第5話「北の脅威」
革新通信:7,000万ユーロ
デリーウェイ:6,500万ユーロ
アンダーフォン:9,000万ユーロ
静かな執務室に、その数字だけが浮いている。
「……え?」
珍しく沙織が声を漏らした。
「あずちゃん、これ本気?」
「アンダーフォンのこと?」
梓は書類を閉じる。
「9000万だよ?年間だよ?しかも前払い」
ユーリは黙ってコーヒーを啜る。
数字は事実だ。契約条項も確認済み。
「採算取れるの?」
「採算じゃない。売上」
梓は淡々と続ける。
「通信事業者の欧州最大手は僅差でアンダーフォン。2位がオレンジ・テレコム。未開拓市場が丸ごと加算されれば、順位はひっくり返る」
沙織が小さく頷く。
「だからオレンジと先に契約した」
「そう。競争を起こすためにね」
ユーリが口を開く。
「しかし9000万に加えて、国内投資も条件だろう?」
「ええ。既存基地局はオレンジ側。軍と併用。
アンダーフォンは自前で建てる」
「まあ、国内の建設業者は喜ぶだろうが、初期投資は相当だな」
「だからプラチナバンドを割り当てた」
梓はさらりと言う。
「軍使用帯に触れない新規周波数。投資額に見合う対価よ」
沙織が思い出したように言う。
「契約条項、前払いだよね?」
「締結と同時に全額。保証金じゃない。使用料」
ユーリが条文をめくる。
「5年ごとに見直し……優先権なし」
「市場は平等」
「オレンジも、アンダーフォンも、革新通信も?」
「全社」
沈黙が落ちる。
「撤退すればシェア消失。
残れば再入札で値を上げる」
ユーリが小さく笑う。
「通信会社を戦わせて、国が主催者か」
梓は否定しない。
「それと」
沙織が指を立てる。
「国民は?」
梓は窓の外を見る。
「2社が本気で取りに来る。料金は下がる。速度は上がる。国民にとってもメリットは多いわ」
ルマニア国、外貨準備金。1億2000万ユーロ。
♦︎♦︎♦︎
同じ頃、人民の国、首都・京北特別市。人民労働党本部、書記長室。
「……失敗、だな」
この部屋の主である、周コンペイの言葉に張リャンシャンは凍りつく。
張リャンシャンは若手の有望株エリートである。華清大をトップで卒業。党青年部を経て、30代で国務委員級まで出世した。その彼でさえ、トップの周コンペイに報告するのは年間片手で数えられる。
その少ないチャンスが「失敗の報告」だったのだ。
「民間企業を使ったのだ、革新通信の7500万ユーロは採算ギリギリのラインだった。
ここまでは『しょうがない』。当然、『次』があるのだろう?」
周が穏やかに言った事に、張は少しだけ安堵する。
「はい、こちらがリカバリープランです」
厚い書類の束。だが要約版が最初のページに印刷されている。
『対ルマニア国侵攻プラン』
現地で労働運動を起こし、国境警護・難民保護の名目で侵攻する。
「……すでに現地北部2州に1年程かけて、工作員を配置。いつでも実行できます」
「任せる。しかし、『次』はないぞ」
それだけ伝えて退出させる。
周コンペイは独裁者ではない。
それは周自身が文化革命で両親を粛正され、復讐心でここまで登りつめたルーツに由来する。せいぜい、張を左遷する程度で済ますだろう。そうしないと『次の自分』を作ってしまう。
だが、張自身はそうは感じない。長子の進路、家、生活。その全ての『グレード』が落ちる。だから張は本気にならざるをえない。
書記長室が周コンペイだけになり、静かになった。周はスマホを手にとり、電話をかけた。
「私です。お時間よろしいか?佐藤ゆりあ君?」
『周書記長より、優先すべき用事は少ないですわ』
「ルマニア国の大統領補佐官になった彼女は君の差し金かね?」
『いえ、「魔女試験」と言います。どうやるかは彼女たち自身が決めます』
「そうか。彼女の評価は?」
『まだまだです。ただ、光るものは感じますね』
(これは勝てない)
周は思ってしまう。気がつけば、彼女のルールで戦わされている。冷静な欧州の経営者を理性を失わせ、採算度外視で入札させる構造を作った。
(大統領補佐官、岸本梓は間違いなく魔女になる)
周は決意する。
「やはり、前に話した『留学計画』を進めたい。知っての通り、我が国には『魔女アレルギー』が存在する」
『「ミス・パープル」ですね?』
ミス・パープル、初代書記長の妻だった『紅青』の事だ。魔女である彼女は虐殺者ランキングみたいなものがあれば、女性部門でダントツの1位。かく言う周の両親も彼女の粛正に巻き込まれた。
「そうだ。だから、魔法少女の育成を日本の手を借りたい」
『了承しました。具体的話は理事長の水田マリとお願いします』
一拍、いやスマホの向こうでわずかな吐息が混じる。多分、笑っているのだ。
『……試験開始ですね。梓ちゃん、沙織ちゃん』




