第177話「(閑話)悪の手先」
東南アジア。サン・ラザロ国、首都・ルエラ市。ルエラ工科大学。
うだるような熱気と、学生たちの賑やかな話し声。チェルシー・サントスは、冷房の効いた廊下の掲示板の前で足を止める。 色褪せたサークルのビラや講義の案内の中に、一枚だけ、異質に洗練されたデザインのポスターが貼られていた。
『Japanese INTERNSHIP —— あなたの語学力を、日本で活かしませんか? 滞在費・渡航費全額支給。1ヶ月の国際交流プログラム』
富士山と渋谷のスクランブル交差点、そして笑顔の外国人学生たちの写真。チェルシーは手に持っていた冷たいドリンクを小脇に抱え、スマートフォンをかざして右下の小さなQRコードを読み込む。
画面が切り替わり、専用の特設SNSのハッシュタグが目の前に広がる。
『浅草・雷門の前で、カラフルな浴衣を着てペコパコ(お辞儀)しながら自撮りする、前期にこのプログラムに参加したはずの他学部の先輩の動画。リール動画のBGMは今日本の若者の間で流行っているポップソング』
『お洒落な表参道のカフェで、イチゴの乗ったパンケーキを前に「#最高の3週間!ありがとうJAPAN!」と英語のテキストが添えられた投稿』
『京都の伏見稲荷大社の千本鳥居をバックに、ブランド物の紙袋をいくつも抱えて満面の笑みを浮かべる別のアジア国の女の子の写真』
どれもがクリーンで、豊かで、ポップ。 「怪しい裏バイト」の匂いなど一滴もしない、洗練された『夢のチケット』がそこにある。
チェルシーは画面をスクロールしながら、小さく息を呑む。 頭の中で、滞納しかけている来期の学費の数字と、SNSのキラキラした東京の街並みが一瞬で結びつき——
彼女の指は、画面の一番下にある「Apply Now(今すぐ応募)」のボタンをタップしていた。
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数日後。
大学のカフェテラスは、心地いい風と学生たちの笑い声で満ちていた。 チェルシーは、お気に入りの冷たいカラマンシージュースを飲みながら、ノートPCの画面に向かってとびきりの笑顔を向けている。画面の向こうには、仕立ての良いネイビーのスーツを着た、物腰の柔らかいアジア系の若い男。
「ハロー、チェルシー。今日はお時間をいただきありがとうございます。リラックスして話してくださいね」
男の英語は完璧で、背景のオフィスもドラマに出てくるIT企業みたいに洗練されていた。 面接は、自分でも驚くほど手応えがあった。何を聞かれてもスラスラと英語で答えられるし、男は楽しそうに何度も頷いてくれる。
「素晴らしい。君の英語の流暢さとその明るさなら、我が社のプログラムでも即戦力だ。行程について説明させてください。期間は3週間。日本に到着後、我々が用意したワンルームアパートに滞在し、実践的な『ライフスタイル提供の労働体験』を行ってもらいます。完全な歩合制ですが、過去の参加者は3週間で平均4,500から5,000ドルを手に入れていますよ。その後の1週間のフリー観光も含めてね」
「5,000ドル……!」
チェルシーは思わず声を弾ませた。4週間日本に行くだけで、そんな大金がもらえるなんて。やっぱりあのポスターの噂は本当だったんだ。 大学の友達は「怪しい」とか「そんな美味い話あるわけない」って言っていたけれど、それは単にオーディションに落ちるのが怖くて応募すらできない負け惜しみだ。
「どうですか、チェルシー? チャレンジしてみたいですか?」
「はい! ぜひ、やらせてください!」
チェルシーは胸を高鳴らせながら即答した。画面の向こうの男は、満足そうに「素晴らしい、君ならそう言うと思ったよ」と微笑んだ。
「では、詳細な手続きと書類の締結を行います。1週間後、マフティーのオフィスへお越しいただけますか?」
PCをパタンと閉じたチェルシーは、テラスの席で思わず「イエス!」と小さくガッツポーズをした。
(私って本当にラッキーガール! 最高の長期休みになりそう!)
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1週間後。
チェルシーはルエラの中心部、成功者たちが集まるマフティーの超高層ビル街を、お気に入りのヒールを鳴らして歩いていた。
ガラス張りのオフィスビルの22階。エレベーターを降りると、そこは白を基調とした、息を呑むほどモダンなレンタルオフィスだった。
部屋で待っていたのは、先日のオンラインの男と、お抱えの若い弁護士らしき、タブレットを持った別のスマートな男。
「ようこそ、チェルシー。おめでとう、1次審査は合格です」
机の上に整然と並べられた厚みのある英文の書類。その「お堅い」プロフェッショナルな雰囲気が、チェルシーのプライドをさらにくすぐった。怪しいどころか、めちゃくちゃ一流の国際インターンシップじゃない。
「まず、ビザについてです」
弁護士がタブレットを滑らせる。
「今回のプログラムは短期集中型のため、手続きを迅速にする目的で『観光ビザ』で入国していただきます。往復の航空券と、民泊の予約確認書はこちらで完璧なものを用意しますので、日本の入国審査では『ただの観光旅行だ』と答えてください。何も問題はありません」
「はーい、わかりました」
チェルシーは深く考えず、ポップに頷く。日本にタダで行けるならビザの名目なんてどうでもよかった。
「そして、これが最も重要な『機密保持契約(NDA)』です」
弁護士が書類を指し示す。
「我が社のマッチングシステム、および滞在するアパートの住所、業務内容は完全な企業秘密です。他国の参加者のプライバシーを守るためでもあります。滞在中にアパートの内装や業務に関する内容をSNSに投稿したり、第三者に口外することは一切禁じます。もし違反した場合、プログラムは即時中止となり、多額の違約金が発生します」
(あ、滞在中のSNSはダメなんだ。まあ、帰国してから一気に写真をアップして、みんなを驚かせればいいよね)
タイムラインに並んでいたあの先輩たちのキラキラした投稿を思い出し、チェルシーは自分の中で都合よく納得する。
目の前には、自分を「選ばれた優秀な人材」としてエスコートしてくれる洗練された大人たち。 頭の中は、もうすぐ手に入る大金と、まだ見ぬ東京のきらめき、そして帰国後に友達に自慢する瞬間でいっぱいだった。
「オッケーです!」
チェルシーは迷うことなくペンを取り、英文の契約書の最下部に、軽快なサインを走らせた。 自分が【警察にも、家族にも、誰にも助けを求められない呪いの枷】に、自ら喜んでサインしたことなど、浮かれきった彼女の頭には1ミリも浮かんでいなかった。
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成田空港からの送迎車に揺られ、チェルシーが案内されたのは、神奈川県川崎市にある静かな住宅街のワンルームマンションだった。 オートロックの鍵の開け方は、事前に送られてきたアプリの指示通り。
部屋は驚くほど清潔で、日本のミニマリズムそのもの。お洒落なインテリア、真新しいリネンが敷かれたダブルベッド。そしてテーブルの上には、丁寧に日本語と英語で書かれた「ハウスルール」のファイリングと、見慣れないアメニティが整然と並んでいた。
2週目は、北関東の群馬県前橋市。
3週目は、茨城県鹿嶋市。
どこへ移動しても、組織が用意した「職場(民泊)」の構造は全く同じだった。窓の外の景色が、川崎の無機質な工場地帯の夜景から、前橋の静まり返った地方都市の夜、そして鹿嶋の港湾エリアの気配へと変わるだけ。
チェルシーの業務は、スマートフォンの専用アプリが鳴ることから始まった。
『ピコン』
電子音が鳴ると、アプリのマップ上に「現在の位置」と「入室予定時刻」、そして顧客のコードネームが表示される。
15分後、ドアのチャイムが鳴る。
直接的な言葉で何をするべきかはどこにも書かれていない。けれど、部屋を訪れる「ゲスト」たちの目的が何であるかは、最初の川崎の夜、ドアを開けた瞬間にチェルシーにもすぐに理解できた。
(なるほど……こういう「ライフスタイル提供」ね)
一瞬の戸惑いはあった。しかし、組織のバックアップは完璧だった。ゲストたちは皆、アプリの高額な決済審査を通った身なりの良い、驚くほど静かな日本の男たちだった。彼らはチェルシーに乱暴なことは一切せず、組織の定めた「時間」を厳格に守って、嵐のように去っていく。
何より、ドアが閉まった瞬間にスマホが震え、アプリのダッシュボードに反映される【数字】が、彼女のすべての躊躇いを消し去った。
『本日の獲得報酬:45,000円(入金確定)』
ルエラで家庭教師のバイトを1ヶ月必死にやっても稼げない額が、わずか数時間、この綺麗なワンルームで数人の『接客』をこなすだけで自分のウォレットにダイレクトに振り込まれる。取り分は7割。組織がピンハネしている感覚は微塵もない。
それどころか、部屋の家賃も、次の街への特急券の手配も、すべて組織が裏でスマートに支払ってくれているのだ。
「日本って、本当にすごい……」
前橋のベッドの上で、チェルシーはシーツに寝転びながら、アプリの画面に表示された累積報酬の数字を見つめてうっとりとした。すでに額は40万円を超えている。
最初は少しだけ痛んだような気がしたプライドも、日単位で増えていく預金残高の前には、ただの無意味な綺麗事に思えた。これはビジネスだ。私は誰にも強制されていない。自分でこの効率の良いプラットフォームを選び、スマートに外貨を稼いでいる「勝ち組」なのだと、彼女は確信していた。
鹿嶋市での最後の夜、手元に残ったのは、引き出したばかりの70万円分の瑞々しい日本円の束。
翌日、チェルシーは予定通り、約束された『フリー観光』のために東京・渋谷のスクランブル交差点にいた。ブランド物の紙袋を両手に抱え、青空にかざしてスマートフォンで自撮りをする。
(私の選択は間違っていなかった)
ルエラへの帰国便を待つ空港のロビーで、チェルシーは名残惜しそうにスマートフォンの画面を見つめていた。アプリのアカウントは、規約通り帰国と同時に自動でログアウトされることになっている。
彼女はチャット画面を開き、あのマフティーのオフィスで面接をしてくれた親切なマネージャーのアカウントへ、自らメッセージを打ち込んだ。
『最高の3週間でした! ちなみに、次の夏休みの長期休暇の枠って、もう募集は始まっていますか? 私、絶対にまた参加したいです!』
送信ボタンをタップするチェルシーの顔には、一筋の陰りもない、完璧に甘やかな麻痺を遂げた「ラッキーガール」の笑顔が浮かんでいた。
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「イルアナは本当に優秀ね」
つぶやくように紅青が言った。
「え?」
とよく聞き取れなかったエマ=ブラウンが聞き返す。
「イルアナ=マルコシアスはいわゆる『トクリュウ(匿名流動型犯罪集団)』から資金を吸い上げてた。彼女がいなくなった今でも毎月1000万ドルの振り込みがあったわ」
次回更新は未定です。
ご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません。




