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☆三月【少年】

和智田(わちだ)陽平(ようへい)】編

 どうしてあんなに馬鹿だったのか。

 どうしてあんなに愚かだったのか。

 昔の自分をそんなふうに思う人間は、きっと多いだろう。

 後悔なんて何にもならないとはわかっていても、忘れられない自分の姿というのは必ずしも存在する。忘れることが逃げになるからじゃない。戒めとして憶えておきたいからでもない。

 ただただ、忘れられないだけなんだ……。



 何事もなかったかのように澄まし顔をしていれば、周りは空気を読んでいつも通りに接してくれる。テンションの高いスケボの存在も大きかった。一時期はダッサい喧嘩もしてしまったが、こういう時にふわふわと明るい奴がいてくれると助かる。

 飯時以外は極力部屋で過ごして、土日の間にあいつらの頭の中がリセットされることを願った。

 休み明けの三月二十日。

 学校の屋上で、ひし形の網目が並んだフェンスに片手の指をかけ、海に並行して泳ぐ雲を見つめていた。

 コートが必要なほどでもないが、春の暖かさというには時折吹く風が冷たいせいか、三年生が卒業して解放されたこの場所には、昼休みになっても誰もこなかった。

「……陽平君」

 と思ってると来たりするんだよな。……やっぱり、こいつは忘れてくれないのか。

「どうして、嫌いなの……? みんなの誕生日は祝ってくれたのに……」

 振り返った先にいた由佳は、先日の視線の続きだというように褪せない熱を向けてきた。

 なんてことないとしゃっくりのように鼻を鳴らし、前に向き直る。

「別におかしいことでもないだろ。そういう人間だっているさ」

「陽平君はそういう人間じゃなかったじゃん」

 確かに、昔は違った。誕生日が好きというより、祝いごとにかこつけて、はしゃいだり盛り上がったりすることが好きだった。

 不自然にならないようにと口を開き、続けて声にしようとして、飲み込んだ。

 人の感性は変わるとか、自分も大人になったとか、どう考えても言い訳以外の何にもならない答えしか出ず、それを相手が納得して聞き入れるかと考えた時、すぐに〝ノー〟と出た。

 どうせイタチごっこになる。変わったのは俺だけじゃない。由佳だって俺に怒鳴るほどに大きく成長している。

 そう思うと、今まで嘘をついていた自分に片腹が痛くなり、無駄に彼女を傷つけてしまっただけなのだと振り返った。

 どこかで、聞いてほしいと思う自分がいたのかもしれない。きっと、いつかは言わなければならない時が来るのだと思ったのかもしれない。

 気がつけば、遠く海の果てに見知らぬ土地を描いてしまうほど目が冴えていた。

「五年前の今日……――妹が死んだんだ」

「……え……」

 由佳の声は、水を打ったように静かだった。

「妹って……悠乃(ゆうの)ちゃんのこと……!?」

 久しぶりに聞いた妹の名前に、背中が張りつめる。

「ああ……。お前も知ってただろ、あいつが不登校だったこと……。いじめに遭ってることは学校側にも話してたのに、真面目にかけ合ってもらえなくて……。親も下手に事を大きくすることができなくて、強く言えずにいたんだ……」

 人見知りだった由佳でも、一緒に下校する流れで悠乃とはたまに遊んでくれた。それでも、学年が二つ離れていたこともあって、俺たちが五年生になって下校時間が遅くなると、悠乃は一人で帰るようになって……それが発端になっていたように思う。

「俺もはじめは、なんとか学校に行かせようと思って、たまにでいいから一緒に行こうとか、俺といれば学校は楽しくなるとか、テキトーなことを言って無理やり部屋から引きずり出そうとしてたんだ。けど……」

 いくら呼びかけても、あいつは布団に潜ったまま、こっちを見ようともしなかった。

「次第に、妹が不登校なことを周りからいじられるようになって、俺が悪いんだと言われているような気がして、怒りが湧き上がってきて……。お前のせいで俺まで嫌な目に遭ってるって、いじめっ子に立ち向かう勇気がないのはお前が悪いんだって、言っちまったんだ……。その翌日、あいつは……学校の屋上から……」

 こぶしが白く、血管が浮き出て、フェンスが軋んだ。

「う、うそ……」

 裏返って、くぐもる声。

 言いはぐれないようにと、唾を飲み込んでから軽薄と落ち着いた顔を振り向けた。

「お前が知らなかったのも無理はない……。学校が祝日で休みだったから、目の当たりにしたのは数人の教師だけ。警察沙汰にはなったが、学校側は厳重に対応して、隠蔽したんだ……。剥がれた屋根を修復するとかいって、翌日も急遽学校が休みになったのを憶えてるだろ」

 両手で口元を手で押さえ、押し黙った由佳は見る見るうちに瞳を濡らし、表情を歪めていく。

 しかしその直後、俺は思ってもみなかった言葉を浴びせられた。

「そんなの、陽平君が悪いよっ!!」

 頭の中が真っ白になった。

 期待した同情でも、悠乃に対する悲嘆でもない。

 ただただ、俺に対しての怒りが込められていた。

「どうして!? わたしにはあんなに優しくしてくれたのに、どうして悠乃ちゃんには同じようにできなかったの!? 悠乃ちゃん、陽平君のことが一番好きだって言ってたんだよ!! 一緒に遊んでくれるお兄ちゃんが一番好きだって言ってたんだよ!!」

 涙を流しながら迫るその顔が、妹の姿と重なる。

 意識が遠退き、半開きになった唇は吹きさらしになって酷く渇いた。

 その時、出入口の扉がガタンと音を立てて開き、誰かが駆け込んできた。

「ダメよ、ナル……!」

 由佳の肩を、エミリーが掴んだ。見ると、薄暗い扉の奥に動く人影がちらほらと見て取れた。

 聞かれていたのか……。

「アナタは悪くないわ、陽平ちゃん。小さい頃の話なんだから、抱えきれないことの一つや二つ……あるのが当然よ」

「そうだよ! 俺っちだって立場が同じだったら、どうすればいいのかわからなくて投げ出してたかもしれないし……!」

 走り寄ってきた二人がそう言うと、その後ろから翻すように別の声が続く。

「……小生には弟がいる。堅物で融通の利かないつまらない奴だが、傷つけたくない大切な家族だ。貴様の行動が間違っていたとは言わんが、正しかったとも言えんな」

「子供だからという理由でなんでもかんでも許されるわけじゃない。妹さんが気の毒だ……」

 押さえた眼鏡の奥で、瞳は斜め下を向いていた。

 自分の行動が正しかったのか、間違っていたのか。それくらいは判断できる。

 たとえあいつが許してくれたとしても、俺は許せない。

 あいつを追い込んでしまったのに、自分が生まれたことに感謝したり、のうのうと歳を重ねることに嬉しさなんて感じられない。ましてや、他人に祝ってもらうなんて息苦しいだけだ。

 だから、忘れようとしていた。だから、逃げようとしていた。

「……和智田、お前はそれでいいのか」

 オスヤマは訊くようで訊いていない。忍ぶように歯を食い縛っていた。

 お前と出会って、もう一年か……。もっと腹を割って話せたら、よかったんだけどな……。

「俺は、自分の意思で判断する。お前らにフォローされようが、罵られようが、自分で納得できなければ……なんの意味もない……」

 それだけ言うと、クラスメイトたちの間を縫って、屋上をあとにした。



 その四日後に、修了式が行われた。

 一年の総括と新学期への戒めが語られ、教室でも、通知表とともに説教を喰らった。

 ……そうか、新学期か。二年生になれば、クラスが別になる奴らも出てくるんだな……。

 複雑な喪失感と、安心感。もっと一緒にいたかったと思う反面、クラスが違えば合わせづらい顔を合わす機会も減るだろうと思った。

 担任が文句の多い激励の言葉を締めくくり、最後の号令がかかる。〝ありがとうございました〟と下げた頭には、何も残っていなかった。

 そんなことなど露知らずに教室から出ていった教師を見送り、俺も後に続いた。

「──ちょっと待て」

 その足を、オスヤマに止められた。

「今から、この一年間でお前に対して積もりに積もった不平不満をぶちまける〝懺悔パーティー〟を開催する。とりあえず、とっとと処刑台に上がりやがれ」

 は……? 懺悔パーティー……?

 回れ右をさせられ、振りきった手に思いっきり背中をはたかれた。

「いって!」

 思わず声が漏れ、バンバンにマシンガンを突きつけられるがまま教卓に立つ。

 懺悔じゃなくて拷問じゃないのか!?

「よーし、まずはオレからだ。――言わずもがな、オレが一番嫌だったのは、女装させられたことだな。よく考えたらお前がやればいいのに、自分がやりたくないからって押しつけやがって。そういうところがクソ憎たらしかったぜ」

 自分の席に戻り、立ったまま腰に手を当てたオスヤマは、刺すような視線を向けてきた。

 女装……? 何言ってんだ、今さら……。

「でもよ。それ以上に、誰かのために動こうとする心意気はかっこよかったぜ。男のオレでも惚れちまうほどの背中だった。それでこそ、最高の相棒だぜ!」

 …………。

「――あんたのせいで授業をサボることになって、入学してまだ間もないのに先生から目をつけられる羽目になっちゃったわ。ちゃんとよく考えてから行動してよって、ずっと思ってたのよ。──でも、どんな状況でも笑って楽しんでるあんたの顔は、すごくイキイキしてて、こっちまで楽しい気分にさせられた。それは悪くなかったわね」

 続いて立ち上がったエミリーは、皮肉っぽく笑い、すぐに口元をゆるませる。

 お前ら……。

「俺っちも、よくわからないことばっかりやらされて、疑心暗鬼のまま引きずり回されたって感じ。ほんっっっとに怖かったんだからね。──だけど、わっちーのそんな大胆な行動が道を切り開いてくれたんだ。今度は、俺っちが女の子との接し方を教えてあげるよ!」

 そんな慰めるような目で見るな……。

「口先だけの汚い雨男。泥だらけの汚い雨男。──それが、みんなの幸せを呼ぶまぶしい晴れ男になった。ウチの中では、どうでもいい存在じゃなくなった」

 やめろ……もっとボロクソ言ってくれ……恨んでくれっ……。

「あたいが今まで見てきた野郎どもと同じ、勢いだけの無謀な能なし男さ。──まあ、あたいに挑んできた根性は見上げたもんだけどね。力だけじゃない強さもあるって、認めてやってもいいよ」

 俺は強くなんかない……ただの見せかけだ……。

「心が潔癖症っていうのかしら。どこか近寄りがたさがあって、きっとアタシのことなんて眼中にないんだと思うわ。──でもやっぱり、人としての色気がたまらないのよね。アタシにとっては永遠に愛しい人よ♪」

 俺は自分のことしか見れていない……それで精一杯なんだ……。

「怖かったわ。プライベートまで踏みにじられる気がして。お節介というよりも、無責任としか思えなかった。──それが、私の早とちりだった。ワンパクだけど、ちゃんと線のあるしっかりとした考えも持っていて、それでいて可愛いげのある、おませな男の子ね」

 違う……俺はただのガキだ……。

「お前を同じ人間だとは思いたくない。──だが、それは僕が持っていないものをお前が持っているからだと気づいた。そのうち、苦手意識がなくなればいいと、思わなくもなかった」

 苦手なままでいい……嫌いなままでいい……。

「んぅ!」

 〝いきなり後ろから大声で話しかけてくるところと、お団子を掴まれるのが嫌だったよ。──でも、自分に正直になることが大切なんだって気づけたのは、リーダーのおかげ。他にも書きたいことはたくさんあるけど、一番伝えたいのは、リーダーのことが大好きってことだよ!〟

 こんな手紙……そんな笑顔を向けるんじゃない……。

「貴様は言っていたな、〝夢の中で生きるな〟と。小生にとって、空想の世界ほど幸福に満ちたものはない。その世界を破壊せんとした貴様は魔王だ。最悪な災厄だ。──だからこそ、小生は貴様を討つ。現世で討つ。それまでにくたばったら承知せんぞ!」

 俺だって夢の中にいるんだ……現実なんか見ちゃいない……。

「ボクのことをバンドー君に押しつけてたよね。自分は楽してご飯の味見ばっかりしてさ~。ニートのお風呂くらいいい加減だったよ。──でも、それが前菜だったのかも。諦めかけてたボクを奮い立たせてくれたリーダー君は、肉汁あふれる特上ステーキくらい特別で魅力的に見えた。思わず喉から手を出しちゃったよ~」

 騙されてるだけなんだ……それは偽物だ……。

「許したくないよ、陽平君のこと……。わたしに対しても、悠乃ちゃんに対しても、陽平君らしくなかった……。わたしがずっと憧れてた陽平君は、わたしの前だけの仮面だったんだって……本当の顔じゃなかったんだって、思って……。ここで久しぶりに会った姿だって、本当なのか嘘なのかわからない……。こんなにみんなから好かれてるのに、信じていいのかわからないよ……!」

 …………。……俺は……。

 全員が立ち上がったところで、オスヤマは由佳を振り返り、ワンちゃんは前へ出てきた。

「何言ってんだ。内と外で見せる顔が違うなんて、誰にでもあることだろ。心に馬鹿正直なガキだからこそ、それが下手くそなんだよ」

「妹さんのことがあったからこそ、今の和智田は理想の自分になろうとしている。演じるだけの未熟な形でも、それは成長だ。昔の姿と違うのは当然のことだろう」

 スケボも教卓のすぐそばまで駆け寄ってきて、一心とこぶしを上下に振る。

「そうだよ、周りより劣っていることが恥なんじゃなくて、過去の自分より劣っていることが恥なんだよ! 俺っちだって男だからわかる! 昔の情けない自分を忘れるために、今を必死で生きたいんだ!」

 すると、ゆっくりと歩き出したヤバ美は由佳の隣に立ち、その長い髪を恨めしそうに睨んだ。

「アナタこそ、逃げているんじゃなくて? 本当に言いたいのは、陽平ちゃんを否定するような言葉じゃないでしょう。自分を偽らずに、ちゃんと向き合いなさいよ!」

 虚を衝かれたようだった。目を見開いた由佳は、まつ毛を伏せて胸に手を当て、

「わたしは……」

 下を向いたまま息を漏らす。制服を絡めながら握られていくこぶし。顔を見なくてもわかるほど苦しそうだった。

「わたし……わたしだって……! 悠乃ちゃんのこと、気遣ってあげるべきだったのにっ……! 何もできなくて、ごめんねっ……!」

 嗚咽を殺し、肩がむせる。ポタポタと落ちる雫が机の上で弾けて、木目に吸い込まれた。

 必死にこらえようとする姿が見ていられなくて、大きく首を振った。

「なんで……お前が謝るんだよ……! お前は関係ないだろ! お前は悪くないだろ!」

「そう言うと思ったから言いたくなかったのっ!!」

 間髪入れず顔を上げ、赤く腫れた目を細めながら叫んだ。

 ――悠乃が小学校に入学した時、校庭のブランコに乗った悠乃の背中を押していた由佳が、「わたしも妹がほしいな」と言っていた光景を思い出した。俺は自分だけ手持ち無沙汰になったのが気に食わなくて、早く帰るぞと急かし、その言葉の意味なんて考えもしなかった。

 一人っ子だった由佳は、本当はもっと遊んでいたかったのかもしれない。本当はもっと、悠乃と一緒にいたかったのかもしれない……。

 今さらすぎる後悔に深くうなだれた。そこへ、ねねっこの乾いた笑いが重なる。

「……もうやめれば? 和智田の中には自分を許したくない気持ちがあるんだろうけど、じゃあ、いつになったら解放されるの? 死んだ人は帰ってこないのに、誰の許しを待ってるの? それって有益な時間なの? 一生罪を背負うとかキモいこと言ったら、即埋める」

「確かに、結局のところ、貴様がどうしたいのかがわからん……。一所懸命考えたことは武器にも邪魔にもなる。もし、心の中が複雑になっているのなら、シンプルな言葉一つで表現してみろ。それが難しいのなら──全部捨てるべきだ」

 バンバンが腕を組むと、歩み寄ってきたバチ子も同調するように両手を腰に置いた。

「そいつはいいねぇ。本望じゃないけど、それであんたが楽になるってんなら、あたいたちのことは忘れたっていいさ。――この際、つらいのならパパッと捨てちまいな!」

 あまりにも清々しく放たれた言葉は、胸の内を疾風のように吹き抜けた。

 ……そうだ。新しい自分になるためには、過去の自分を捨てるべき。そう思ったから、この島に来て、自分をリセットしようとしたんだ。

 本当に記憶喪失になれたらどれだけ楽か。それで前に進めるのならいいんじゃないか。過去の自分とは向き合えなくても、未来の自分とは向き合える。これから出会うのは未来の自分だ。これから生きていくのは未来の自分だ。俺はもっと前に進むために、全身に乗っかっている重いものを置いていく必要がある。

 また新しい土地で新しく始めればいい。全部を忘れることでそれが叶う。思い出した過去も、この島であったことも、こいつらのことも……全部忘れて……。

『――そんなのだめだよぉ!!』

「!?」

 クラスメイトの顔を一人一人見渡していた時、頭の中に子供の甲高い声が響いた。

 幼稚園児だろうか、小学生だろうか、一瞬だけ妹の顔が浮かんだが、すぐに消える。

 そして、気づいた。

 頭の中でフラッシュバックしたものではなく、耳から脳へと直接届いた声であると。

 聞き覚えのない声だが、それは確かに目の前から聞こえた。

「……あ、愛……!?」

 隣を振り返ったワンちゃんは、レンズの奥の目を見開く。

 発した本人も両手で口を押え、呼吸を忘れたように固まった。

 再び目が泳ぎ出した時には、その小さな体からは思いもかけない大声が張り上がった。

「絶対に嫌だよっ!! 愛たちのこと、忘れてほしくない!! 一緒にいた時間は楽しくなかったの!? 思い出にしたくないの!? 愛は、すっごく楽しかったのに……!! すっごく幸せだったのに……!! みんなが家族みたいに大切なのに、どうして忘れようするの!! どうしていなくなろうとするの!! そんなリーダー、だいっきらい!!」

 ジンと震える声を投げつけ、ワンちゃんの胸に顔をうずめて泣き出した。

 ――誰かに忘れられる。それは、捨てられることと同じ。彼女の中には、屈強な壁を破ってでも訴えたい痛みがあったのかもしれない。今の自分には、その気持ちが嫌というほど伝わった。……思い出を捨てようとして、幼なじみを傷つけてしまったから……。

「……記憶はすり替えるものじゃないわ、一つ一つ重ねていくものよ。あなたが生まれた時から今日までに触れたものを、完全に消すことなんてできないわ」

 凛と佇む姐さんは、諭すようにまっすぐと見つめてきた。

「そうよ。〝喉元過ぎれば熱さを忘れる〟なんて言うけど、本当は忘れちゃダメ。つらいことは大事なことを教えてくれるのに、人間ってすぐに忘れたがるのよね」

 あたしもだけど、と溜め息混じりにつけ加え、エミリーは妥協するように唇の端を上げた。

「迷ったり悩んだりしてもいいんじゃないかな。迷ってる時は逃げ出すこともないんだし。まあ、ボクは迷ったら食べちゃうけどね~」

 絶えず緊張感のない間延びした声は、わずかに語尾が強くなっている気がした。

「何度居場所を変えたって、自分からは逃げられないのよ。アナタを縛りつけているのはアナタだから。……だったら、自分に色をつけて、着飾って、一度きりの人生を遊び倒すしかないじゃない。少し前までしていたように」

 ヤバ美はフフンと鼻を鳴らし、紫の髪を払って好戦的な視線を送ってくる。

 ニコちゃんのそばにいたオスヤマは、そのお団子頭をポンポンと撫でながら何度も頷いた。

「こんな小さい子を泣かすなんて、お前らしくない。――さっさと帰ってこいよ、和智田。オレたちは、あのウザくてうるさくてイイ迷惑なお前を待ってるんだぜ。どうしても嫌だってんなら、来月のオレの誕生日に、超パワフルな和智田陽平様を所望する!」

「み~んな、わっちーのことが大好きなんだよ! 寂しい思いなんかさせないでよね!」

 そう、笑いかけてくれる。それだけで、自分が今いる場所が無駄ではないのだと思えた。自分が本当に求めていたものは、すぐそばにあったのだと感じることができた。

「誰かと一緒にいることが幸せなことだって教えてくれたのは、陽平君なんだよ。わたしたちが陽平君のそばにいるのは、陽平君自身がそうしてくれたからなんだよ。一人で走る必要も、早く走る必要もない。──だから、一緒に歩こうよ」

 さっきまで泣きじゃくっていたはずの由佳は、いつの間にか笑っていた。

 その笑顔に、目の奥が熱くにじむ。

「……みんな……」

 涙をこらえて、消え入るように、呟いた。

「……ありがとう……。それから、ごめん……。お前らの心を踏み荒らすようなことをして……。妹に、今さら何をやっても無駄だって言われてる気がして……がむしゃらになってた……」

 認めてほしかった。過去の過ちは無駄じゃない、妹の死は無駄じゃない、今の俺は間違っていない、と。

「俺は、お前らを利用した……。あいつの苦しみに気づいてやれなかったからこそ、今では誰かを救えるような人間に成長してるって、誰かのために生きられる人間になれたんだって、思いたかった……」

 気持ちは本当だった。自分一人では見出だせない世界や道があるのだと、みんなに示したかった。抱え込むものは解放していい。誰かに頼って、ぶつけて、心を軽くしてもいいんだ。

 それは、伝わってくれたように思う。

「嫌な思いをさせたり、怒りを抑えてくれたこともあっただろうけど、みんなで笑い合って、ふざけ合って、また笑い合って……。幸せな時間が紡がれていく瞬間が好きだった。お互いに支え合って、優しさの輪が広がっていく瞬間が好きだった」

 自分が大切にしたいものに気づいた。忘れかけていたものを思い出すことができた。

 無理やり前を向く必要はない。まずは周りを見て、隣にいる誰かと向き合えばいい。そうすれば、自然と足は動く。自分に嘘をつかず、本当に望む道へ進むことができる。

 ――ここに来てよかったと、心の底から思った。

「感謝してもしきれない。お前らは、俺の大切な仲間だ。俺の大切な、家族だ……! 一年間、こんな馬鹿につき合ってくれて――ありがとう……!!」

 固くつぐんでしまいそうな唇を無理やり引き上げた。その不細工な顔に、みんなが笑う。

 俺の生き方を見て、知って、それでも見守ってくれる、馬鹿みたいに無邪気な笑顔だった。


 ふわりと、妹の顔が浮かぶ。

 悲しい思い出だけじゃない。楽しい思い出もあった。

 ちょっと遊びにつき合ってやっただけで、すごく嬉しそうに笑う。一緒におつかいに行ってやっただけで、すごく楽しそうに笑う。……それだけは、どんな時でも忘れられなかった。

 普通に生きて、普通に大人になって、夢だったケーキ屋さんになった時、客の俺に変わらずその笑顔を向けてくれただろう。

 ……ずっと待っていたのかもしれない。暗闇から引っ張り出してくれる時を。また、一緒に手を繋いで歩いてくれる日を。


 ……ごめんな……。

 心の中で噛み締めた言葉が、寂しくこだました。


 そこへ、一点の温もりが伝う。感触はないのに、手を握られた気がした。

 小さくて、やわらかくて、温かい。

 最後の最後に、あいつが背中を押しに来てくれたのかもしれない。




『これからも、たくさんの人を幸せにしてね。――お誕生日おめでとう、お兄ちゃん――』





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