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☆三月【幼なじみ女子】

成江(なるえ)由佳(ゆか)】編

 なんで……! どうして……! 記憶喪失なんてわけわかんない……!

 同じ高校に入って、同じクラスにもなって、そのうち気づいてくれると思ったのに……! ずっと待ってたのに……! わたしのこと、忘れちゃうなんて……!

「──由佳ちゃん! 待ってよ!」

 体育館に繋がる渡り廊下の途中、何度も呼ばれる声に行き詰って、ゆっくりとスピードを落とした。がむしゃらに走って上がりきっていた息を整えながら、半身振り返る。

「あなた、和智田と知り合いだったの……?」

 原君の後ろから追いついてきたエミリーちゃんが、顔を覗き込むように首を傾げた。

 顔を見られたくなくて、下を向きながら静かに返す。

「……家が近所だったから、小さい頃によく遊んでたの……。でも、小学六年生に上がる直前、陽平君が急に引っ越して……。わたしは何も聞かされてなかった……!」

 引っ越すことも、引っ越す理由も、何も知らない。お父さんとお母さんに聞いてもわからないと言われて、陽平君は、突然わたしの前からいなくなった。

「でも、中学三年生の時……たまたま陽平君のお父さんに会って……。陽平君がこの高校に進学するって聞いたから、わたし……」

 また陽平君に会えるって、また同じ学校に通えるって、夢みたいに思えて、この島にきた。それなのに……。

「わっちーのお父さんは、何も言ってなかったの? 記憶喪失のこととか……」

「〝元気にやってる〟とは言ってたけど、それ以外のことは何も……」

 仕事の関係で街に来ていた陽平君のお父さんとは、少しすれ違った程度で長くは話せなかった。……でも、そういえば、どこかよそよそしい感じはしていた気もする……。

「びっくりよね。どのくらいの記憶障害があるのかはわからないけど、全然そんなふうには見えなかったし……」

「人の悩みを聞いてあげるくらいだもん。わっちー自身に悩みとか困ってることがあるようには思わなかったよ。まあ、隠してたんだろうけど……」

 もしかして、陽平君が記憶喪失になったのが、引っ越しの理由……?

「でも、ちょっと酷くない? いくら憶えてないからって、自分に会いに来てくれた幼なじみの女の子をぞんざいに扱う?」

「俺っちだったら絶対にしない! ……って思うけど、実際にわっちーの立場になってみたら、どうなんだろう……。だって、普段はみんなに優しいわっちーが、壁を作ってるんだよ? 結構、動揺してるんじゃないのかな……」

 自分の記憶にない知り合いに会ったから……? みんなに隠していたことが明るみになってしまうから……? そんなの、シカトしていい理由にはならないよ……!

「だとしても……陽平君がわたしを避けてることには変わりない。初対面として接しろだなんて言ってたけど、陽平君は意図的にわたしを見ないようにしてる。わたしと関わらないようにしてる。それが、なんか……許せない……」

 胸に当てた右手の指先に力が入る。 

 昔の陽平君なら、絶対にそんなことしない。記憶がなくたって、陽平君は陽平君でしょ……! わたしの思い出を……壊さないで……!

「──アナタ、ちょっと勝手すぎるんじゃない?」

 やり場なく立ち尽くしていると、不意に冷ややかな声がかかった。顔を上げると、蛇のような細く鋭い目がこちらを射すくめていた。……確か、ヤバ美さんだっけ……。

「陽平ちゃんがアナタを避けるのは、アナタが昔の陽平ちゃんを捨てようとしないからよ。本当に陽平ちゃんのことを思っているのなら、そうやって涙目で訴えるような卑怯なマネはしないことね。可愛く上目遣いで見つめれば男を揺さぶれるなんて、ちゃんちゃら甘いわ」

 はっ……? なんなの、この人……。

「今の陽平ちゃんにとって、あなたはただの他人。ただのクラスメイト。そんなに仲良くしたいのなら、一度綺麗さっぱり忘れて、また一から始めればいいじゃない」

「そんなの無理に決まってるでしょ……! わたしの中に残ってる陽平君は、ただの記憶でも記録でもないんだから!」

 高圧的な態度に眉根を寄せる。それでも尚、彼女は舐め上げるように鼻で笑った。

「昔のことなんて関係ないわ。現実逃避しないでちゃんと今を見なさい。……ま、今の陽平ちゃんのことならアタシのほうが詳しいと思うけど。仮に、陽平ちゃんに昔の記憶があったとしても、もうアナタのことなんてなんとも思ってないかもしれないじゃない。アナタみたいなしつこい女は、いつの時代も煙たがられるだけで──」

「やめろ」

 雪崩のような毒に、鋭く低い声が切り込んできた。ヤバ美さんは一弾指の隙に甘く微笑む。

「あら、陽平ちゃん♪」

 助けてくれたのだと思ったのも一瞬。

 わたしの前に立った陽平君は、変わらずの淡白な表情で言葉を並べた。

「悪いんだけどよ……。やっぱり、お前のことは思い出せない。正直、思い出さなきゃいけないとも……思わない。俺は今を楽しんでるんだ。今で十分楽しいんだ。昔のことを思い出したことで今が変わるとすれば、それは悪い方向にしか変わらない。だから、お前も過去に執着するな。一回リセットすればいい。新しいスタート地点に立てばいい。そう思ってくれよ……」

 ――――。

 何も言えなかった。

 ゆっくりと向けられた背中が、どんどん離れていく。遠く、小さくなっていく。

 当然のように、嘲るような笑いは聞こえてきた。

「ふふ、感情って面白いわよね。時間が経つにつれて熱くなれば愛に変わるのに、冷めていけば無に変わる。人間なんて、しばらく会っていなければ、自然と冷めていくものなのよ」

 それが頭の中にこびりついた。言葉の主が消えても、ボロボロと欠け始めた心の端っこに引っかかったまま、何度も何度も耳の奥でループした。

「ああ、もうっ! なんなのよあいつら! どうしてあんなに冷たいことしか言えないわけ!? ――ナル、負けちゃダメよ! これは戦! 勝たなきゃいけない戦よ!」

「え、えみりん、急にどうしたの?」

「だって! こんなに一途な女の子の気持ちを踏みにじるなんて、許せないじゃない!」

「一途……」

 小さく反復した原君は、やがてひとりでに大きく頷いて、こぶしを握り締めた。

「そうだよね! 俺っちだって、本土に帰った時に彼女が俺っちのことを忘れてたら、すっごく悲しいもん! 絶対にもう一度振り向かせてみせるって思う!」

 そっか、原君は彼女さんと離れ離れなんだ……。そういう境遇の人は心強い。

 でも、もう一度振り向かせるって、どうすれば……。

「――アンちゃ~ん」

 三人でもやもやした空気を取り囲んでいると、大石君がお腹をたるんたるんに揺らしながら走ってきた。

「はい、これ。食べ物を粗末にしちゃダメだよ~」

 渡されたのは、さっき衝動的にゴミ箱に捨ててしまった、バレンタインのチョコ。

 ──って、アンちゃんって、わたしのこと!? エミリーちゃんの〝ナル〟はわかるけど、〝アン〟ってどこから来たの!?

「和智田のために作ってたのね、それ」

「うん……。こういうものを渡せば、少しは意識してくれるかなと思って……」

 まあ、どうせ受け取ってくれないとも思ってたけど……。

「こういう時は、相手の関心を引くんじゃなくて、相手に関心を寄せてみるんだよ! 前にわっちーが言ってたんだ。誰かに好かれたかったら、まずはその人のことを好きにならなきゃダメだってね」

「そうね。ヤバ美の言葉じゃないけど、今の和智田のことをもっと知る必要はあると思う。――となれば、まずはその取り巻きから当たるべきだわ。人って、自分が共感できる人と一緒にいたいものだから、和智田の周りにいる人間=和智田本人よ!」

 それだと、エミリーちゃんと原君も含まれるよね? 二人が共感者なら、こんなふうに対立はしてないと思うんだけど……。

「じゃあ、最初はマブダチのオスヤマ君だね! きっと、わっちーのことを熱く語ってくれるよ!」

 原君はニッカリと笑って、エミリーちゃんは奮い立たせるように背中を叩いてくれた。

 ありがとう、二人とも……。チャラそうで近寄りがたい人たちだと思ってたけど、こんなに優しいのなら、もっと早くに相談していればよかった……。

 でも、わたしだって何も見てなかったわけじゃないんだよ。陽平君がみんなの誕生日をお祝いしてたことも、みんなを家族みたいに慕ってたことも、一応知ってる。

 やり方がちょっと変わってることもね……。


 ──四月十五日。押山城司君。

「ま、はじめは変な奴だとしか思わなかったなぁ。ダチを探してやるとか言ったくせに、上級生に喧嘩を売りにいったり、女子をからかいにいったり、サメに食われそうになったり……。でも、今じゃ一番信頼できる奴だ。他人を愉快にさせて自分も愉快になる。一人テーマパーク野郎だぜ、あいつは」

 えっ、喧嘩に痴漢にサメ!? いろんな意味で血の気が多い……!

 ──五月十六日。笹垣恵実梨ちゃん。

「うーん……常識知らずのわんぱくな子供って感じだったかしら。ずーっと楽しそうに笑ってるのよね。それなのに、たまに真面目な顔もするから、そのギャップがずるいというか、憎めないというか……卑怯よね」

 体育の授業中に三人がいなくなった時、先生はサボりだと決めつけて気に留めてなかったけど、わたしはクマにでも食べられたのかと思って心底心配したんだからね! わたしの優しさを返して!

 ──六月二日。原勇介君。

「多分、やってくれたこと自体はそんなに重要じゃなかったんだよね。でも、おかげで俺っちは大事なことに気づけた。目標を見つけられたんだ。わっちーは神様みたいな人だよ!」

 〝神様みたい〟だなんて簡単に言っちゃダメだよ。でも、熱量は伝わってくる。

 ──七月二十一日。天川ねねちゃん。

「とりあえず、ウザい、キモい、雨男。でも嫌いじゃない。でも好きでもない」

 シンプルに悪い印象しか残らない! つまり、どうでもいいってこと!?

 ──八月十日。羽場真知子ちゃん。

「とんだお節介野郎さ。けど、このネックレスはもちろんのこと、和智田がくれたものは全部が宝物だよ。和智田が殻を破ってくれたから、あたいは毎日見えるものが多すぎて、飽きもせずに幸せなんだ」

 女の子にアクセサリーのプレゼント!? そ、そんな馬鹿な……!

 ──九月五日。矢井馬博美さん。

「一緒にいるとホッとするのよね~♪ どうして王子様役を引き受けてくれなかったのかしら。まあ、本当はアタシだけに優しくしてほしいんだけど、それができないところも彼のいいところよね。ああん、もうかっこいい! いけずなところも素敵!」

 聞くだけ無駄だと思ったけど、本当に無駄だった。そんなこと、聞かなくても知ってる!

 ──十月十九日。有本亜里紗さん。

「周りを強引に引っ張っていく子だと思っていたけど、本当はちょっと背中を押してくれるだけなのよね。あかりもそんな気を配れる子に育ってほしいと思う反面、似てほしくないと思う気持ちもあるわ。だってほら、怪我が多そうじゃない」

 暴走車みたいに無茶するところは昔から変わらない。ちょっとは大人になってもいいと思う。

 ――十一月一日。立花太史君。

「ひと言で言うと、馬鹿だな。とち狂っている。奴の原動力は人をからかうことにあって、無様な人間を上から見下し、まるで己が上等生物であるかのように暗示をかけてモチベーションを保つ愚者。……というのが最初の見解だったが、まあ、別に悪気がある奴ではないというか、ただの馬鹿ではないようにも思える。が、相手のことを紳士的に気遣えるかといえばそういうわけでもなく無神経で──」

 ひと言って言ったのに一番長いよ!

 ──十二月四日。玉崎愛ちゃん。

「んぅ~♪」

 両手の指先を合わせて作ったハートを、無邪気な笑顔で見せる愛ちゃん。……深い意味はないと願いたい。

 ──一月十二日。板東伴也君。

「一対十の卑劣な手で挑む根性! 恐れ入った! だが、小生はそのおかげで誰かのために命を張る大切さを学んだ! これからは和智田のことも全力で守ってみせる! この誓いは永遠だ! 愛は永久に花咲く調べ! はかなくも美しい結晶となるのだ!」

 この人だけ異次元に飛んでないかな……。

 ──二月九日。大石三満君。

「美味しいものをくれる人に悪い人はいないよ~。……おまんじゅう食べる?」

 いらない!!


 ――おおまかに聞き回ってみたけど……やっぱり変わってないんだね、陽平君。

 あの頃だって、わたしが泣いていたら笑いながら話しかけてくれたし、怒っていたらふざけてほっぺをつまんできて泣かせるし、優しいのか馬鹿なのかよくわからないけど、そういう人柄が人を呼んで、陽平君の周りにはいつも友だちがいっぱいいた。だからここでも、みんなと仲良くなれたんだよね。

 ……わたしは、どうすればいいの……?

 近所付き合いでたまたま知り合った昔とは違う。わたしの意思で、わたしがここに来たからまた会えた。だから、わたしが行動を起こさないといけないのに、どうすればいいのかわからない。

 陽平君は変わっていないようで、変わってしまった。

 どうすれば、またわたしの前でも笑ってくれるの……。



 悩みに悩みすぎて、何もしないまま数日が経った。毎日悩む。毎時悩む。

 そんな、ある意味平凡で平和な一日の中で、それは起きてしまった。

 お昼休みに図書室に行って、教室へ戻る途中。階段のほうから怒鳴り声が聞こえた。一瞬誰だかわからなかったけど、その特徴ある喋り方は知っていて、叫ばれる内容は他人事ではなくて、巻き込まれないように逃げようとした足を止めた。

「──だから! もう少し優しくしてあげればいいって言ってるだけじゃん! どうして由佳ちゃんにだけそんなに冷たい態度取るの!?」

「冷たくはしてない」

「してるよっ! 記憶喪失なんてただの言い訳でしょ! 由佳ちゃんは悲しんでるんだよ!」

「お前には関係ないだろ!」

「おい、やめろって」

 陽平君が原君に一歩踏み出すと、押山君が二人を両手で押さえた。

「そんなの、俺っちが知ってるわっちーじゃないよ! 俺っちは……誰にでも優しいわっちーみたいになりたかったのにっ……!!」

 原君は階段を駆け上がっていった。

 沈んだ空気から背くように振り返った陽平君は、わたしに気がついて早足で立ち去る。

「……スケボがあんな剣幕になるなんて……」

 階段を見上げていたエミリーちゃんは、しおれるように息をついた。

 そのとても悲しそうな顔を見て、わたしは肝を冷やした。

 いつもうるさいくらいにはしゃいでいて、わたしが羨むくらいに次々とみんなと仲良くなっていった陽平君。その一つ一つは、陽平君の努力で紡がれたもの。その糸が、その輪が、小さな火花のせいで乱れていく……。

 そっか……ようやくわかったよ。わたしがやるべきこと。陽平君のためにも、みんなのためにも、わたしがやらなくちゃいけないこと。もっと、早く気づくべきだった……。



 気づくことができれば、もう迷わなかった。ずっと、意地を張っていただけなのかもしれない。

 普通に登校して、普通に授業を受けて、休憩中は読書をして、部活もなく下校して、終わり。

 それまでしていたように、ただ学校に通うだけ。

 それしかやることがないように、ただ机に向かうだけ。

 エミリーちゃんたちは心配してくれた。それに「大丈夫」だと笑って答えることだけが、少しつらかった。

 それでも、わたしの中でようやく溶け始めた過去の記憶は、あふれることなく行くべきところへ流れていった。

「──陽平君、ちょっといい?」

 怒っているわけでも悲しんでいるわけでもない顔で、彼を空き教室へ呼んだ。

「これ、受け取って。昔、お世話になったお礼。……言っておくけど、ゴミ箱に捨てたやつじゃないからね」

 日本では、男の子が女の子へバレンタインのお返しをする日なんだけど、今のわたしにとっては、感謝をお返しする日。ラベンダーのように薄い紫色のラッピングをした箱を渡す。

 予想通り、彼は手を伸ばさなかった。沈黙の中を滑るように、静かに教卓に置く。

「はじめは、陽平君の気持ちがわからなかった。正直、今でもわかってないけど……。でも、わかろうとしなくちゃいけないんだって、思ったから。──わたしも、陽平君のこと、忘れることにする。昔のことにこだわらないことにする」

 胸を張るまでもなく背筋を伸ばして、笑う。

「だって、大人になったんだし、変わらないとね。いつまでも子供みたいに、どうにもならないことにこだわってしがみついてるようじゃあ、また誰かさんに馬鹿にされちゃうから」

 ゆっくりと髪に手を伸ばし、赤いミサンガの髪飾りを取って、お返しの隣に置いた。

「これ、五年前の誕生日に、陽平君がプレゼントしてくれた、泣き虫が治る御守り。……もう、なくても大丈夫だから、返すね」

 反応を見ようと思ったのに、顔が上げられなかった。ずっと地面に笑い続けるのが精一杯。

「陽平君は憶えてないかもしれないけど、わたし、甘えすぎてた。いっぱい迷惑かけたし、いっぱい怒ったし、いっぱい泣いたし……。そのたびに陽平君は笑わせてくれたのに、感謝すら全然言ってなくて……。ごめんね」

 夢の中で泳いでいた足が、やっと地面に着いた。前に進むために、一度沈む。

「これからは、新しく始める。新しい目で、目の前の世界を見てみる。──だから、クラスのリーダー頑張って。もう喧嘩しちゃダメだよ」

 一瞬だけちゃんと正面から笑って、すぐに振り返る。

 駆け足で教室を出て、玄関を抜けて、真っ白な世界に目がくらんだ。

 身を切るような寒さのなか、顔はいつまでも熱かった。

 ――本当は、ずっと前からわかってた。入学式の時に「あれ?」って思って、それは一ヶ月くらいで確信に変わって、頭の中で何度もイメージした再会のシーンはビリビリに破けた。

 ……関わりたくないんだよね。

 きっと、陽平君が引っ越さなくてもこうなってたんだと思う。家が近所っていうだけで、好きなものが合うとか、話が合うっていうわけでもなかったし、仲良くする人間くらい自分で決めるようになるよね。興味のない相手にいつまでもかまっちゃいられないよね。そういうものなんだよね。

 陽平君の中のわたしがどんな形だったのかはわからないけど、もう少しだけ……今のわたしも、見てほしかったな……。

 玄関の扉を閉めたところで力が抜けた。氷の上に置かれた鉄板みたいに冷えきった床に座り、背中を丸めた。もっと泣きじゃくると思ってたけど、手のひらで瞼を押さえつけていると、不思議と冷静でいられた。

「そりゃそっか……昨日までに泣きすぎたんだ……」

 顔を上げて、床を見つめる。倒れたように寝転がるシャーペンに、勢いで書き綴った手紙の文字が頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、いくら消してもまた浮かんだ。

 少しの恥ずかしさと、後悔。

 陽平君があの箱を開けずに捨てていたら、気づかれない。わかっていて中に入れた。

 絶対に伝えたいくせに、どっちでもいいと最後まで虚栄を張り続けた。

 本当に言いたいことを詰めて、理想の自分を詰めて、純粋な気持ちを込めた。


 ──陽平君へ

 相変わらず元気そうだね。

 身長も伸びて、体格もカッチリしちゃって……。

 昔はハムスターみたいだったのに、もう全然可愛くないよ。

 無愛想だし、目つき悪いし、やさぐれた猫のお面を被ってるみたい。

 なのに、五年間だけ違う道を歩いている間にわたしを忘れちゃう、鳥頭でもあって……。

 忘れてほしくなかったなぁ。思い出してほしかったなぁ。

 だって、あの頃、すごく楽しかったんだよ。今よりずっと楽しかったんだよ。

 一緒にいっぱい笑ってたんだよ。

 つらいことがあっても、陽平君が笑わせてくれたんだよ。

 陽平君が優しくしてくれるから、わざとおおげさに泣いたこともあったんだよ。

 だから今でも、悲しい顔をしていればまた笑わせてくれるかなって思ったんだけど……。

 世の中、そんなに甘くないね。

 でも、大丈夫。中学ではちゃんと友だちも作れたし、陽平君がいなくても大丈夫だったよ。

 一緒に遊んでくれて、ありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう。

 もう、大丈夫だから。もしわたしのことを思い出しても、ちゃんと忘れてね。

 今さら思い出したって、絶対に許さないから。絶対に絶対に許さないから!

 今の陽平君のことは好きかわからないけど、昔の陽平君のことは好きだったよ!

 それだけはどうしても伝えたかった! だからもう悔いはない!

 陽平君は、陽平君らしく生きて! 自分には嘘をつかないでね!

 じゃあね、バイバイ!   由佳より




 ――三月十七日。わたしの誕生日。

 学年末テストも終えて、後は成績表を待つだけの退屈な期間中、今日もほとんどが自習時間だった。一週間も早く渡された春休みの宿題テキストをする人もいれば、ずっと談笑してる人たちもいる。

 四限目の途中。時計を見て、鞄を持ったわたしは静かに席を立った。

 はしゃぐ人たちの声に紛れて、教室を出る。

 コツ、コツ、コツ。自分の足音を聞きながら玄関へ向かっていると、正面から原君が歩いてきた。

「あれ、由佳ちゃんだ~。どこ行くの?」

 二限目が始まる前に、頭痛がすると保健室に行ったまま帰ってきていなかった。

「あ、うん……。わたしもちょっと、体調が優れなくて……。寮に戻るところなの」

「えっ!? 大丈夫!? 途中まで送るよ!」

「えっ、い、いいよ! 原君だって風邪引いてるんだし! 無理しないで!」

 女子寮は男子禁制だし、とつけ加えて、パタパタを振っていた手を下ろす。

「……原君。なんか、ごめんね。わたしのせいで、陽平君と喧嘩みたいになっちゃって……」

 あれから二人の間に大きな溝ができてしまったことは知ってる。他のみんなが一緒にいる時は同じ輪の中にいるけど、二人が直接話すところはしばらく見てない。

「え? そんなの全然気にしてないよ~。たまにはお腹を割って話すことも大事だと思うし!」

 少し癖のある自身の髪の毛みたいに、原君はふわふわと笑う。

「そっか。……きっと、しばらくすれば元通りになると思うから。また、仲のいい友だちに戻れると思うから」

 男の子同士だもん。時間が経てば、また自然と肩を組んで歩き始めるよね。火種が消えれば、何事もなかったかのようにふざけ合い始めるよね。

「……じゃ、体には気をつけてね」

 原君と別れて、寮へ向かう。

 授業中に学校の外を歩くなんて、なんか変な感じ。一人だけ別世界にいる気分。

 そんなことを思いながら、部屋の鍵を開けて中に入る。玄関口に置いていたキャリーバッグを開けて、持っていた通勤鞄を押し込んだ。

 もともと私物なんてほとんどない。ちょっとした着替えとか、くしや歯ブラシみたいな生活用品とか、教科書とか筆記用具とか、ケース一つにまとめてしまえるほど、味気も色気もない華の女子高生だった。……どうせ他人に見られないんだし、ぬいぐるみくらい持ってくればよかったかな。

 制服の上から紺色のコートを羽織り、がらんと殺風景になった部屋の中を一周見渡してから、約一年間お世話になった寮をあとにした。

 昼の一時に出港する定期便の小型フェリーは、出港三十分前でもすでに渡し場から乗船できるようになっていた。

 掘っ立て小屋の窓口でチケットを購入して、足を止めることなく乗り込む。

 雲一つない青空が、背中を押してくれた気がした。

 客室の扉を開けると、主婦っぽい人が四人、最前列の長椅子の一つを埋めて談笑していた。

 気づかれないようにそっと一番後ろの座席に座り、キャリーバッグを足元につける。

 ……ちょっと寒いな。暖房器具はついてるようだけど、前のほうにあるみたい。そっか、だからおばさんたちは一番前にいるんだ。

 バッグから手袋を取り出して着けようかとも思ったけど、やめた。

 やがて、船はプォーンとあくびのような汽笛を鳴らし、時間通りに出港する。

 曇る窓を袖で拭って、キラキラと穏やかに波打つ海を眺めた。

 しばらくそうしていると、何の気なしに涙の玉が浮かんだ。

 ――きっと、完全に忘れることなんてできないんだろうな……。何年経っても引きずるんだろうな……。忘れたくないのに、どうして忘れなきゃいけないんだろ……。忘れなくても前に進める方法って、ないのかな……。

「……わたしが、強くなればいいだけか……」

 左手で髪に触れようとして、止める。

 不安になったり、寂しくなった時にいつも元気づけてくれたものが、もうそこにはない。

 少しの後悔。でも、わたしが一歩踏み出せた証でもある。

 代わりに涙を拭って、ふぅーっと息を吐く。ほんの数秒だけでもすべてを忘れてしまいたいとでもいうように、何度も何度もしつこく窓に向かって息を吹きかけた。

 そんな子供みたいなことをしていると――なんでだろう、その時は訪れた。



『──待てぇぇぇぇぇぇぇぇいっ!!』



 おばさんたちの顔が一斉に横を向く。

 わたしはすぼめていた唇をぽっかりと半開きにして、目を見開いた。

 窓の曇りがスーッと溶けて、ぼやけていた外の景色が鮮明に色づく。

「……え」

 フェリーと並走するおんぼろの小船。叩きつけたような荒々しい〝極上丸〟の文字。

 そして、その上で制服をなびかせながら鬼のような形相をしている、陽平君。

 ──な、何してんの!?

 何かをわめいているようだけど、ガラス一枚を挟んでいるせいで途切れ途切れになってうまく聞き取れない。開けようとした窓は建つけが悪いせいか、横にも前後にも動かない。

 立ち上がり、客室から通路に出てデッキに近づく。陽平君は「出てこいやぁ!」とか「寒いんだよこんちくしょう!」とか叫んでた。

「おっ! おいお前!! そんなところで何してんだよっ!!」

 デッキに下りる手前で、顔を半分だけ壁から出して覗くと、即座に指を差された。

 それはこっちの台詞だって!

「ほ、本土に帰るんだよ!」

「なんで!!」

「なんでって、わたしがいたら……陽平君、学校生活楽しめないでしょ……!」

 恐る恐るデッキに下りて、手すりに掴まり、風にあおられる髪を片手で押さえた。

 船体スレスレで走る極上丸を運転していたのは、七十代くらいのおじさんだった。

「ああ、そうだな! 全然楽しくない! 気を配るのが嫌だよ! けど、だからってお前が帰ることはないだろ! わざわざ離島なんかに来て、やりたいことがあったんだろ!? 自分が望むものが島にあったんだろ!? だったら簡単に捨てようとするな!!」

 は……!? 何言ってんの!? 陽平君がそれを言うわけ!? まだわかってないわけ!?

「ば、ばっかじゃないの!? わたしは陽平君に会いたかったから来たんだよっ!!」

 思わず言ってしまった。もはや恥じらいもなく、躊躇いもない。自分が正義だと言わんばかりの真面目顔でいる彼がちゃんちゃらおかしくて、そんな余裕はなかった。

「それなのに、無視されたらなんの意味もないじゃん!! わたしが気づいてないとでも思ったの!? 記憶喪失なんてバレバレの嘘ついて!! 陽平君は昔から嘘をつくのが下手なんだよ!! この下手くそ男!! 三流芸人!! 売れ残りの大根役者!!」

 怒って叫んでいるはずなのに、ぼろぼろと涙がこぼれた。

 ……もういい。我慢したって、どうせ後で泣くんだ。

「わたしの気持ちなんてなんにもわかってないくせにっ……! 馬鹿みたいにはしゃいで、馬鹿みたいに笑って! ──わたしのことを苦しめてたのが陽平君で、陽平君のことを苦しめてたのが私だって気づいたから、今ここにいるのっ! 帰らなきゃダメだって思ったのっ! それくらいわかってよ!!」

 ひりつく風にさらわれていく涙を、必要もないのに拭った。……顔を隠したかった。

 笑うのか、呆れるのか、無関心なのか。陽平君がどんな反応をしたって満たされない。

 一つだけあるとしても、それは彼が絶対に口にしない言葉。嫌っている言葉。それは今も変わってないと思う。いつまでもどこまでも、子供のままだから。

「…………ごめん…………」

 と思っていたせいか、まさに聞こえたその言葉を聞き逃すところだった。

 目から口元へと手が下がる。怖いもの見たさに顔を上げた瞬間、その影は手すりを飛び越え、目の前にすとんと降り立った。

「……!」

 今までに見たことがないほど、ぺしゃんこにしょげていた。それでいて、今だけは嘘の一つも思い浮かびそうにないと、瞳に宿る光は透明だった。

「正直、かなり驚いた……。お前が同じ学校に……同じクラスにいて……。そんな偶然もあるのかって……少し笑えたけど、焦りのほうが大きかった……」

 初めて見る顔なのに、「懐かしい」と心が浮き上がる。

「……俺、今までの自分を忘れたくて、別の自分になりたくて、本土を離れたんだ。だから、知り合いには会いたくなかったんだよ……」

「え……」

 別の自分……? 昔の自分が、嫌いだったの……? なんで……? 今の陽平君だって、さすがに体は大きくなってるけど、言動とか立ち振る舞いは昔のままだし……。変わらない自分を、変えたかったのかな……。

「そうだったんだ……。ごめんね……」

「お前が謝る必要はない。……俺に会いたいとか、それは変な感性だと思うが」

「べ、別に変な意味はないよ! ただ、陽平君はわたしにとって、とても大きな存在だったから……。困った時には助けてくれたし、何も言わなくてもわかってくれたし、わたしが一番頼れる人だったから……」

 言いたいことを何も言えなくて、自分を主張することもできなくて。友だち一人を作ることすらできなかったわたしにとって、ぐいぐい強気な陽平君は憧れの存在だった。

 だって、いっつも楽しそうなんだもん。怒られても、煙たがられても、ずっと笑ってるんだもん。一緒にいれば、いつかわたしもそんなふうになれるかなって思ってた。

「でも、そんな過去が嫌だったんだね……。陽平君も変わりたかったんだね……。考えもしなかったよ……。教えてくれてありがとう……。ずっともやもやしてたから、知れてよかった」

 天才でも最強でもない。陽平君だって道に迷ったりはするんだ。十歩先にいても百歩先にいても、ゴールにいるわけじゃないんだ。

『──おい、坊主! そろそろ折り返さねぇと燃料がもたねぇぞ!』

 一度離れていた極上丸が身を寄せてきて、おじさんは言った。

「ほら、早く行って。どうせ勢いで来ちゃっただけなんでしょ。わたしはもう大丈夫だから」

「何言ってんだよ。お前が島に来た理由を知った以上、黙って見送るわけにはいかない」

 不意に手首を掴まれ、反射的に足の爪先に力が入る。掴まれたことよりも、陽平君の手がちっとも冷たくないことに驚いた。……男の子って、冷え性ってものを知らないの!?

「陽平君が島の高校を選んだ理由を知ったのに、戻ることなんてできないよ!」

「一人になったらまた泣き出すんだろ」

「戻ったらまたわたしのことを無視するんでしょ!」

「しねぇよ!」

 言い放つと同時に強く引っ張られ、危なくこけるところだった。前にめりになった体を起こすと、熱心に地面を見つめるぶっきなぼうな顔があった。

「お前が一番されたくないことをしてたんだなって、気づいたんだ。だから、反省してる……。だから、謝る……」

「ず、ずるいよ、そんなの……。いっつも自分勝手で、振り回してばっかで……」

「そんな俺について来てたのはどこのどいつだよ。昔だって今だって、最後にどうするかを決めるのはお前だろ。嫌ならビンタでもすればいい」

 手からぬくもりが離れた。自分で誘導しておいて、胸のうちで未練がましく声を漏らす。

 だからか、続けて被せられた言葉に、想定外の錯覚を起こしてしまったのかもしれない。

「……なあ、一緒に帰ろうぜ」

 風にさらわれないようにと少し前屈みになって、ぽつりと呟く。

 そこで目を合わせてしまったのがいけなかった。

 初めて陽平君にかけられた言葉が、こうしてまたわたしの心に明かりを灯しに戻ってきて、寄り添ってくれた。

 諦めたはずなのに、やっぱり思い出してしまう。強くなったはずなのに、やっぱり泣いてしまう。

 ――陽平君の優しさが、好き……。

 前を向けない自分を救えたのは、正直に頷くことだけだった。

「――よっしゃ! 満場一致だな!」

 勝ち誇ったように頬を上げ、目を細めて笑う。わたしの腕を掴み直した陽平君は、船の後ろのほうに移動すると、腰の辺りまでしかない柵に足をかけて、極上丸のおじさんに手を挙げた。

 ……ちょっと待って。

「タイミング合わせろよ」

 待って待って待って!!

「さん・にー・いち――ダァァァーー!!」

 ぅきゃああああああああああああああああっ!?

 船から船へと飛び移る間、「落ちる!」とか「スカートが!」とか「このろくでなし!」とか、叫びたいことはいくらでもあったのに、おサルみたいな悲鳴を上げるだけで精一杯だった。

 着地した瞬間に船が小回りにUターンして、重力に体が浮きそうになる。手すりに掴まった陽平君が引っ張ってくれたから飛ばされはしなかったけど、また直進に戻った時に大きな尻餅をついてしまい、笑われた。

「そんな泣きっ面でよく〝大丈夫〟なんて言えたな。中学時代に学んだものは強がりだけか?」

「別に強がってないし……!」

 放された手を引っ込めて、その場に体育座りに座り込んだ。

 寒さと涙でガサガサぐちゃぐちゃになった顔を見られてしまった……。もうやだ……。

 わたしが床の木目をじっと見つめていると、隣であぐらをかいた陽平君は手を伸ばしてきた。

「……ほらよ。せっかく人があげたものを返すとか、とんだ非常識だよな」

 手のひらには、あの赤いミサンガが乗っていた。

 思いがけず目が吸いついて、でも負けじと床に集中し、肩をすぼめて呟く。

「だって、見たら思い出すじゃん……。かといって捨てるわけにもいかないし、返納しようにもどこの神社かわからなかったし……」

「そりゃわからないだろ。これはその辺で売ってるものじゃない。……俺が作ったんだ」

「作った……!?」

 陽平君が……!? 不器用で雑大将のあの陽平君が……!?

「近所の神社に行ったら、泣き虫に効く御守りなんか聞いたことないって言われて。けど、そこの宮司さんが優しい人で、なんでも願いが叶うミサンガの作り方を教えてくれたんだ」

 ちゃんと清められた神聖な糸を使ってるんだぞと、ドヤ顔を披露して、不慣れな手つきでわたしの髪に結びつけてくれた。

「……なんだよ、もっと喜べよ」

 あんなに怒ってたのに、喜べるわけないじゃん!

 ――なんて思っても、やっぱり嬉しかった。恥ずかしいくらいに嬉しくて、我慢して我慢して我慢して……半分いじけて半分笑った。

 そんな自分がおかしくて、どんどん口元がゆるんでいく。

 いつも一緒にいたあの頃よりも、離れ離れだった五年間よりも、見つめるだけだった一年間よりも、ずっと近くに感じる。

 わたしにつられるように、陽平君は鼻でいけ好かない感じで笑ってから、いつもよりちょっとだけ大人っぽく微笑んだ。

「……誕生日おめでとう、由佳」



 島の港に着くと、転校届を取り下げるために学校に戻って、初めて入った校長室で初めて直角に頭を下げた。当然のように怒られはしたけど、今までにも似たような事例はあったらしく、厳重注意を受けてなんとか許してもらえた。

 転校先だった通信制高校にも連絡を済ませて、陽平君と教室に戻る。

「――由佳ちゃん!! 戻ってきてくれたんだね!!」

 お昼ご飯が喉を通らなかったらしい原君が大声を上げて、視線が一気に集まる。五限目も変わらずの自習時間なのに、いつもは寝てる人たちもみんな起きてた。先生はいない。

「もう! 黙っていなくなるなんて酷いじゃない! このお馬鹿っ!」

「ご、ごめんなさい……」

 聞くと、わたしが体調不良で帰ったことを原君から聞いたエミリーちゃんが様子を見に行って、失踪が発覚。部屋がもぬけの殻になっていると伝えると、陽平君が飛び出していったらしい。

 うなだれるように身が縮む。

 すると、先ほどから横で顔を覗き込んでいた愛ちゃんが、きゅっと抱きついてきた。ニッコリ笑顔。……可愛い。

「ま、結果オーライだし、いいんじゃねぇの。よく連れ戻せたな、和智田」

「さすが小生が認めた男、難易度SSSクラスでも涼しい顔で遂行したか!」

 熱いようなむさ苦しいような二人に背中をバシバシ叩かれ、陽平君は顔を歪ませてカラカラと笑った。

「記憶障害詐欺はやめたわけ?」

「詐欺とか言うな!」

 何人かがねねちゃんの言葉に笑うところを見ると、わたし以外にも気づいてた人はいたみたい。

「あらあら。結果より過程が大事なことだってあるわ。アナタが陽平ちゃんにドライな態度を取られていたことは事実。少し優しくされたくらいで思い上がるなんて、可哀想な子」

「もういいんだ、ヤバ美。あんまりいじめるとまた泣き出すだろ」

 陽平君がふっと笑うと、ヤバ美さんはぷりっと頬を膨らませて自分の体を抱き締めるように腕をクロスさせた。

「何よ! 利用するだけ利用してポイするの!? 酷いわ陽平ちゃん!」

 ……そっか、そういうことだったんだ。人の思いにつけ込むなんて、無神経にもほどがあるよ、陽平君。

 って、さっきから泣き虫泣き虫うるさい! そんなに連呼しなくてもいいじゃん!

「そんなに言わなくてもいいでしょ! 陽平君だって、昔、わたしが誕生日のプレゼントを渡した時に泣いてたじゃん!」

 思わず言い放った。――でも、それが間違いだった。

 たった一度きりのことを引き合いに出されてきっと怒り出すだろうと思っていたのに、その顔はスイッチが切れたみたいに静かに固まった。

「なんだい、あんたでも泣くことがあるんだねぇ」

「誰だって幼い頃はそういうものでしょう」

「美味しいバースデーケーキに感動したんだよ~」 

 見えないエアーケーキを食べ始めた大石君を横目で見つつ、何か変だなと思いながら、

「そういえば、和智田の誕生日はいつなんだ?」

 と、時間を尋ねるようにするりと間を縫った立花君の質問に答えた。

「えっと……。わたしの一週間後だから、来週の金曜日だよ」

「えっ! そうなの!? じゃあみんなで盛大に祝っちゃおうよ!」

「ついにオレたちが和智田の願望を聞く時がきたか! ちょっと怖い気もするが、なんでも言ってみやがれ、相棒!」

 右腕を原君に絡み取られて、左肩を押山君に掴まれる陽平君。少しずつ顔に明るさが戻って、頬がゆるんで、口元は――引きつっていた。

「……悪いんだけどよ。俺、自分の誕生日は好きじゃないんだ。だから、何もしなくていいぜ」

 静と動を繰り返して震える、不自然な笑み。上がりきらない声。

 予想とは正反対の反応に、みんなが口を閉ざした。原君と押山君も力が抜けたように、ゆっくりと離れていく。

「な、何言ってるの……? 昔は一緒に誕生日会とかしてたよね……? 一番張りきってたのは陽平君だったよね……?」

「…………」

 いくら待っても、答えは返ってこなかった。

 あまりの静けさに、五限目の終わりを告げるチャイムに体がはねる。

 嬉しくて、浮かれて、安堵して……わたしは勘違いをしていたのかもしれない。


 ──あの頃の陽平君は、まだ戻ってきていなかった。


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