第8話 英雄のための英雄譚 ⑤
黒鉄の門の向こうには『記憶』があった。
私たちはしばし静寂の中で沈黙し、やがて犬が「圧巻だな」と呟く。
夜の間際と見紛う青みがかった薄闇の中を、かつてどこかに存在した物語の登場人物たちが歩いている。
それは例えば、土産の箱を開けて年老いた男。
裏切りに遭い、恩人の元を去った鶴。
月へ帰ったはずの美女。
それから、藁を元手に巨万の富を築いた若者。
彼らに見えるが、もはや彼らではない。
黒い無音の影、あるいは土人形、もしくは化石。そんなものに成り果てて、虚ろな足取りで彷徨っている。
外から城のように見えていたのは、彼らがかつて紡いだ物語の残骸だ。
高価な漆塗りの箱、艶やかな反物、存在しないはずの五つの宝物、無数の小判——よく見ると、異国によくある両刃の剣、色鮮やかな硝子窓、金の盾、銀の斧。
それらが重力を忘れたように、ゆったりと流れ、浮かんでいる。
終わったはずの物語。
天命という薇発条が止まってもなお、動き続けた被創造物の成れの果て。
「まあ、あんまり見てて気持ちのいいもんじゃねえな」
独りごちた犬の足元へ、黒いウミガメがノロノロと近づいてきた。彼が肉球の前足で踏むと、霧のように消え去る。
「これなら、お供が全員動物でも問題ないってわけか」
言って、こちらを見上げる。猿も雉も同じように私を見つめ、私は手元の刀へ視線を落とし、
「刃こぼれは、そこらの岩でも叩いて作るか」
そうして私たちは、私たちの物語の佳境を迎える。
つまり、私たちが倒すべき『悪い鬼』は、人間にとっての不可視の恐怖であり、桃源郷にとっての逸脱者だった。
* * *
終いも終い。
鬼退治の最後に残ったのは、屈強で大柄な鬼の大将などではなかった。
私たちの眼前には、そっと互いに身を寄せ合うウサギとタヌキがいる。
「因幡の白兎?」
犬が首を傾げ、
「何言ってんのよ、あんた。どう見てもカチカチ山でしょ」
猿が呆れてため息をつく。
「桃太郎、僕がやろうか?」
雉が尋ねるのは、私が刀を下ろして突っ立っているからだろう。
「……いいや。誰が見ていいなくとも、『桃太郎』は『桃太郎』であるべきだ」
私は答え、刀を振り上げる。タヌキがウサギを庇うように前へ躍り出た。私はさっさと刀を下ろして終幕に至ろうと思うも、なぜか右腕が動かない。
「…………」
荒涼とした薄暗い景色を、一陣の風が吹き抜ける。終わった物語の宝物が、周囲を囲っていた鈍色の塀が、砂のように崩れていく。
頭上の雲が薄らぎ、
「お前たちは、なぜ共にいる?」
筋書きにない問い。英雄の義務の外側。私に悪役の存在理由を理解する義務はなく、今の私がやるべきことはこの小さな鬼を切り伏せること。
それでも尋ねたのは、右腕が動かないがゆえの単なる暇つぶし。あるいは尺稼ぎ。
私の問いに、ウサギとタヌキは黙ってこちらを見上げたまま。影のような姿に口らしきものは見当たらないため、答えようにも口をきけないということか。
「お前たちがカチカチ山のタヌキとウサギなら、互いに敵同士であるはずだ。タヌキに惨殺された老婆のために、ウサギはタヌキを溺死させた」
ウサギがタヌキの腕にしがみつき、ふるふると首を横に動かす。
ふと、雲が途切れて光の梯子が落ち、
「私たちは、もう、違うよ」
澄んだ声でウサギが言った。影が色彩を取り戻し、ふさふさの白い毛と赤い瞳のウサギに変わる。タヌキはほとんど色が変わらない、ゴワゴワの毛の短足。
二匹は互いに手を取り合い、踵を返して駆け出した。徐々に明るくなる景色の中、なだらかな丘に無数の声が響き出す。
「会いたかったよ」老人が艶やかな姫の手を取り、
「もうっ、ついて来ないでよ!」鶴が追いかけてくる男を怒鳴りつけ、
「私は誰とも結婚しません」美女が五人の求婚者にキッパリと告げ、
「また藁からやり直しかぁ」青年が一本の藁を日に透かし、明るい声で独りごちる。
終わったはずの物語の再生。
——いや、これは、新しい物語の始まりか。
かつての主人公。かつての脇役。彼らは笑いながら透けて消え、後には緑の丘だけが残った。
しばしの静寂。
「……おい、桃太郎」
最初に口を開いたのは犬だった。
そう。彼はいつもこの役回りだ。
「お前、何したんだ?」
「ウサギとタヌキに話しかけた」
「そいつは見ればわかる」
「見た以上のことはない」
「じゃあ、何なんだよ、これ……」
若草が茂る丘に風が吹き、重なり合う葉がさらさらと小気味いい音を立てる。頭上に堆積していた黒雲は跡形もなく、広がるのは清々しい青の晴天。
猿が「『めでたし、めでたし』ってやつ?」と首を傾げ、雉が「桃源郷的に、これはアリなのかな?」とこちらを見る。
私は少し考え、
「『鬼』はもういない。鬼ヶ島ごと消し去ったのだから、文句を言われる筋合いはないだろう」
私は揺れる若草の隙間に目をやる。キラキラと陽光を反射しているのは、物語に引き込まれていた現実の金銀財宝の類だろう。
「英雄の凱旋には手柄の財宝が必要だ。いくらか拾って帰ろう」
言うと、犬が少し考え顔をして、「刀の刃を潰すのも忘れないようにしないとな」と私の刀を肉球で指した。
* * *
財宝を積んだ舟に乗り込んだところで、犬が「帰るのか?」と尋ねてきた。
「……だからこうして、舟に乗っている」
「そうじゃなくて、『本当にそれでいいのか』って聞いてんだ」
岩に繋いだままの縄を一瞥し、「あのタヌキたちと同じことをすりゃあいい」と続ける。
つまり、英雄譚の終わりの続きを歩み、いつか違う物語に踏み出せ、と。
「いいや、私は帰る」
猿が縄を外して舟に乗り込み、雉が船縁に留まる。
「私は英雄だ。これからも英雄であり続ける。そして、英雄とは、悪を滅するために旅立ち、平和を持ち帰る存在だ」
私は舟底に置いていた櫂を取り、つっと岩を押して舟を漕ぎ出した。犬が「そういうもんかねぇ」と前足で顎を摩って、何かを閃いたような顔になる。
「つまりあれか、『帰るまでが英雄譚』って、遠足みたいなことか」
私が「変なものと一緒にするな」と言うと、「ワン!」と吠えて尻尾を振る。
「キャッ、キャッ」その尻尾に猿がじゃれつき、
「ケン、ケン」驚いた雉が少しだけ飛び、舳先に留まる。
帰り道は、行きより少し長くなりそうだ。




