十年前の君へ ~離婚前夜、夫がおかしくなった~
いつもお読みいただきありがとうございます!
明日、私は離婚してこの家を出て行く。
「これでよしっと!」
結婚前とほぼ変わらない量の荷物を詰めたトランクを閉め、机に置いた書類に確認のため目を通す。
『ジゼル・ピアーズ』
自分の字で署名された離婚届を見ても、特に感傷はなかった。
なぜなら、この離婚はあらかじめ決められたものだったのだから。
ジゼル・ピアーズを名乗るのも明日まで。
十八歳から二十一歳までの三年間、名前が変わっただけの話。私がもし百年生きるのだとしたら一瞬の出来事だ。
今晩帰宅した夫にこれを渡し「今まで援助をありがとうございました」と伝え、夕食を食べて眠って起きたら、このトランクを持って実家に戻る。そうして、私はジゼル・コーツに戻るのだ。
離婚前日なので家中を綺麗に掃除してから、キッチンの大きな冷蔵ボックスに抱き着いて別れを告げる。
冷蔵ボックスとは、魔術が使用された便利な道具である魔道具だ。
魔道具には庶民の手が届きやすいものから、目玉が飛び出るほどお高いものまでいろいろある。この冷蔵ボックスは目玉が飛び出るほどお高いやつだ。
「はぁ……私、夫よりあなたとの別れの方が辛いかも。なんでも冷やして保存してくれて暑い時期はどれだけ重宝したこととか……水だっていつでもキンキンに冷えたのも飲めるし最高! しかも私の背丈よりも大きいボックスなんて! お値段を考えたらいくらするのか怖いわね!」
冷蔵ボックスの無機質な茶色い扉に頬をすりすりしながら別れを惜しむ。
こんな大きなものを持って行こうなんてそんな卑しいことは考えていない。ただ、この子のいない生活なんてもう考えられない。キンキンに冷えたお酒を掃除の終わりに飲むのも、暑い夜に寝る前に飲むのも最高だったもの。
王宮魔術師である夫は研究漬けの日々を過ごしていて、家には夕食と寝に帰ってくるだけだ。
だから、夫よりも私はこの冷蔵ボックスとともにいる時間が長い。むしろ、冷蔵ボックスが夫でいいのだが、この冷蔵ボックスは弟の病気の治療費を出してくれることはないだろう。
夫のおかげで小さな弟はいい病院に入院できて、珍しい病気ではあったが完治したのだから。
それでも冷蔵ボックスから離れがたくて抱き着いてすりすりしていると、屋敷の呼び鈴がけたたましく鳴った。
我が家の呼び鈴の音は夫の設定により「コケコッコー」という音である。
彼曰く「コケコッコー」ならうるさく鳴っても許せるらしい。
誰だろう?
夫が帰って来るにはまだ早く、来客の予定もないのに。
コケコッコーのけたたましい音を聞きながら、玄関まで小走りで行って扉を開けた。
開けた先にいたのは黒いローブ姿の男性二人。片方は夫の上司であるムキムキの王宮魔術師様だ。彼らの胸には王宮魔術師の証である翼を広げたフクロウの刺繍が見える。
「あぁ、ピアーズ夫人。落ち着いて聞いてください。ソロモン・ピアーズが本日研究中に事故に遭い大怪我を負いまして──」
ムキムキ上司の背中に赤ん坊のように背負われているのは夫だ。上司がムキムキなだけに細い夫が赤ん坊に見える不思議。
しかし、大怪我という割には背負われている以外にどこも変わった様子はない。
私の視線に気づいたらしいムキムキ上司は丁寧に続けた。
「怪我はすぐに魔術で治癒しましたので問題ありません。しかし、記憶が一部なくなっているようでして」
「え? 記憶喪失ですか?」
「えぇ、どこまで記憶が喪失しているか分かりませんが、混乱するかもしれませんので注意して見ておいていただけますと幸いです。夫人の名前はうわごとのように呼んでいたので大丈夫ですよ」
ムキムキ上司と同僚さんは夫をベッドまで運んで横たえると帰って行った。
運ばれて寝かされても、夫は意識がないままだ。事故直後は意識があったようだが、治癒を受けているうちにいつの間にか眠っていたらしい。
冷えたレモン水とタオルを用意して、夫の寝顔を覗き込んだ。
寝室は別で夫婦のそういうことはないが、私は毎朝夫を起こしていたのだ。寝顔なんて見慣れている。
爆発に巻き込まれ焦げ臭いローブも着替えさせたが、どこにも傷はなかった。
注意して見ろと言われても──明日はこの人が決めた離婚の期限なのに。
内心でブツブツ言いながら、邪魔になりそうなくらいに伸びた夫の前髪に気づいて触れる。
そろそろ目にかかっちゃうから切らないと。離婚したらこの人の髪、誰が切るんだろう。誰も切らなかったら以前のように伸び放題にして、風呂にも入らず、食事も気にせず残念な男まっしぐらになるんじゃない? せっかく、見られるようになったのに。
まぁ……そうなっても私にはもう関係ないけど。
離婚前日に前髪を切るか聞く?
それもなかなかだし、この状況の夫に離婚の書類を突き出すのも勇気がいる。でも、期限を決めたのは夫なのだ。
悩んでいると、夫の瞼が震えてパチッと目が開いた。
「……ジゼル?」
前髪から慌てて手をどけると、夫の赤い目と視線が合った。
「旦那様、事故に遭われたそうですが大丈夫ですか?」
「あぁ……ジゼル……」
夫は何を思ったのか、ベッドに横たわったまま湿った声を出して手を伸ばしてきた。
「旦那様?」
「ジゼルだ、ははは……本当にジゼルだ! あぁ、成功した! 良かった!」
「頭、大丈夫ですか?」
夫はけたたましく笑い、器用に涙まで流しながら起き上がって私に抱き着いた。
この人は私の名前なんて呼ばなかった。それに抱き着くなんて接触もこれまであり得なかった。
絶対に頭を打っておかしくなったのだ。
「ちょ、旦那様。ベッドから落ちちゃいますよ!」
ベッドから必要以上に身を乗り出しているせいで半分落ちかけている夫を、私は慌てて抱き留める。
「ジゼルだぁ……あぁ、良かった。本当に良かった!」
夫は事故の影響で頭がおかしくなったに違いない。
私のお腹のあたりの香りを嗅ぐようにスーハーと息を吸って吐いている夫は完全に不審者なのだが、時折鼻をすする音がするのでまだ泣いているらしい。
研究中に爆発はこれまでもよく起こしていたが、今回の怪我はよほど酷くて怖い思いをしたのかもしれない。
「旦那様、どうしたんですか。事故で頭を打っておかしくなっちゃったんですか」
「ジゼル、今日は何月何日? あと、国王陛下の名前は?」
それは私が記憶喪失らしい夫に確認すべき事項ではなかろうか。どうせ治癒を受ける時に聞かれただろうし、夫も不安だろうから答えるが。
「今日は五の月のちょうど半分です。国王陛下のお名前はエドワード様です」
「はは、あはっは、あははは! アルベルト様じゃないのか!」
「アルベルト様は王太子殿下でいらっしゃいますよ。そんなことを言っては今の陛下が亡くなったみたいじゃないですか。旦那様、もう一度診てもらった方がいいかと思うので医者を呼びます」
「ううん、必要ない。ジゼルが一緒にいて」
いよいよ、本格的に夫がおかしい。
一緒にいてだって?? この人、誰?
私が話しかけると顔をしかめていたじゃない? 部屋にも入るなって言ってたじゃない? 食事終わった瞬間席立つじゃない?
「旦那様、今日は本当におかしいですよ。そんなにまずい失敗をなさったのですか。それとも頭を強く打ったんですか」
「治癒魔法をかけてもらったから大丈夫。ジゼル、夕食はまだだろう? 一緒に食べよう」
「あ、お腹がすきましたか? では準備してここまで運んできますので、旦那様は横になっておいてください」
「ヤダ、ジゼルと離れたくない」
「……それじゃあ夕食の準備ができませんから。お腹が満たされませんよ」
「僕もこのままキッチンに行く」
「えぇ……? 旦那様が下手なことをしてキッチンを爆破したら困りますから……」
「ジゼルが夕食用意してくれるのを見てる。離れたくない」
夫は笑ったり泣いたりしながら、私をぎゅうぎゅう抱きしめてくる。
よっぽど命の危険を感じて不安なのか。あるいは、誰かと間違われてる? だって、私たちは契約結婚だったのだ。
夫は見合い攻撃をかわすため、そして私は弟の病気の治療代を援助してもらうため。
夫には暴力も振るわれていないし、お金をケチられてもいないし、監禁もされていない。ただ、夫婦というより雇われた家政婦のようだった。
名前も呼ばれないし、こういう会話の類は今までなかった。もちろん、夫婦らしい接触もない。
そういう契約だったのだからそれで良かったのだ。その契約が明日で終わるはずだったのに。
離婚前日、夫がおかしくなった。
夫であるソロモン・ピアーズとの出会いは見合いだ。その見合いの場で契約結婚を彼から提案された。
彼は王宮に努める優秀な魔術師で、周囲から結婚をせっつかれていた。元平民なのだが、王宮勤めの優秀な魔術師となると国が囲い込むために爵位が与えられ、国内貴族と縁づくことが暗黙の了解になっている。
私の前には高位貴族から縁談が持ち込まれていたようだが、令嬢たちは夫のことを嫌がったのだ。
その頃のソロモン・ピアーズといえば、今とは全く容貌が異なる。
ボサボサで鼻まで隠す黒い前髪に、研究ばかりで風呂にも入らず漂う体臭、支給品の真っ黒なローブで見合いに来る有様だった。研究に熱中するあまり見合いに遅刻は当たり前。見かねた夫のムキムキの上司が首根っこを捕まえて見合いに引きずっていくこともあったようだ。
異臭を放ち、根暗そうで顔もよく見えない王宮魔術師。途中から異臭は魔術で何とかしたようだが、その頃には噂が出回っていた。
高位貴族の令嬢でなくても願い下げだろう。
そんなわけで、めぐりめぐって貧乏子爵家の令嬢だった私にまで彼との結婚話はやってきた。
私との見合いの時も、魔術師とは思えないほど鍛え上げた五十代の上司に彼は文字通り引きずられて現れた。
その時は魔術の効果で異臭はしなかったが、研究で爆発か火事でも起きたのかローブと髪が一部焦げて大変香ばしい香りがした。領地の庭で残飯や草や枯れ枝を燃やした時にするあの香りだ。
その頃には彼も見合いで煩わされることに疲れていたのだろう。
ムキムキな上司が退場して二人きりになるとこう言われた。
「君は弟が珍しい病気にかかって困っていると聞いた。援助するし病院にも口利きするから、結婚して三年で離婚してくれないか。僕は研究だけをしていたい。自分の時間をすべて自分のために使いたいんだ。家庭なんて持ちたくないのに見合いをせっつかれて……これじゃあ研究に集中できない。一度結婚して離婚すれば、僕がいかに家庭と社会に不適合か皆分かってくれる」
普段食べられないお菓子を食べまくって見合い開始前にすでにお腹いっぱいだった私を見て、彼は契約結婚を提案してきた。私が先に食べていたのは彼が遅刻して来たからであって、私は悪くない……はず。
遅刻した上に見合いにふさわしくない香ばしい香りを纏った彼でも、提案しているのは酷いことだという自覚があったらしい。前髪が長すぎてどこを見ているのか分からないが、発言中に徐々に顔は私から背けられていたし、声はやや上ずっていた。
私はがめつくお代わりのスコーンに手を伸ばして口の中に入れたところだったので、発言するには口内の空間の余裕と水分が足りなかった。
私がもしゃもしゃスコーンを食べながら黙っていると、彼はさらに顔を逸らして話を続けた。
「離婚は僕の暴力・暴言が原因だったということにする。君になるべく迷惑がかからないようにしたいが……離婚したことで少しは悪く言われると思う。でも、僕はこれ以上見合いに無駄な時間を割きたくないし、君の家は見たところ困っているようだし……利害は一致すると思うんだ」
彼の顔の角度は直角に私から逸らされていた。
私の家が貧乏であることは、お菓子をひたすら食べている卑しさでバレたのだろうか。元々裕福ではないのに跡取りの弟が珍しい病気にかかったのだ。治療費は家計を圧迫し続けている。弟のことは救いたい。しかし、金がない。
「私としてはいいのですが、ピアーズ様は余計にお金がかかりますよ? 好きな方と結婚した方がいいのではないでしょうか」
途中でどうでもいい女性の実家にお金出したくなくなるかもしれないじゃない。好きな女性には出したいだろうけど。
私にとっては可愛い八歳違いの弟だが、他人から見ればどうでもいい存在だろう。出された手を途中で引っ込められて治療が中途半端になってはこちらも困る。
「契約で君を雇うと考えた場合、それほどの出費でもない。僕の給料は……相場はよく分からないが結構もらっている方だと聞いたことがあるし、ギャンブルもせず趣味もなくて研究しかしないからお金なんてあっても使わないから、ちょうどいい」
ここまでの彼の言葉は緊張のせいかすべて早口だった。
私は母が早口なのでついていくのは苦ではなかったが、高位貴族のご令嬢方には受けは悪いだろうなと思った。早口でやや上ずる喋り方が余裕のない男に見えるのだ。しかし、彼にはお金の余裕がある。
失礼な感想を抱いていると、彼はさらに早口で続けた。相変わらず、顔の角度は私から直角に逸らされている。
「すまない。ちょうどいいなんて言い方は失礼だった。若いご令嬢の時間は貴重だと上司から聞いている。そんな貴重な時間を契約で拘束するなら対価はしっかり払うべきだ」
貧乏子爵家の令嬢で婿取りをするわけでもないのだから、私にいい縁談なんてこない。だからそんなこと考えなくていいのに。むしろ、この見合いはかなり条件がいい方だ。
前髪が長いことや、気の乗らない見合いに遅刻したことや、焦げた香りがすることなんて些末なこと。
それ以外の常識は彼にはあるのだし。何より、貴族令息みたいに上から目線でないところが良かった。
私はスコーンに口の中の水気を容赦なく奪われながら、ソロモン・ピアーズとの契約結婚に頷いたのだ。
私の仕事は、彼と結婚することと家事をすることだった。他は特にない。
彼に必要なのは結婚したという事実だけ。結婚して、あとは彼を煩わせないように生活しておけばよかった。
結局、生活力があまりにない彼を見かねていろいろ世話を焼いてしまったんだけど。
ただ、仕事命の夫は今まで私に興味はなかったはずだ。
恐らく夫は女性に慣れておらず恐怖心まで抱いている。私とうっかり手が触れ合っても、汚い虫に触れたかのような素早さで手を引っ込めるのだ。
だから、こんな風に抱き着いてくるなんてあり得ないんだけど。
「今日のご飯はなに?」
「シチューを作っておいたので、追加でこれからサラダを作ります」
掃除して冷蔵ボックスに抱き着いて別れを惜しんでから、サラダを作ろうと思っていたのだ。貴族でも貧乏だったから一通りの家事ができたのは契約結婚にちょうど良かった。夫は他人を家に入れるのを好まないので使用人は雇っていない。
どうしても手が回らないときは通いの使用人を一人、しかも五十を過ぎた女性を入れてと指定されていたが、援助を散々してもらっていた手前全部私がやっていたのだ。王宮魔術師の給料はそれほど良かった。さすがエリート職。
「旦那様」
「ん?」
「抱き着かれたままでは料理ができません」
「ヤダ、このままでいる」
「上司の方から記憶喪失だと聞いていましたが、まさか中身が違う人なんですか? 記憶はどこが抜けていますか?」
「ジゼルのことはちゃんと覚えてるよ。お見合いでお菓子を全部食べてた。スコーンのお代わりは二回してた」
目を覚まして出て行けと言われなかったから、それは分かっているのだが。というか、一番忘れていてほしいことを記憶喪失なのに覚えているのはどういうことか。
夫はキッチンに立つ私の腹あたりに手を回して、後ろから抱き着いている状態だ。
おかしい。この状況はかなりおかしい。記憶喪失って人格まで変わるの?
「でも、ここ最近のことは全然思い出せないかも」
「研究もですか?」
「研究はノートに書いてあるから。あ、爆発で焼けたかな?」
「確認しに行かれますか? 一緒に行きましょうか」
「ううん、大丈夫。また後日確認すればいいから」
おかしい。研究命の夫は前に研究施設でボヤがあったと聞いた時に、夜中にもかかわらず慌てて様子を見に行ったのだ。
それが、研究ノートが焼けたかもしれないのに確認しないだと?
やっぱり、記憶喪失なのかもしれない。そうなると心配するしかないではないか。
夫に抱き着かれたままサラダを作って夕食にした。
普段は無言で食事をするはずだ。食事中もいつも夫は研究について考えていて、眉間に皺を寄せたり、急に立ち上がって何かメモしたりしていたから。食事の感想だって言われたことはないが、毎回全部綺麗に食べてくれる。
記憶喪失といえどいつもの調子で夕食を食べていると、夫が急にソワソワし始めた。
「今日は、ジゼルは何してた?」
やっぱり別人だ。食事中でも食後でもこんな問いかけは今までしてこなかった。
「掃除とか、荷造りですね」
「荷造り? なんで?」
「あ、えっと──」
言っていいのだろうか、記憶喪失で様子のおかしい夫に。
明日は離婚の日ですよと伝えて、これ以上様子がおかしくなられても困る。事実なんだけど記憶喪失で様子のおかしい相手には言いづらい。怪我人のようなものだし。
「えっと、サイズが合わなくなった服を知人に譲ろうと思って……」
「ジゼルはそんなに体型変わったっけ? じゃあ、明日は服を買いに行こうか。といっても、僕は何を選んでいいか分からないんだけど……」
「旦那様の服もローブ以外だって今日焦げたではないですか」
「僕のは同じのが何着もあるから」
知っている。私が洗濯しているからね。
くたり具合が違うだけで全部同じシャツとズボンだ。ローブは支給品である。
「でも、明日はお仕事でしょう?」
「ううん、一週間は休めって言われてるから」
「え……旦那様は一週間もお休みなんですか?」
うっかり声が裏返った。
研究命で休日でさえ出勤していく夫が? 一週間も真面目に休むだって?
「あ、ジゼルには迷惑だったかな? 家に僕がいるの嫌?」
「そんなことは問題ではありません。明日はまずお医者様に行きましょう。心配です」
「そう? じゃあ、その後買い物に行く? どこか行きたいところある?」
誰だ、この人は。
やっぱり、うちの夫はおかしくなった。明日離婚する予定だったのに。
翌朝、夫を引きずって上司から指定された病院に連れて行った。
「記憶の一部喪失と混濁が見受けられます。結婚前の記憶が飛んでおられるようですね。あとは現国王陛下のお名前を間違えたり、上司や同僚の名前を間違えたりが頻繁に起きていますね。頭を打ったせいでしょう」
それって本当に頭を打ったせい?
研究バカすぎて同僚の名前や現国王陛下の名前を覚えていなかったなんてことは──そこまではさすがの私でも空気を読んで言わなかった。
「一週間しっかり休んでください」
そう医者に告げられて帰されてしまった。記憶喪失はいつ治るかも分からないそうだ。一生このままかもしれないとも言われた。
どうしよう──離婚。
夫が言わないならこちらも言わないでいるべき?
でも、せっかく荷物の整理までしたのに……夫が嫌すぎて離婚したいと思っていたわけではないんだけど、もう頭は離婚に切り替わっていたわけで……。
「それは気に入らなかった? 似合うと思ったんだけど」
夫の声がして我に返る。
そうだった、病院の後で夫がしつこく買い物を薦めるものだから一緒にショッピングに来たのだった。
結婚して今日で三年。離婚日になるはずだったのに、初めて夫とのお出かけである。
私は今、空から牛が降っても驚かない自信がある。どうしてこうなった?
研究と仕事命の夫はなぜか慣れた足取りで仕立て屋に向かったのだ。そして私にいろいろ買い与えようとしてくる。
まさかこの人……仕事と言って今までずっと浮気していたの?
だからこんなに店に詳しいの? 浮気相手のことを記憶が混濁して私だと勘違いしてる?
……いやいや、考えすぎか。浮気ならこれまで兆候があったはずだ。
急に身だしなみを気にし始めるとか、ソワソワしだすとか、家に帰ってこなくなるとか。夫はこれまで三年間全く変わらなかった。変わったのは私が干渉したせい。
「あの、どうしてこういうお店をご存じなんですか?」
「同僚に聞いたんだ」
そういう会話をする同僚さんがいたんだ。ちょっと安心した。
「身だしなみを整えろって言われて、そういえば教えてもらったなって。女性ものも売ってて良かったよ」
そういう言いづらいことを言ってくれる同僚さんがいたんだ!
夫は金額など気にせず「あれは?」「これは?」とどんどん私の物を買っていく。値札さえノールックとは金持ちの買い物だ。私はどれもこれも確認するので手が震える。
「旦那様、こんなに要りません」
離婚予定なのに私にこんなにお金を使ってどうするのか。もったいない。やっぱり、夫はおかしくなったのだ。まさか、離婚のことを忘れてる? でも、夫だって契約書を持っているはずなんだけど……。
「……そうなの? ごめん。だって、ジゼルと買い物に来たのは初めてだから、その、記念にと思って。今日は結婚記念日だし……」
そこは覚えてたんだ……今まで一度も祝ったことないのに。
結婚して三年で離婚なので、今日は離婚予定日であり結婚記念日でもあった。
しょぼんという効果音が聞こえそうなほど俯いてしまった夫に、店員の同情の視線が集まる。前髪もっさりで異臭を放っていたならこんなに同情の視線を集めなかっただろうに。
うっかり三年の間に私が世話を焼いてしまい、夫は前髪もさもさ異臭不審男からやや鋭めの顔立ちのきりっとした男性になってしまったのだ。そんな男がしょぼんとしている姿はとても同情を誘う。
夫を構成するパーツの中で特に目を引くのは珍しい赤い目と黒髪だ。魔力が多い人は鮮やかな目の色や濃い髪色になりやすい。
両親どちらにも似ない色彩で彼の母親は不貞を疑われたこともあるそうで、彼は前髪を頑なに伸ばして顔を見せようとしなかった。田舎の偏見あるあるである。
そんな夫を見かねて、私が髪を切り風呂に毎日入るよう口を酸っぱくして伝え、たまに臭すぎて実力行使をし、栄養のある食事を与えたら、研究命だが外見はどこに出しても恥ずかしくない男性になってしまったのだ。
よく考えたら、今の夫なら高位貴族との令嬢とも結婚できるはず。こんな貧乏子爵家出身の契約結婚相手に今更気を遣わなくても。手切れ金の追加なら喜んでもらうけど。
なんとか夫を制止して、ワンピース二着とブラウス・スカート、ネックレスといった小物類だけにしてもらった。夫の服も選んで買うとなぜか嬉しそうにしていた。
調子が狂う。
今頃私はトランクを持って出て行っていたはずなのに。どうして荷物が増える羽目に……。
「お昼を食べて帰ろう」
夫はさっさと荷物を持って自然に私の手を取って歩き始める。ぎょっとしたせいで私は反応が遅れた。
「旦那様、今すぐ教会に行きましょう」
「え、ジゼルはお祈りしてたっけ? ごめん、そこまで把握してなかった」
「把握していなくて大丈夫ですが、旦那様に悪魔がついているかもしれません。別人すぎます」
「ジゼルは外食して帰るの嫌? いつも作ってもらってばかりで申し訳ないなって。でも僕が作るとキッチンが本当に爆発するから」
「キッチン自体を料理されなくて大丈夫ですし、外食は久しぶりなのでしたいです。でも、旦那様、お店とかご存じないのでは──それに人混みも嫌いでしょうし」
「いいお店を同僚から聞いたんだ」
ねぇ、その同僚さんって女性? 女性では?
いや、離婚する予定だから私が反応することじゃないんだけど! でもどう反応していいのか分からないし複雑! まるで八歳違いの弟が彼女を急に連れてきたような感覚だ。
夫が私の手を引いて入ったのはお洒落なレストランだったのだ。
絶対に同僚さんって女性だ。しかも若い女性。
夫がこういう場所を知っているわけがないから。
しかもなぜか夫は私が食事をしている様子を嬉しそうに眺めている。こんなレストラン嫌いじゃなかったの? さっさと食べてすぐ立って帰るんじゃなかったの? デザートまで頼んでいいってどういうこと?
怖い、やっぱり今すぐ教会に行こう。悪魔祓いって予約が要るの?
「あれ、ジゼル?」
前に座る夫ではなく上から名前を呼ばれて、デザートのケーキから視線を上げた。
「え、ケイン?」
「偶然だな、こんなところで」
「わ、ほんとに偶然ね」
私たちの座るテーブルを通りかかったのは、幼馴染の男爵令息であるケインだった。領地が隣同士だったので、弟が病気になる前はよく遊んでいた。
「どうしてここに?」
ケインは私に聞いて、そこで初めて夫に気づいたようだった。
「あ、申し訳ありません。食事中に話しかけてしまって」
「いえ……ジゼルの友達?」
「はい。幼馴染のケイン・マッカランです。ケインはえっと……」
「男爵家を最近継ぎました。ケイン・マッカランです」
紹介すると夫は軽く頷いて握手した。ケインはいつの間にか男爵になっていたようだ。
「今週は商談でこっちに出てきたんだ。まさかジゼルに会うとは思わなかった。弟のショーンは元気か?」
「あぁ、うん。夫のおかげでいい病院に入ることができて、元気になったわよ」
「そっか、それは良かった。じゃあ、会いに行ってみようかな」
「父も喜ぶわ」
短い会話をしてから、ケインは夫に軽く会釈してレストランの奥の席に向かっていく。
一瞬だけ夫が凄い目でケインを睨んでいたように見えたが、瞬きするとケインが現れる前と同じように私を嬉しそうに眺めていた。
「もう一個ケーキ食べる?」
「さすがにもうお腹いっぱいです」
「そっか。遠慮してない?」
「してませんよ。お見合いの時は旦那様が遅刻してきたからたくさん食べていただけなんです」
「ごめん。見合いは本当に毎回気が重かったから。でも、あの時の相手がジゼルで良かった」
さっきの表情は見間違いだったのだろうか。今の夫はふにゃっと蕩けそうに笑っている。まるで──私を好きでいるみたいに。
疑問に思いつつも、夕食の買い出しをして帰宅した。
初めての夫とのお出かけは診察込みで一日がかりだったものの、それほど疲れなかった。
この人おかしいんじゃない? って考えて頭は疲れたけど。
「ねぇ、あのマッカラン男爵のこと好きなの?」
愛しの冷蔵ボックスに買ったものを入れていると、キッチンまでついてきた夫は元気がなさそうに聞いてくる。
そんなにしょんぼりして聞かれたら、こちらが浮気でもしたような気分になってくるじゃないか。ちょっと挨拶しただけなのに。しかも、私、あなたと離婚する予定なんだし。
「小さい頃によく遊んだだけです」
「会話してる時、楽しそうだったから。気安い感じだったし」
夫とは契約結婚で、必要以上に馴れ馴れしくされたくないかと思って気安くは話しかけていなかったのだが……。
それにしても、夫は離婚のことは覚えていないに違いない。記憶混濁か喪失か分からないが、そこは忘れていてはいけないだろう。今日も一日歩き回れるほど元気なのだからもう怪我人と同情せずに言ってしまおう。契約違反と言われるのも嫌だ。
「旦那様、あの」
「ジゼル、僕のことを捨てないで」
「でも……旦那様は私と離婚する予定でしたよね?」
「しない」
あまりにはっきりと否定されてたじろぐ。
まさか、契約のこと覚えてた?
「え? そういう契約でしたし……契約で結婚したことは覚えていらっしゃいますか?」
夫は私の問いには答えず、開けっ放しになっていた冷蔵ボックスの扉を思い詰めたような表情で閉めた。
まずい、記憶喪失なのに刺激してしまっただろうか。頭でも痛くなった?
必死に記憶を探っている?
「旦那様?」
「ジゼルは……僕と離婚したいの?」
「したいかと聞かれたら、特には……ただ、そういう契約だったので違反と言われないか気になります」
離婚しなければ、冷蔵ボックスとだってお別れせずに済んで毎日抱き合える。
離婚した後のことなんて何も考えていなかった。まず実家に帰ってそれから考えようとばかり。私って計画性がないのではなかろうか。一旦帰って、元気になった弟としっかり遊んで──。
「じゃあ、離婚なんてしなくていいよね」
「でも、旦那様がお嫌では? 研究だけしていたいから契約結婚で三年で離婚だって」
「僕は、ジゼルがいないと生きていけない」
夫の赤い目は悲し気に揺れている。
捨てないでとか生きていけないなんて言われたら、無駄に期待してしまいそうだ。
「それは大げさです」
「ううん、本当」
冷蔵ボックスの扉を閉めたままの格好でいた夫は、おずおずと私に両腕を広げてくる。
「旦那様? 何のポーズですか?」
「えっと、抱きしめていい?」
「昨日は料理中なのに散々抱き着いていたじゃないですか。何を今更」
「前からは緊張するんだ」
「ふふ、おかしいですね。旦那様って」
そういえば、後ろから抱き着かれていた時も動きにくかったが嫌ではなかった。律儀に許可を取る夫は少し可愛い。
いいですよという意味も込めて、私は冷蔵ボックスにするように夫に対して手を広げる。冷蔵ボックスからは抱きしめてくれないけれど、夫は昨日みたいに勝手に近づいてきてハグするだろう。
そう思っていたが、夫は緊張したのか目と同じくらい頬を赤くして両腕を上げたり下ろしかけたりしてオロオロしている。
「えっと、こっちが上? こっちが下?」
二人ともが両腕を広げた状態のため、どうやって抱き合えばいいか分からないらしい。
腕を斜めにすべきか、わきの下を通すべきか。
改めてどう抱き着くか問われると難しい。
しばらく二人で威嚇し合うレッサーパンダのように両腕を広げてワタワタして、結局おずおずとお腹あたりに手を回す。
「旦那様はあったかいですね」
「ジゼルもあったかい」
「本当に離婚はしなくてもいいんですか? 私、途中で追い出されるのは嫌なんです。それなら今離婚って言ってほしいです」
夫は沈黙していた。
こんなところで沈黙されたら悪い方向に考えてしまうじゃないか。少し期待してそれがぺしゃんこにされてしまう。
しばらく返事を待っても何も言わないので、抱擁を解いて夫を見ると彼は静かに泣いていた。
「え、ちょ、旦那様? どこか痛いんですか?」
「なんでも、ない」
「いや、泣きながら何でもないって言われても」
夫ははらはら赤い目から綺麗な涙を流しながら、私を再び抱きしめた。昨日からやけに夫は泣き虫だ。
「ジゼル」
「はい」
「ごめんね、もう離してあげられない」
これは、離婚はしないということだろう。さすがにこの状況からは離してもらわないと料理も何もできない。
でも、今日の買い物もこの抱擁も私は嫌ではなかった。ただの同居人だったはずなのに。
夫はおかしくなったが、そんな夫が嫌ではなかった。
むしろ、可愛かった。
「研究施設に行かなきゃいけなくなった。すぐ帰ってくるから……お昼ご飯はジゼルと一緒に食べたい」
「え? はい。分かりましたが……あのご無理をなさらなくても」
翌朝そう言われてうっかりお皿を割るかと思った。食器洗い中に夫と会話するのは危険だ。
職場の研究施設に行かなければいけないのは分かるが、夫がすぐに帰ってくるなんてあり得ない。実験が気になってあれこれ確認してから帰ってくるはずだ。きっと早くて夕方。
「ううん、ちゃんとすぐ帰ってくるから」
「は、はい……分かりました。いってらっしゃい」
私が皿を洗う手を止めてそう言うと、夫はへにゃっと蕩けるように笑って出て行った。
鋭い顔の作りの人があんな風に笑うと、破壊力が凄い。そして、名前呼びは継続している。
早く帰ってくるのは本当だろうか。背負われて帰ってきた日から体調は問題ないようだが、夫はおかしい。今日昼までに帰ってきたらいよいよ本当におかしい。昨日も泣いていたので情緒不安定なのだろうか。
ひとまず、そんな夫のために好物でも作ろうか。
そう考えて、夫の好物ってなんだろうかと我に返る。なんでも完食しているから好き嫌いはないだろう。
「そういえば、トマトをよく食べてたわね」
サラダを出すと必ず夫はトマトだけ先に食べるのだ。
「夫の目がトマトの色みたいって言ったのを根に持ってるってことはないわよね?」
風呂に入れと言っても入らず、前髪もずっと伸ばしたままなので、ある日私は夫の鬱陶しい前髪をよけて顔を見たのだ。彼の目をルビーみたいだと最初に言った。でも、それだとルビーをねだっていると思われそうで今度は熟れたトマトのようだと言った。夫は驚いていたが、それから前髪を切らせてくれるようになった。
「あ、トマトなかった。昨日買い忘れちゃった。買ってこなきゃ」
買ってきて出して聞いてみよう。夫がトマトを好きなのかどうか。あとは好物が何か。
そういえば、夫はこれまで毎日帰って来ていた。研究施設に泊まり込むこともできるのに必ず帰ってきて夕食を食べて眠っていた。食事中は無言だったけど。
……まさかあれって、私の夕食食べに帰って来てたの?
「ジゼル!」
近くの青果店に慌ててトマトを買いに行って家に戻る途中、またもケインに会った。
夫の買った家は王都の中でも非常に便利な場所にあるため、ウロウロしているケインに会う確率はそれほど低くはないのか。
「どうしたの? 商談中じゃないの?」
「今日は違うんだ。ちょうど見えたから。買い物?」
「そうそう。買い忘れたものがあって」
「じゃあ、ちょうどいいからお茶でも飲まないか? ジゼルの近況も聞きたいし」
「あー、嬉しいけど。怪我した夫が早めに帰ってくるからお昼の準備をしないと」
「旦那って昨日レストランで向かいに座ってた? 王宮魔術師だったよな?」
「そうよ、研究中に事故に遭ったみたいで。心配だから。今日はごめん、無理かな」
家に向かう私の横をケインはついてくる。
何か話したいことでもあるのだろうか。
「おじさんとおばさんは元気?」
「あぁ、変わらないよ」
「そっか。今日は時間なくてごめんね。王都にはいつまでいるの?」
「あと四日くらいだな」
「そっか。うーん、夫が帰ってきたら外出していいか聞いてみるわね。宿はどこに取ってるの?」
夫はおかしいし何やら不安そうだし、側にいてあげた方がいいだろう。
「あー……あのさ、ジゼル」
「うん?」
家の門の前まで帰ってきたところで、ケインは言いづらそうに立ち止まっていた。
「言いにくいんだが、金を貸してくれないか」
「へ? お金?」
「あぁ……」
ケインは俯きながらもチラチラこちらを見てくる。幼い頃に何か都合の悪いことが起きた時の仕草そのままだ。
「財布を落としちゃったとか?」
「いや、ただ、領の運営が苦しくて……」
「え、嘘。男爵領の運営? 災害があったなんて話は聞いてないけど……いくらくらい必要なの?」
ケインが答えたのは予想よりもかなり多い金額だった。てっきり、財布を落として宿代がないから貸してくれかと思ったのに。
「旦那は王宮魔術師なんだろ? こんな便利なとこに立派な家を持ってるんだ。金だってその……あるだろ?」
「どうして運営がそんなに苦しいの? マッカラン男爵家は裕福だったじゃない」
「新しく開発した特産品がなかなか売れなくて。それで苦しいんだ」
「そんな多額のお金は私では貸せないわ」
「旦那に頼んでみてくれよ。昨日の様子なら関係良さそうだし、妻のために金くらい」
昨日は気づかなかったが、ケインの服は少しくたびれているようにも見えた。
でも、私にそんな金額を言われても困る。
昔のことを持ち出すのも失礼かもしれないが、弟の病気が判明して父はマッカラン男爵に借金の申し出をしに行ってにべもなく断られたのだ。
あの頃のマッカラン男爵家は裕福だったはずだが、父は貸してもらえなくても「あちらにも事情があるのだから仕方がない」とため息をついていた。
なのに、ケインは言いにくそうではあるが頭を下げるわけではなく気軽に貸してくれと言ってくる。恥ずかしい思いなら、私の父だって方々に頭を下げて存分にしたのだ。
おかしくない?
「頼むよ、ジゼル! お前にしかこんな恥ずかしいこと頼めないんだ」
ケインがトマトの入ったバスケットを持つ私の手を強く掴んできて、嫌悪感で体が強張る。夫に触れられた時は何ともなかったのに。
「でも、我が家だって余裕があるわけじゃ……」
「昨日だってあのレストランで食事してただろ」
「それなら、ケインだってしてたじゃない」
そう、ケインは今日とは違ういい服でレストランにいた。
あのレストランは近隣の店に比べるとお高めで、あそこよりも安く食事をしようと思えばいくらでもできる。他人に借金を申し込むなら、まずはもっと節約すべきではないだろうか。結婚前は我が家だってかなり切り詰めたし、私はお金のために契約結婚だってしたのだから。
「じゃ、じゃあ少なくてもいいから。少額でもいいからとにかく貸してくれないか。倍にして返すから」
「倍にしてって……どういうことよ、ケイン。ギャンブルにハマってるみたいじゃない」
「とにかく、いくらでもいいからすぐ貸してくれ! 要らない装飾品とか渡してくれるだけでもいいから! 頼むよ、じゃないと今日……」
「ちょ、ケイン。痛いって」
ケインの目は血走っており、腕をギリギリと締め上げるように強く握ってくる。
何これ、どういうこと? 父だって金策に走っていたけどこんな風ではなかった。ケインの様子は明らかにおかしい。大体、特産品の開発がうまくいかなかったのは自己責任じゃない?
「なぁ、いいだろ、こんなに裕福な暮らしをしてるんだからちょっとくらい貸してくれたって!」
「ケイン、あなた……おかしいわよ」
夫よりもケインはおかしい。
「とにかく金が要るんだ! 何でもいいから! それでも!」
私は、昨日夫に買ってもらった小さな宝石のついたネックレスをつけていた。
ケインは私の首を指差し、手を伸ばしてこようとする。
「何考えてるの! やめてよ!」
「いいから寄越せ!」
ケインは凄い形相でネックレスのチェーンを掴み、避けようと私が身をよじった途端にブチリと繊細なチェーンは切れた。
「あっ!」
せっかく、夫に初めて買ってもらったものだったのに。食料品以外で。
落ちたネックレスを這いつくばってまで拾うケインの様子はおぞましかった。
「他にも何かあるだろ」
「ひっ、ケイン! あなた、本当におかしいわよ。何があったの」
「おかしい? 金さえあえば今日は勝てるんだ。なにせ、偶然歩いていたお前にも会えたんだから」
「勝てるって……やっぱりギャンブルじゃない」
拾ったネックレスを片手に、彼は今度はバスケットの中に入っている財布を狙ってきた。
小さい頃から知っているし、昨日会った時は普通だったのに! こんなおかしいケインは知らない!
怖くて逃げようとすると、ケインの足元に魔法陣が輝いた。
あっと声を上げる間もなく、ケインの足と手にツタが素早く絡みつく。
「は? なんだこれ?」
「ジゼル!」
呆然としていると、夫が走ってきて抱きしめられた。
「もしかして、これは旦那様の魔術ですか?」
「家の中には魔術仕掛けてあったんだけど……門の前は盲点だった。ごめん」
「いえ、あの……助かりました」
魔術を検知したせいで騎士たちも駆けつけて大事になり、ケインは連行されていった。「今日は勝てるんだ!」と暴れていたから騎士がそれを見て「ギャンブル依存のようですね」と冷静に言っていた。
「大丈夫?」
「はい……あ、旦那様が買ってくださったネックレスがちぎれてしまって。申し訳ありません」
「また、買えばいいよ。それか……修理する?」
「せっかく買ってもらったものなので、チェーンを交換してみます」
夫は本当にすぐに帰ってきたようだ。やっぱり、おかしい。もちろんケインとは違う方向で。
夫は「ジゼルが汚れた」と、ケインに掴まれていた私の腕に治癒の魔術をかけてからごしごしハンカチで拭いている。
「研究ノートは無事でしたか?」
「え? さぁ、見てないけど大丈夫なんじゃない? ジゼル、病院に行く? 大丈夫?」
私は本格的に夫の頭を疑う。研究ノートすら確認せずに職場から戻ってきたなんて。
「……とりあえず昼ご飯にしましょう」
「じゃあ、気分転換に庭で食べようよ」
この屋敷には小さな庭がついていて、花を植えるなど好きにさせてもらっていた。
地面にシートを敷いてクッションを置き、屋敷から出ることなくピクニック気分が楽しめる。
「旦那様はトマトが好きなんですか?」
「研究室にこもってるときにこれだけ丸かじりでよく食べてた」
「結婚前からそうだったんですか……」
「いや、結婚後だよ」
「? 旦那様は夕食はいつも帰ってきてから食べておられましたけど。お弁当も作っていましたが、トマト丸ごとは入れていませんよ?」
「……そうだったかな? じゃあ、結婚前かも。よく分からないんだ」
「すみません、まだ本調子じゃないのに変なことを聞いてしまって」
「ううん。でも、トマトは好きだから」
医者の言った通り、結婚前の記憶は曖昧のようだ。
食べ終わって草花がそよ風に揺れるのを夫と並んで眺める。
おかしいくらいに平和な時間だ。
「ねぇ、ジゼル」
真剣な声が聞こえて横を向くと、夫はでいつの間にかシートの上に正座をしていた。
「これまで僕はいい夫じゃなかったんだけど……これからも一緒にいてくれる?」
「どうしたんですか、旦那様。私は昨日お伝えした通りですよ?」
「昨日ちゃんと言えなかったから。もしジゼルがこんな僕のことを嫌だなって思ってて離婚したかったら、言ってほしいんだ」
夫は正座して私をうかがいながら、目に涙をすでに溜めている。
この人はこんなに泣き虫だったのか。
「旦那様、どうしてそんなに泣いているんですか」
「ジゼルが無事で良かったなって、思って」
「旦那様は研究中の事故に遭われてから本当に変わられましたね」
「うん、そうだね。ジゼルを失いたくないってやっと気づいたんだ」
直球だが柔らかい言葉。夫の言葉は見事に私の心に刺さっていた。
「ねぇ、ジゼル。好きだよ」
ぽろぽろ泣きながら言う夫の素直すぎる言葉に、私は抗えなかった。
契約結婚で、病気の弟も助けてもらった。それで十分だったのに。
「旦那様は泣き虫ですね」
袖口で涙を拭う夫の腕をそっと掴んでハンカチで涙を拭う。
夫は鼻をすすると、私に抱き着いてきた。
「嫌?」
「嫌じゃないです。それに……契約結婚の契約書を破棄しないとダメですよ? 私、返品は嫌です。旦那様は思い出していらっしゃらないと思いますが」
「もう捨てた」
「え?」
「ジゼルの机の上にあった離婚届と契約書が、風で飛んで廊下に舞ってたのを見たんだ。あれはもう魔術で燃やしちゃった」
「捨てるじゃなくて燃やしちゃってるじゃないですか」
「うん、そうだね」
おかしい。離婚届と契約書は机の引き出しにしまい直したはずなのに。
夫が急に帰ってきておかしくなっていたから、バタバタしてしまうのを忘れてた?
そんな私に対して余計なことを考えるなとでも言うように、夫は抱きしめる力を強くする。
「ねぇ、ジゼル。好きだよ。本当に好きなんだ」
こんな風に泣きながら告白する夫にときめく日が来るなんて思わなかった。
始まりは契約だったけれど、この夫となら一緒に生きていける気がした。
***
五月の十六の日、ジゼルと離婚した。
彼女は「今まで弟のことで援助をありがとうございました」と深々と頭を下げてトランク片手に振り返ることなく去って行った。
研究のことしか頭にない僕には珍しく、そのジゼルの後ろ姿は脳裏に焼き付いている。波打つ栗色の髪に細い手足。トランクはとても軽そうだった。
使い込まれたブーツで飛んでいきそうなほど彼女の足取りも軽い。
それがジゼルを見た最後だった。
契約結婚を終えて、子供ができなかったから離婚したんだろうと再婚を勧めてくる奴らを調子に乗らせないように、離婚原因は僕の暴力だということにしてあった。お喋りな同僚に話すと、あっという間にその噂は翌日には広まっていた。
上司には嘘だとすぐ見抜かれたが、仕方がないじゃないか。
家庭なんて持ちたくないのだ。研究だけしていたい。
自分の好きなことだけしていたい。子供ができてそちらに時間を割くなんておぞましい。
なにせ、両親は僕が生まれたことでうまくいかなくなったのだ。夜に両親が喧嘩して母が泣いていたことをよく覚えている。
生まれ育った田舎では字が読める人でさえ稀だ。ただでさえ数が少ない魔術師なんて夢のまた夢。
黒髪と赤目が両親どちらにも似ていなかったせいで、母は父と周囲から不貞を疑われていた。教会で魔力測定した際に魔力が豊富なせいでそうなっていたと分かり、両親はやっとギスギスせずに元通りになった。
でも、僕は元通りにならなかった。
夜に一人、廊下で泣いている母にタオルを持って行った時に
「お前なんか生まれなければ……こんなことにならなかったのに!」
なんて言われたらさすがに傷つく。
母は周囲から責められて僕以上に傷ついていたので仕方がないとは分かっているが、それでも魔力が豊富で将来有望だからと手のひらを返してすり寄ってくる両親との関係を改善する気はなかった。父なんてこれまで「どこの男の子供か分からん」「あんなのは息子じゃない」なんて言っていたのに。不貞の子が突如自慢の子になるのだ。
それから教会に推薦されて王都に行き、家に帰りたくないがゆえに勉強して魔術師になった。
今でも時折、両親の口論を夢に見る。
だから前髪を目が隠れるほど伸ばしていた。こうすれば、何も見なくて済むから。汚い赤い目も、世の中の汚い出来事も。
そんな僕の前髪を切ったのがジゼルだった。
「旦那様の目ってルビーみたい……いえ、よく熟れたトマトみたいで美味しそうですよ」
なんだ、よく熟れたトマトって。それでも悪い気は不思議としなかった。
見合い攻撃に疲れて契約結婚を願った相手。噂が出回っていただろうに、お菓子を食べまくって律儀に僕の到着を待っていた相手だ。
彼女のことは、見合いに引きずっていく上司から事前に聞いていた。ジゼル・コーツ。病気の弟の治療費で家計が苦しい貧乏子爵家の令嬢。
単純に、あぁ可哀想だなと思った。見合い相手にそんな感想さえ抱くのも久しぶりだった。
僕にも弟がいたら、必死に病を治そうとしただろうか。両親の仲が悪くて弟も妹もできるはずがなかったのだが、ありえなかった未来を想像した。
これまで見合いをさせられた高位貴族の令嬢たちは、皆同じように薄い笑みを張り付けていてとても怖かった。
何か発言しようにも、声は喉に張り付いて頑なに出てこなかった。
そんな中でジゼルだけは違った。だからこそ契約結婚の提案ができたのだ。
でも、こんな僕が家庭なんて持ってはいけないのだ。
ジゼルとは契約の関係だから案外心地よく一緒にいられただけ。彼女は僕の人嫌いも社会不適合っぷりにも大して文句は言わず……髪は切られたし風呂には無理やり入れられた時もあったが……その他は大して問題は起きなかった。研究室に泊まり込んでばかりいたのに、契約結婚してからは毎日家に帰っていた。そちらの方がパフォーマンスが上がるから。
僕に良くしてくれた彼女には、お金という憂いがなくなって幸せになってほしい。
だから、どんなに居心地が良くても感謝はしても名前は呼ばなかった。彼女は三年間で出て行く人だ。
「あれ?」
家に帰って暗いのを疑問に思い、すぐに我に返る。
そうだった、ジゼルとは離婚して彼女は実家に戻ったじゃないか。
暗い部屋を魔道具で明るくする。しぃんと静まり返った家は、元通りで素晴らしい静寂のはずなのにとても侘しかった。
ジゼルが出て行ってから元通りになっただけなのに、急に生活が味気なくなった。
撒いた噂のおかげで再婚も勧められず、研究だけに没頭できる快適な環境をやっと手に入れたのに。
ジゼルと三年間一緒にいただけで、僕は毎日風呂に入るようになってしまい、外食を味気ないと感じるようになってしまった。さらには出かける前の「いってらっしゃい」がないのも、誰もいない広い家に帰るのも違和感しかない。毎回出かける前に振り返ってしまう。
ジゼルは家事をしてくれる便利な家政婦ではない。
そんな風に思ったことはない。でも、僕は口先だけでしか彼女に感謝していなかった。彼女がいてくれて、目の色をルビーやトマトだと言ってくれて、案外僕はジゼルのいる空間で安心していたのだ。
だから、ジゼルのいなくなった家は他人の家のように居心地が悪かった。
仕事に没頭して気を紛らわしていたが、見かねた上司に休みを強引に取らされた。
その頃には離婚して一年が経っていて、休みの日に何をすればいいのか相変わらず分からない僕はなんとなくジゼルの使っていた部屋に入った。
備え付けの家具以外は何も残っていないのだが、机の引き出しにジゼルが使っていたらしい四葉のクローバーの栞が残されていた。
彼女が本を読むのかどうかさえ僕は知らない。
彼女のことを何にも知らない。でも、幸せになってほしいと思う。
離婚して彼女は幸せになっただろうか。彼女が幸せになっていれば、僕も嬉しい。両親にさえ疎まれた僕に優しくしてくれた人だから。
休みを与えられてもやることがなく暇すぎて、栞を口実に僕はジゼルにふらっと会いに行った。
転移の魔術を使えば移動時間は大幅に短縮できるのだが、この魔術は酷い乗り物酔いを引き起こす。
ふらふらになりながら、ジゼルの実家であるコーツ子爵領の屋敷に歩を進めた。
生まれたところほどではないが、王都に慣れているとかなり田舎だ。
何の約束もしていなかった上に離婚した元夫が忘れ物のたかが栞を届けに来るなんて気持ち悪いだろうと扉を叩く寸前に考えたが、すでに手は勝手に扉を叩いていた。
ただ、忘れ物を届けに来ただけ。
罵倒されても何の問題もない。そっちの方が変な希望を持たなくて済むから。
出てきた使用人に要件を告げると、当たり前だが戸惑ったような顔をされた。
その後ろから暗い顔の若い男が出てくる。
ジゼルの弟だ。似ているからすぐ分かった。
怒られるか、罵られるか。
ひとまず「実は彼女の忘れ物を見つけて……」と僕は栞をそっと差し出した。
ジゼルの弟は酷く顔を歪ませる。
「姉は……亡くなりました」
「……え?」
良ければどうぞと中に招き入れられ、頭に疑問符を浮かべながらも僕は中に入る。
「てっきり、姉の死を知ってここまでこられたのかと。あなた様も酷い顔色ですから」
転移魔術による乗り物酔いはいい方向に誤解を生んでいた。
「いえ……ただ、この忘れ物を見つけて……年季が入っているものだから大切なのかなと」
「わざわざありがとうございます。これは私が幼い頃に姉のために作った栞なんです」
ジゼルの弟ショーンは栞を大事そうに撫でる。
「本当にありがとうございます。姉の遺品はほぼなかったので……これは、姉の形見です」
「どうして……彼女は亡くなったんですか? 病気、ですか?」
「いえ……。ピアーズ様との離婚後、姉は戻ってきて幼馴染のケイン・マッカランと再婚しました。ケインが何度も姉に求婚してきて……それで……姉は今度こそ幸せになるのだと思っていました。あぁ、ピアーズ様との結婚が契約だったということは姉から聞いています。私の治療費を出してくださって、病院まで紹介してくださってありがとうございました。お恥ずかしいことに、呑気に全く事情を知らなかった私は姉が離婚して戻ってきたのでピアーズ様に文句を言いに行こうとしまして……それで姉から結婚の経緯について聞いたのです。姉は私のために犠牲になったのに、しかもピアーズ様は援助してくださったのになんて失礼なことを……」
「それは……別に……でも、君が元気になったなら良かった」
真正面から礼を言われると複雑な気分だ。
「再婚して姉は幸せになったのかと思っていました。しかし、二カ月前に姉は亡くなったと知らせが来て……。階段から落ちて打ち所が悪かったとケインは言っていたのですが、葬儀の時の様子からおかしいと思い独自に調べました。両親は姉の急な死でふさぎ込んでしまって。そうしたら、ケインにはギャンブル癖があり多額の借金があることが分かったのです。マッカラン男爵家の使用人も買収しましたが、姉はケインから暴力を振るわれていたと。階段から落ちたのもギャンブルや借金に関する口論のせいで突き飛ばされたと」
「……つまり、彼女は殺されたということですか?」
「そうです。姉のものはケインが先に売ってしまっていたようで……これは貴重な形見です。ありがとうございます」
聞きたいことは山ほどあったが、自分より年下の子が酷く憔悴した表情で語るのでそれ以上は聞けなかった。
転移魔術による酔いでフラフラしながら帰って新聞を確認すると、階段から落ちたというジゼル・マッカランの死亡記事が小さく載っていた。
弟のショーンがあれだけ調べたのだから、マッカラン男爵であるケイン・マッカランはいずれ捕まるだろう。
でも、ジゼルはもう帰ってこない。
何を期待して僕は彼女の実家まで行ったのだろう。ほんの少し、ジゼルに会えるとでも思ったのか。
再婚していたのは良かった。でも、本当に暴力を振るわれてそして死んでしまったなんて。
もしかして、僕があの変な噂を撒いたのがいけなかったのか?
だから、ケイン・マッカランはジゼルに寄ってきたのか? 普通、そういう不幸な女性を救い出そうとする正義感の強い男が現れるとばかり──。
なんで? なんで、ジゼルは死んだんだ?
弟の治療費という憂いがなくなってこれからだったのに。
もう僕のようなおかしな男の世話もしなくて良くて、契約で結婚する必要もなくて。それなのに、どうしてジゼルが死ななければいけなかったのだろう。
どうして、どうして、どうして──。
僕と離婚しなければジゼルは死ななかった? いいや、そんなことはできない。彼女は幸せになるべき人だった。僕と一緒にいたら彼女は不幸になってしまう。
あぁ、でももう本当にジゼルには会えないんだ。
僕のことを気持ち悪いと言わないでいてくれた彼女。僕に嫌そうな顔を向けなかった彼女。僕に唯一「いってらっしゃい」と言ってくれた彼女に。
ジゼルの使っていた部屋に入り浸って考える。
契約結婚したまま彼女を閉じ込めておけば、彼女は死ななかった。
力で勝る男性に叩かれたら痛い。僕だってあのムキムキな上司は怖い。ジゼルはもっと怖かったはずだ。お金の心配はなくなったと思ったのに、新しい夫に借金があるなんて。
でも、彼女なら勇気を出してギャンブルをやめてくれと言ったはずだ。その勇気によって彼女は死んだ。新しい夫に突き飛ばされて階段から落ちた時、ジゼルはどんな気持ちだっただろう。
こんなことになるんだったら、僕はジゼルと離婚しなかった。
彼女が幸せになってくれると思ったから離婚したのに。暴力を振るわれて殺されるくらいなら、こんな僕といる方がマシじゃないか。
もしも時を戻せたら、彼女と離婚なんて絶対にしない。そうしたら、彼女は毎朝僕に「いってらっしゃい」と言って送り出してくれる。
あぁ、僕は──ジゼルが好きだったんだ。
それも最初から。だから彼女のいる家に毎日帰ったんだ。
でも、自信がなかったから契約結婚にしてしまった。
だって、彼女を幸せにできるか分からなかったから。両親がずっとギスギスしていたから食卓でどんな会話をしていいか分からない。誰かと一緒に食べる食事なんて久しぶりすぎて。せっかく前髪を切ってよく見えるようになっても、ジゼルの名前を呼べない。
だって、拒絶されたら怖いじゃないか。
あの時は知らなかったんだ。
ジゼルが死んだことがこんなに怖いだなんて。二度と彼女に会えないことがこんなに心を引き裂かれるほど揺さぶることだったなんて。
ジゼルはこの世界のどこかで笑っていてくれると思っていたから。
ジゼルが使っていたベッドの上で自分でも驚くほど泣いた。
親に拒絶された時でさえ泣かなかったのに。
そうして、九年間。
つまり、ジゼルと離婚して十年後まで研究室にずっとこもって研究した。引きこもっている最中はトマトの丸かじりばかりしていた。トマトを見たらなぜかジゼルのことを思い出すから。
やがて、時を逆行する魔術を研究して編み出すことに成功したのだ。
戻った先の僕は相変わらず実験中だった。しかも繊細な操作のいる実験で、意識が切り替わったことによる魔力の乱れで爆発が起きた。
救助に駆け寄ってきた上司や同僚たちの顔が皆若いし、何よりも上司は生きている。研究に没頭する僕の横で、恋人とのデート内容を延々報告してきた同僚の顔も十年分若い。
成功を噛み締めながら意識を失い、目を開けるとジゼルがいた。
この十年間、ずっとずっと会いたかったジゼルがいた。
十年前の君へ、伝えたいことがたくさんある。行きたい場所もたくさんある。
ジゼルに金を貸すよう迫っていたケインを騎士に引き渡した翌日、渋々だがまた職場に出勤した。
前の日は、ケイン・マッカランの状況を調べようと上司に会いに行っていたのだ。僕は研究しかしてこなかったので、こういう時にどうすればいいのか分からない。逆行前にジゼルに暴力を振るったのだから、今回も用心するに越したことはない。レストランでケインと握手した時に魔術で印はつけておいたのだ。
しかし、ケインの動きが思いのほか早かったのでもう状況把握の必要はなくなった。
二日連続でやたら体を鍛えている上司と相まみえる。
上司は以前雪山で遭難して魔力も枯渇し、最後の最後で頼れるのは魔術ではなく己の肉体だけだという結論に至ったため、これほど鍛えている……らしい。
「ソロモン、君はまるで別人だ。以前の君なら夫人のためとはいえ、マッカラン男爵の動向を知りたいからどうすればいいか教えてほしいなんて私に頭を下げることはしなかったはず。記憶喪失が君をそこまで変えたのか?」
「人はそんな簡単に変わりません。記憶喪失程度で根本の性質は変わりませんよ」
「しかし、君は変わったじゃないか」
「──それは、恐怖です。耐えがたい恐怖が僕をこのように変えたのです。ジゼルを失う、二度と会えない。その恐怖が僕を変えたんです」
逆行前に僕の離婚理由の嘘に気づいた聡い上司は、もしかしたらいずれ何かに気づくかもしれない。
「奥様はお元気ですか?」
「あぁ、もちろん。なんだ、そんなことも聞けるようになったのか」
「……来月中、いえ今月までに病院に奥様と一緒に行ってください。なるべく早く」
「なんだ? 上司の健康状態を、一番健康を疎かにしていたソロモンが気にするのか?」
「必ず、行ってください。お願いします」
「そんなに真剣に言われると不安になってくるな。分かった。ただ、ソロモンも行くんだぞ」
「はい、分かっています。ジゼルが心配しますから」
逆行前、僕がジゼルの死を知ってから二年後。上司の妻に病気が見つかって治療の甲斐なくあっさり亡くなってしまった。
そして元気がなくなった上司も急激に弱って亡くなってしまったのだ。だから、僕は逆行して最初に上司の名前を間違えたのだ。そのせいで記憶混濁や記憶喪失と診断されたのだ。
ジゼルの前で契約結婚内容について口にできなかったのは、ジゼルが死んだと知ったあの時がフラッシュバックして泣いてしまうから。あんなこと、思い出したくない。思い出したら、また現実になりそうで怖い。すると、ジゼルも僕が記憶喪失だと誤解したようだ。
上司に対してこのくらいは許されるだろう。
愛する妻を亡くすのは何よりも辛いことだと知ってしまったから。
ねぇ、ジゼル。
十年前の君に。僕は君に伝えたいことがたくさんあるんだ。
でも、まずはここから──。
僕は君が好きだよ。
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