第171話「愛と勇気だけが友達」
鏡を見るたびに思い出す。
クソ忌々しい、母親の顔を。
13年前。北海道札幌市。
「北山さん、この封筒をお母さんに渡してね」
人目につかないように職員室に呼ばれ、茶封筒を渡される。わかってる。給食費だか学業費が未納なのだ。
「はい、わかりました」
受け取る手は、冷え性のせいで少し悴んでいた。 10月の札幌は、もう冬の気配がすぐそこまで来ている。
若い担任の目は、憐れみと、どう触れていいか分からない戸惑いで満ちていた。どうせ、大学を出てすぐに教師になり、世間というものを知らずにものを教えているのだろう。
「北山さん、最近……寒くなってきたけど、上着はそれだけ?」
余計なお世話だ。放っておいてくれ。
私は2年前、まだ「円山のお医者様の一家」だった頃に買ってもらった、少し丈の短くなった薄手の秋用ブルゾンを引っ張りながら、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「はい! 歩くと結構あったかくなるので、大丈夫です!」
大嘘だ。すすきののハズレにあるあのマンションから、男から連絡を受ければ飛び出していく、あの女が転校手続きを面倒くさがったせいで、毎日2キロ近く歩かされている。朝の冷気に晒された体は、教室に着く頃には芯まで冷え切っている。
職員室を出て、ポケットに茶封筒を押し込む。
あの女の部屋のテーブルには、男の飲み残した缶チューハイと吸い殻、そして見たこともない男の連絡先が書かれたメモばかり。この封筒を渡したところで、ヒステリックに怒鳴られるか、無視されて終わりだ。
教室に戻る廊下ですれ違ったのは、2つ下の弟だった。
あいつの格好は、今日も完璧だった。 父親の家に残った弟は、お出かけ用みたいな仕立てのいい、風を通さない厚手のジャケットを着ている。 私を見つけると、あいつは一瞬ビクッとして足を止め、大きな目で私を見上げて何かを言いたそうに唇を震わせた。
だけど、私はあえて視線を合わさずに、ツカツカと通り過ぎた。 すれ違いざま、あいつの衣服から、あの懐かしい、実家の「おひさまの匂いがする柔軟剤」の香りがふわりと鼻をくすぐる。
(なんで、同じ親から生まれたのに)
私の帰る場所には、あの女が連れ込んできた男の香水の匂いと、冷え切ったレトルトの残骸しかないのに。
「北山さん、またなんか言われてたね」
教室の入り口で、クラスの女子たちのヒソヒソ声が聞こえた気がした。ポケットの中で、茶封筒をぐしゃりと握りしめる。
そのまま、ランドセルを担いで逃げるようにアパートへ帰った。
2年前に両親が離婚してから、引っ越したボロボロのマンションに帰る。蛍光灯が切れるどころか機器すら壊れそのままになった薄暗い廊下、芯まで冷え切った身体を更に冷やそうとする鋼鉄製の玄関扉は無常にも鍵がかかっていた。
わかっている。
中で『そういう事』が行われているのだ。
踵を返す。
「寒い…」
思わず本音が出た。
ダメだ。泣くな。泣いても何も解決しないし、何より自分が自分を可哀想だと認めてしまう。
逃げ込んだのは地下街だった。底冷えするがあの廊下より風がない分、幾分マシだった。そこに飲み屋の裏にあった段ボールを失敬して下に敷いて座る。運が良ければ、酔っ払いがお金をくれる。そうすれば空腹は凌げる。
だが、今日はいつもと様子が違った。
その男はまだ夕時だというのに酔っぱらったように千鳥足で歩いていた。
座っていた私と目が合う。
突然、黒い炎のような、煙のような訳がわからないものを吐く。それがあたしに当たった。
肺から空気が漏れる。
凄まじい激痛が身体を襲う。たまに酔っ払った時にする、あの女の蹴りが可愛く見える程の。
死を覚悟した。
しかし、現実はもっと斜め上だった。
良い方か、悪い方かは、いまだに答えは出ない。
「『浄化』!」
どこからともなく現れた少女がその男に触れて呪文を唱えると、その男は気を失ったように倒れた。それを受け止め、横にした。
そして、地下街の床に転がるあたしに気づいた。
「負傷者?」
あたしに近づき、全身を見る。
「あなた、まさか攻撃を受けたの?」
声は激痛で出せない。とりあえず首を縦に振る。
「驚いた。『適正者』じゃない!」
「こちら、ブラボーチーム牟田です。『適正者』を見つけました」
言うまでもなく、あたしを発見した少女は魔法少女で、これを機にあたしはあのアパートを離れて、魔法少女として生きていく事になった。
「名前は?」
「北山愛。円山北小学校6年生」
「そう。魔法少女として生きていくなら名前を変えなければいけないの。万が一、北山愛さんを知っている人とばったりあったら、名前が違えば『他人です』と誤魔化せるでしょ?」
少しだけ考える。
相手は私と同じぐらいの身長の大人の女性だった。魔法少女の所属する学校の事務長らしい。水田マリだと後に知る。
「苗字に希望はありません。名前だけ、ユウキでお願いします。『優しい希望』で優希です」
「わかったわ。それじゃあ、苗字は上下の『上』に市町村の『村』で『上村』なんてどう?『上村優希』。どこにでもいそうでしょ?」
「んー。『上』だけ『植える』の『植』にしてもらっていいですか?前が『北』山だから何となく完全に別になりたくて……」
「いいわよ。決まりね。あなたはこれから『植村優希』よ」
そうして書類を作成していく水田マリがふと思いたったように聞いた。
「理由を聞いていい?『優希』にした理由」
「たいした意味はないです。強いて言えばパンが頭のあのヒーロー、あれだけ助けているのに『愛と勇気“だけ”が友達』だって言うんです。最高でしょ?馴れ合うつもりがないところが」
♦︎♦︎♦︎
現在。長崎県大村市。大村競艇場。
「ーー先週のダービーに続いて、G1・大村競艇祭も優勝。12月のグランプリ出場を確定させた、植村優希選手でした。ありがとうございました!」
ステージMCを務める男性ローカルタレントがそう締めくくる。
「ありがとうございましたー!」
手を振り、ステージを降りる。
その間もファンからの声援を受ける。
競艇の世界のファンは正直だ。
働いて得た金を勝てそうな選手に賭けるのだから。必然的に厳しい目になる。その選別を経て、声援を送ってくれるのは素直に嬉しい。
まだ仕事は終わらない。今度は競艇チャンネルのコメント撮影だ。動画サイトにも切り抜いてアップされる。
だが、少し押しているようで、準優勝の上木のオッサンがまだ撮影していた。
撮影スタッフからジェスチャーで『入れ!』と指示が入る。
「ーー賞金王は、今回の結果、厳しくなりましたーー」
「なんだ、諦めるんだ?『艇王』上木通也が、顔面を何十針と縫う怪我から復活した『不死鳥』上木通也が!」
絡むように画角に入っていく。
「勘違いするな。俺は『厳しくなった』と現状を言ったまでだ」
「それでこそ、あたしが目指したトップレーサーだよ。8年前の賞金王、『艇王』上木通也と『王者』松田茂の3周目2マークまで結果のわからない、あのレースを観て、あたしは競艇選手になろうと思ったんだから」
魔法少女だった頃。魔力中毒者の対応で大阪、住之江競艇場へ向かった日があった。
任務を終え、帰る前に見た一戦だった。
数万人の期待と不安。それが膨大なエネルギーとなって2艇に集中する。
死闘だった。
だがどこか戯れにも見えた。
『ああなりたい』とあたしに初めて思わせる程に。
♦︎♦︎♦︎
「OKです!おつかれ様でした!」
スタッフの声がかかり、宿舎で着替えと荷物を取る。スマホを受け取って、電源を入れる。
狙いすましたような着信。
『高野舞』と液晶に表示されている。
「表にタクシーを用意しているわ」
それだけ。
「メシぐらい食わせてくれ」
あたしのその言葉に、電話の向こうでわずかに笑う吐息が聞こえた。




