代半ば。
銀混じりの髪を綺麗に結い上げ、深藍の着物を上品に着こなしている。
「ええ」
梓は小さく笑う。
「少し前までは、こういう色を選ぶ余裕がありませんでした」
志乃が目を細めた。
「余裕、ですか」
「はい」
梓は庭を見つめる。
雨に濡れた苔。
水を含んだ石畳。
池の水面へ落ちる雫。
ここへ来て、一年が過ぎていた。
最初の頃は、静けさに慣れなかった。
電話が鳴らないこと。
誰にも急かされないこと。
予定を奪われないこと。
それが逆に不安だった。
自分はずっと、“誰かに必要とされること”で生きていたのだと気付かされた。
だが今は違う。
朝は庭を歩き、
季節の花を眺め、
本を読み、
織物に触れる。
そういう小さな時間を、ちゃんと美しいと思えるようになった。
志乃が反物を広げる。
「こちらも素敵ですよ」
深い若草色。
光の加減で柔らかく色が変わる。
梓は目を細めた。
「綺麗ですね」
「人の心と同じです」
志乃は布へそっと触れる。
「織物は、急いで織ると歪むんですよ」
雨音が静かに続く。
「一本一本、糸を整えて、時間をかけて紬ぐ。そうしないと、美しくならない」
梓はその言葉を胸の中でゆっくり転がした。
以前の自分は、余裕がなかった。
常に誰かの問題を処理して、
感情を飲み込んで、
“正しくあること”ばかり考えていた。
けれど今は。
風の匂いで季節を知る。
花の色で時の流れを知る。
そんなふうに生きている。
「梓様」
志乃がふと笑った。
「顔つきが変わられましたね」
「そうでしょうか」
「ええ。前は、とても張り詰めておられた」
梓は少し驚いて、そして苦笑した。
「そんなに分かりやすかったですか」
「糸は引っ張りすぎると切れますから」
その言葉に、梓は静かに視線を落とした。
切れていたのかもしれない。
ずっと前から。
我慢して、
譲って、
理解しようとして。
自分だけが張り詰め続けていた。
でも。
切れたからこそ、今ここにいる。
庭では鶯が鳴いていた。
雨に濡れた若葉の香りが風に混ざる。
その時、廊下を歩く足音がした。
「失礼します」
真壁恒一だった。
黒ではなく、今日は柔らかな灰色のジャケット姿だった。
都会の弁護士というより、静かな文人みたいに見える。
「お邪魔でしたか」
「いいえ」
梓は微笑んだ。
「ちょうどお茶を淹れ直そうと思っていたところです」
真壁が縁側へ腰を下ろす。
湯呑みから立つ煎茶の香りが、雨の空気へ溶けていった。
「東京はどうでした?」
「相変わらず騒がしいですよ」
「そうですか」
梓は静かに笑う。
もう懐かしさすらない。
遠い場所の話みたいだった。
真壁がふと庭を見る。
「こちらへ来てから、表情が柔らかくなりましたね」
「志乃さんにも同じことを言われました」
「皆、同じ感想なのでしょう」
梓は少し照れたように目を伏せる。
その時、風が吹いた。
軒先から雨粒がさらさらと落ちる。
まるで糸みたいだった。
梓は膝の上の反物へ触れる。
「昔は」
ぽつりと呟く。
「幸せって、大きなものだと思っていました」
「……」
「誰かに選ばれることとか、愛されることとか」
真壁は黙って聞いている。
「でも違ったんですね」
梓は雨の庭を見つめた。
「季節の匂いを綺麗だと思えることとか」
指先で布を撫でる。
「好きな布を選ぶ時間とか」
湯呑みを持ち上げる。
「静かにお茶を飲める朝とか」
ふっと微笑む。
「そういうものを、ちゃんと幸せだと思える心を育てることだったんです」
長い沈黙。
だが不思議と心地よかった。
誰かに急かされる沈黙ではない。
ただ静かに流れる時間。
真壁が小さく笑った。
「それは、良い再建ですね」
梓は思わず吹き出した。
「真壁さんらしい言い方です」
「職業病です」
二人で静かに笑う。
雨は少しずつ弱まっていた。
雲の向こうから、淡い光が庭へ落ち始める。
若葉がきらきらと光った。
梓はその景色を見つめながら、そっと目を細める。
人生は、織物に似ている。
切れた糸も、
傷付いた色も、
全部抱えながら、また織っていく。
急がず。
焦らず。
季節の織り糸を、ひとつずつ紬ぐように。
その胸にはもう、冷たい怒りも、失った恋も残っていなかった。
代わりにあるのは。
静かに幸せを感じられる、柔らかな心だけだった。




