第143話「存在しない毒」
深夜、スマホが突然、着信音と共にホテルの部屋を照らす。『田中奈津美』と画面が表示しているのを確認して、伊都子は画面をタップした。
「……はい。陸奥です」
「伊都子ちゃん?落ち着いて聞いて、宮本孝子とお義父さんーーいや、山岡幹事長が倒れたわ」
昨晩は『長くなりそうだから、そのまま帰っていい』と電話が来て、そのまま公安で借りているホテルに戻った。
何かあったとすればその後だろう。
「……容態は?」
「まだ不明。搬送先は明王義塾大学附属病院よ」
確かに神楽坂から1番近い大学病院だった。
慌ててホテルの部屋を出て、隣の部屋をノックする。ユウの部屋である。
「開いてる」
それだけが返ってきた。
中に入るとユウはメイクの真っ最中だった。
(確かに、そうね)
どこに行くにもキチンとした格好はそれだけでリスクが減らせる。昨日学んだはずの事だ。
伊都子も自分の部屋に戻って急ぎで身支度を整える。今度はユウがノックの後、入って来て告げた。
「伊都子さんは病院の方をお願い。ボクは神楽坂の店に行ってみる」
♦︎♦︎♦︎
地下鉄もJRも動いていない深夜なので、2人でタクシーに乗り、ユウが神楽坂で降りる。
病院の正面玄関前にタクシーが滑り込み、清算して降りる。キチンと領収書をもらうあたり、自分も案外冷静なんだと伊都子は思う。こんな時間でも自動ドアは稼働していて受付に人もいた。昨日、作ってもらった名刺を見せると案内で北東の部屋に案内される。
『霊安室』
行った先の部屋のプレートにそう書かれていた。
「意外と早かったわね」
壁に身体を預けた姿勢のまま、田中管理官がそう言った。こちらに電話した後、ここへ来たのだろう。それならば、『中にいる』のは、『山岡幹事長』か『両方』か。
だがーー
「店の大将と宮本孝子が死亡。この後、朝を待って司法解剖を最優先で行う予定よ。山岡幹事長は一命は取り留めた。まだ峠の真っ最中らしいけど」
たった1日、されど丸1日。これが宮本孝子と伊都子が一緒にいた時間である。それでも、伊都子は自分の視界が歪んだ気がした。
「……事件なの?事故なの?」
「それもまだね。店の女将がアラ(関東ではクエ)のお造りを持って行き、小用で裏にいった5分で3人が倒れていたそうよ」
その時だった。
「これは『事件』だよ。しかも、78年振りの」
ユウの声だった。振り返るとそこに立っていた。
「……現場じゃなかったの?」
「鑑識作業中でね。ボクみたいなのは入れてくれないさ。だから『学校の備品』を使わせてもらった」
「……『学校の備品』…まさか!」
「『エシュロン・ミラーリンク』さ。鑑識の記録を傍受した結果、料理や器に毒物反応なし。女将さんが無事だから、一酸化炭素や毒ガスもない」
「……でも3人が倒れて、2人が死亡」
そしてーー
「5分で致死する即効性。司法解剖待ちだけど、おそらくは青酸カリに代表されるシアン化合物」
田中管理官の表情が険しくなる。
「『照銀事件』の再来って言いたい訳ね」
「うん。あの時も鑑識は毒物を発見できなかった」
伊都子は霊安室の扉を見た。
まるで、その向こう側に『戦後』そのものが横たわっているかのように。




