第4話 英雄のための英雄譚 ③
山を降りてしばらく歩くと、前方に鬱蒼とした森が見えてきた。
深緑の葉が幾重にも重なっていて薄暗く、古く歪んだ木の幹が立ち並ぶ様は、いつか倒した大蛇を彷彿とさせる。
「山賊でも出そうだな」
森に入ったところで、犬が周囲を見まわしてぽつりと呟いた。それから、私の腰の刀を一瞥する。
「襲われたら頼んだぜ、桃太郎」
「その前にお前の鼻で察知できないのか」
「カビっぽい匂いが充満しててよくわからん」
「……今回は頼りにならないお供だな」
適当なことを言いながら、しかし、私の適当な返しには「『今回』?」と敏く反応する。
「お前さん、俺を頼りにしてたのかい?」
「いいや、全然」
「桃太郎ぉ、お前さんは本当、素直じゃねえなぁ」
「…………」
「まあ、そういうことなら任せときな。俺のこの立派な牙で——」
犬が胸を張ったところで、不意に頭上の枝がガサガサと音を立てた。「キャッ、キャッ」と動物の鳴き声。
見上げて最初に見えたのは、数本の小枝が落ちてくるさま。その向こうから近づいてくるのは、小柄な人間のような影。
「犬、伏せろ!」
私は反射的に刀を抜き、
「伏せるのはお前さんだぁ!」
犬がばっと飛び上がった。影は鋭い牙も刀の刃もひらりと躱し、
「キャッ、キャーキャキャッ!」
ひしっと私の胸にしがみつくと、勢いよく頬に口付けをした。
「……猿?」
野山でよく見かける、あの猿だ。茶色い毛並みの、赤い顔。若い個体なのか、一般的な猿より一回り小さい。
それが私の両肩に手を置き、何度も頬を擦り寄せては口付けをしてくる。
「おい、桃太郎。そいつ、まさか……」
犬が呆気に取られたような顔で言う。その先に続くはずの言葉は容易に想像がついた。
「できれば、最後に会いたかった」
私のため息は虚しく消え、猿がきび団子の袋へ手を伸ばした。片手で器用に開け、一つ掴んで口へ放り込む。
「あなた、今回は桃太郎って名前なの!?」
猿が甲高い幼女のような声で叫び、「素敵な名前!」と言って私の首に抱きついた。
「お前……」
「あたしのことは『とら』と呼んでね」
「なぜ、猿なのに『虎』?」
「動物の虎じゃなくて! 『とら』は最近町で流行ってる名前よ」
猿がひらりと地面に降りて、「今回もよろしく!」と片目だけを一瞬瞑る。一体これはどういう動作なのか。
ふと、その隣に座るジトッとした表情の犬と目が合った。
「……いいや、お前のことは『猿』と呼ぼう」
言って、私はさっさと歩き出した。背後から「えーっ!」という猿の不服そうな声と、犬が「ふんっ」と鼻で笑う音。
「よかったな、大好きな桃太郎に名前つけてもらえて」
犬がこれみよがしに言って、
「何よ! あんたは相変わらず嫌味な奴ね!」
猿が間髪入れずに声を上げる。
「お前さんだけ人間の名前で呼ばれるなんて、させないぜ」
「あっ! まさかあんた、仕組んだわね!?」
「それに、お供の名前は統一感が大切だ」
「もしかしてあんた、『犬』なの?」
「おうよ」
「あははは! まあ、腰抜けのあんたにはぴったりな名前だわ!」
「うるせえなぁ! 桃太郎がつけた名前にケチつけんじゃねえ!」
前回も、前々回も、この二人はずっとこの調子だ。仲裁役のもう一人が先に来ていたなら、ここまで騒がしい旅路にはならなかっただろうに。
「犬、猿ときて、今回のあいつは何だろうな」
「いつもあんたより弱いからね……ヒヨコとか?」
「それだけは勘弁して欲しいなぁ。鬼を退治するどころか、炙って食われちまう」
「えっ、あたしたち、鬼退治に行くの!?」
「ププっ」
「……なんで笑うのよ」
「ついて来てからんなこと言うとか、お前は相変わらず馬鹿だなぁ」
「何よ! あんたにだけは言われたくないわ!」
彼らは桃源郷がこの世界に仕込んだ、英雄譚のための装置——つまり、存在の基本構造は私と変わらない。
それなのになぜ、こうも彼らは俗っぽいのか。物語が終わるたびに桃源郷へ帰る私と違い、常にこの世界にいるからだろうか。
ふと、いつかの日、私を抱き上げた媼が溢した言葉を思い出す。
『どうしたんだろうねぇ。赤ん坊だってのに、ちっとも笑いやしない』
彼女がそう言った日から、私は折を見て笑うよう心がけてきた。「気味が悪い」と言って捨てられては、また物語をはじめからやり直さなければならなくなる。
(犬と猿が変なのか……それとも、私の方が——)
隣に並んだ猿が、「ねえ、桃太郎」と私の着物の袖を引く。
「あなたは、三人目がどんな姿をしてると思う?」
私は少しだけ考えて、「ヒヨコでなければ何でもいい」と答えた。
* * *
森を抜けると、辺り一面に若草色の平原が広がった。ところどころに白い岩が転がっていて、遠くに小さく崖が見える。
頬に吹き付ける風の感触に、私はふと、前回の旅路を——
「あんたっ、人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」
——思い出そうとしたが、猿の金切り声に中断された。
「何言ってんだ。お前は今、『人』じゃなくて猿だろ」
「もうっ、ああ言えばこう言う!」
「すまねぇな。俺は頭がいいから、こういうちょっとした言い回しも気になっちまうんだ」
「自分で『頭がいい』とか言う奴は大体馬鹿なのよ!」
「じゃあ、俺は『大体』の中の例外ってことだな」
背後でひっきりなしに繰り広げられる犬と猿の口喧嘩に、私は空を仰いでため息をついた。まさに『犬猿の仲』とは彼らのこと。
「おい、お前たち、いい加減に——」
流石に止めに入ろうと思った瞬間、遠くでばさっと鳥の羽ばたく音がした。私は視界の端に黒い影を捉え、戻しかけた視線を空へ。
大きな鳥の影が、すうっと空を滑って降りてくる。「ケン、ケン」と特徴的な鳴き声。
犬が「おっ」と声を上げ、猿が「あら」と呟いた。
赤と、青と、濃い緑。鮮やかな雉が私の前へ降り立ち、縞々の長い尾が若草と共に風に揺れる。
雉はじっと私を見上げると、右の翼を体の前へ出し、異国の騎士のように優雅なお辞儀をして見せた。
「…………」
私たちは沈黙した。風が草を揺らす音だけがしばらく響き、
「雉って飛べんのか」犬が感心するように独りごち、
「よかったわね、桃太郎。ヒヨコじゃなくて」猿がどこか気遣うように言い、
「……その姿でも、そのお辞儀をするのか」
やっとの思いで口を開いた私に、雉は「ケン」と控えめな鳴き声で応えた。




