第172話「新しい先生」
「イネス、朝ですよ。起きましょう」
日本に来て1週間と少し、時差ボケでもないのに眠い。わたしを起こすのは同室の『北の大国』出身のヴァレリア=クズネツォヴァ(愛称・レーラ)だった。わたしより2つ年下なのにしっかりしている子。という印象だった。
「今日から、新しい先生が来るんだって。さくら先生の代わりみたい」
さくら先生は訓練中に怪我を負った。
わたしはワールドカップ優勝者から指導を受けるチャンスを逃したのだ。
「レーラ、今朝の朝食メニュー、パン?ごはん?」
「昨日、ごはんだったから今日はパンでしょ?」
「よかった。あの『ナットウ』の美味しさは未だにわからないわ」
「あはは、鳥肌が出てたもんね。初日のイネス」
食堂で納豆を残すのは、わたしと『森林の国』のノーラだけ。他のみんなは平然と食べている。案外、日本だけの食べ物というわけでもないのかもしれない。
身支度を済ませ、制服に袖を通して食堂へ向かう。
相変わらず日本のパンはレベルが高い。これがコンビニでも販売されている量産品というのも信じられない。スープのバリエーションだけ、増やして欲しいと思うぐらいだ。
それでも、数日だけいた『美の国』の『フォワイエ(児童養護施設)』よりずっといい。
そう思うが口にせず、今日も授業が始まる。
♦︎♦︎♦︎
「藤原さくらの代わりに来た、植村優希だ。よろしく」
短い自己紹介だけして教室の後ろに新しい先生は陣取った。ホワイトボードの1番上には板書できないだろう低身長で、ジャージ姿で、前のファスナーは開けっ放し。中の黒いTシャツが見えていた。
それだけがこの1週間と違ったところで、いつも通りに個別の課題が配られ、座学が始まる。
わたしはこの座学が嫌いだ。『美の国』のリセ(高校)でも、バカロレア(大学進学資格)はおろか、留年の危機にあった。それが日本に留学する事で、単位を免除されると聞いて飛びついた。ファミーユ・ダコイユ(里親家族)となった魔女の師匠もわたしの成績の悪さに頭を抱えていた。
どうしても『やっても何も変わらない』と思ってしまって集中できない。考えてるフリをして、数問を解いて終えるのがこの時間の常だった。
わかっているのだ。ノーラはこの座学を活かして、凄い魔法が使えるようになった。『人民の国』のリンシャンも、「この授業こそが魔法を伸ばす近道」と言っている。
11人の中でも、もう差は見えていた。
「できる子」と「できない子」。
おおよそ6対5。
そして、わたしは間違いなく後者だった。
「おい!」
後ろから、声がした。思わず振り返る。
植村先生が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「イネス=ベルナール!表へ出ろ!」
突然の大声に身体が硬直する。
心臓がドンドンとリズムが早くなる。
「カイホウ=林!ヴァレリア=クズネツォヴァ!お前らもだ!」
わたしだけじゃないとわかってホッとする。
最終的に5人が外に出された。
それは奇しくも、「できない子」とわたしが思ったグループだった。
「全員、外履きに履き替えて、ホウキを持って来い。特別授業だ。舞主任の許可は取った」
♦︎♦︎♦︎
「全員スマホは持ってるな?15分後にアラームをセットしろ。最初の1分でお前らは逃げろ。残り14分で鬼が動く。1人でも逃げ切ればお前らの勝ち。全員タッチで捕まればあたしの勝ちだ」
それってつまり。『ル・シャ(猫)』?
『美の国』では、猫とネズミとして行われる事が多い。
「この島から半径1キロが逃げていいエリアだ。それから出ると『テンペスト』が警告を出すはずだから、それがエリア外の合図だ。その者は失格とする」
全員の顔を見渡し、確認するように植村先生は言った。
「全員ルールはわかったな?それでは始めるぞ!スタート!」
全員がアラームをセットしてホウキで飛び立つ。
ーー10分後。
「全員アウトだな。もう1回だ。今度はヤル気が出るように景品をやろう。『明日は1日、完全休暇』でどうだ?全員1万円のお小遣い付きだ」
全員の熱量が高くなった。もちろんわたしだって例外じゃない。日本に来て、回る寿司というものを食べてみたい。
「植村先生!タイムです!」
手を挙げて、そう言ったのはレーラだった。
「1度、給水させてください」
「お!たしかに。では10分後にここに集合だ」
そう言って、植村先生は校舎の方へ踵を返す。
「あのスピードは厄介です。5人がバラバラではとても太刀打ちできません」
レーラがそう言った。
確かに、1回目は1人1分、全員で5分程度で終わってしまった。
「ウエムラ・ティーチャーは初速から時速60キロで飛んでいる。さっきは私が1番最初に捕まったから、測っていた。レーラからカイホウが捕まるまで、端から校舎の真上を通って端まで2キロ、2分だった。
校舎を中心に直径2キロという事は、最大で2キロしか離れられず、5人捕まえるのに10分しかかからない計算だぞ」
『虹の国』のズィーがそう言った。
「全員が3分づつ捕まえるのにかかれば15分だよね?1人3分。できればもっと欲しいよね?」
レーラがそう言う。
「上に飛ぶのは?」
わたしと同じく、黙っている事の多いカイホウが言った。
「最後の1人は4キロ上空じゃないと移動距離3キロを稼げないぞ?」
ズィーがそう計算する。彼女は理数系はスイスイ解くが、記述や暗記が苦手でプリントがよく止まっている印象がある。
「4キロ?」
わたしがよく分からず、聞いた。
こういう作戦は全員が理解していないとダメなのだ。
「カイホウが言いたいのは真北をA地点、真南をB地点とした時、水平方向に飛ぶだけだと2キロしか離れていない。時速60キロ、つまりは分速1キロのウエムラ・ティーチャーはそれを2分で飛んでしまう。ならば上昇すれば、その分だけ距離が稼げるって事だ。そして、1人3分を稼ぐなら3キロ必要で、そうなると高さが1キロ必要になる。徐々に上昇して行くなら、2人目で1キロ上昇、3人目はさらに1キロと合計4キロ上昇しなければならないって事だ」
「……それ、無理かも」
おっとりとしたリズムでヨハンナが言った。
『永世中立国』出身のヨハンナは、授業中でも隙さえあればスマホを開き、デュアルシステム(職業訓練)で地元銀行に勤める初恋の彼のSNSを覗いていた。彼氏でもない。ただの片思いだ。それなのに毎日だ。
「高さ4キロって、アルプスと同じ高さよ?今は11月の北半球で、なんの装備も無しに10分以上いるなんて自殺行為だわ」
それに関してはわたしに対策はあった。
「それなら、アンカーはわたしがやるよ。知ってると思うけど風魔法だから、30分ぐらいは大丈夫。本国で魔法の師匠にやらされたし」
全員がうなづいた。
だが、この作戦に穴があるなんてこの時点で誰も気づいていなかった。




