特別編 成瀬湊は、誰も選べなかった
特別編 成瀬湊は、誰も選べなかった
夜の雨が、フロントガラスを絶え間なく叩いていた。
成瀬湊は運転席で小さく息を吐き、ネクタイを緩めた。
午後十時過ぎ。
銀座での会食を終えた帰りだった。
車内には革シートの匂いと、微かに残ったシガーの香りが漂っている。
助手席には、梓へ渡すはずだった紙袋。
中には細いダイヤのブレスレットが入っていた。
梓は派手なものを好まない。
だから華奢で、上品なデザインを選んだ。
白いシャツの袖口からちらりと見えるような、そんなやつ。
「……ちゃんと喜ぶかな」
独り言が漏れる。
その時だった。
スマートフォンが震える。
画面表示。
【梨花】
湊は一瞬だけ目を閉じた。
嫌な予感がする。
だが、無視できなかった。
「もしもし」
『お兄ちゃぁん……』
泣き声だった。
湿った声。
鼻を啜る音。
『怖い……』
「どうした?」
『一人なの……なんか息苦しくて……』
湊はハンドルを握る手に力を入れた。
今日、梓と約束していた。
誕生日ディナー。
珍しく梓が少し楽しそうだったのを覚えている。
『この店、景色が綺麗らしいですよ』
そう言って、小さく笑っていた。
あの笑顔を思い出す。
だが電話の向こうでは、梨花が泣いていた。
『お願い……来て……』
湊は眉間を押さえる。
昔からそうだった。
梨花は弱い。
泣き虫で、寂しがり屋で、放っておけない。
幼い頃、熱を出した梨花が一人で泣いていた姿を今でも覚えている。
成瀬家の使用人部屋。
狭い布団。
赤い顔。
『お兄ちゃん……』
小さな手が、自分の服を掴んで離さなかった。
あの頃から湊の中で、“梨花を守る”は当たり前になっていた。
「……分かった」
気付けばそう答えていた。
『ほんと?』
「すぐ行く」
電話を切る。
沈黙。
車内へ雨音だけが満ちる。
湊はハンドルへ額を押し当てた。
「……またか」
分かっている。
梓が嫌がっていることくらい。
でも。
見捨てられない。
困ってる奴を放っておくなんて無理だ。
それに梓は強い。
一人でも平気そうで、仕事も完璧で、ちゃんとしてる。
でも梨花は違う。
自分がいないと駄目になる。
だから優先してしまう。
――それの何が悪いんだ。
そう思っていた。
エンジンをかける。
高級レストランとは逆方向へ車を走らせた。
雨のネオンが滲む。
十分後、梨花のマンションへ到着した。
ドアを開けると、甘ったるい香水の匂いが流れ込む。
「お兄ちゃん!」
梨花が飛びついてきた。
ふわふわの白ニットワンピース。
肩が少し見えるデザイン。
柔らかい髪からシャンプーの匂いがした。
「ごめんねぇ……」
涙目で見上げてくる。
湊はため息を吐いた。
「……大丈夫か?」
「うん、お兄ちゃん来たから安心した」
そう言って笑う。
その顔を見ると、やっぱり放っておけなかった。
部屋へ入る。
ブランド物のバッグ。
脱ぎ散らかされた服。
開いたシャンパン。
派手な部屋だった。
梓の部屋とは真逆。
梓は整頓されている。
香りも静かで、落ち着く空間だった。
ふと胸が痛んだ。
今頃、一人で待ってるんじゃないか。
「お兄ちゃん?」
梨花が腕へ抱きつく。
「今日泊まるよね?」
「……少しだけだぞ」
「やった」
無邪気に笑う。
その時、湊のスマートフォンが震えた。
【梓】
胸がざわつく。
だが、出づらい。
「出ないの?」
梨花が唇を尖らせる。
「……あとでかけ直す」
着信が止まる。
静かになった画面を見て、妙な罪悪感が胸へ残った。
「お兄ちゃん、すき焼き食べたい」
「今から?」
「だめ?」
上目遣い。
湊は苦笑した。
「……分かったよ」
冷蔵庫を開ける。
牛肉。
豆腐。
野菜。
手慣れた動きで準備しながら、ふと思う。
梓なら、こういう時きっと怒らない。
静かに「そうですか」と言うだけだ。
それが逆に怖かった。
「ねえ、お兄ちゃん」
背後から梨花の声。
「梓さんと結婚したら、私のこと捨てる?」
湊は振り返る。
梨花は不安そうな顔をしていた。
その表情を見ると、胸が締め付けられる。
「捨てるわけないだろ」
「ほんと?」
「ああ」
梨花が安心したように笑う。
その顔を見て、湊も少しほっとした。
これでいい。
誰も傷付けてない。
うまくやれば、両方守れる。
そう思っていた。
だがその時の湊は、まだ知らなかった。
“誰も傷付けない”という曖昧さが。
一番深く、静かに誰かを壊していたことを。




