第3回 トリップした異世界の言語は日本語だった。
今回はわりといわずもがなの内容ですが、実際そのような設定の作品を見かけたので書きました。
異世界トリップものって、いいですね。私の大好物です。
私が異世界トリップものをなぜ好きなのかというと【異世界トリップ】は、異世界を描写するうえで最高の設定であると、個人的には考えているからです。
それはなぜか。
中世ヨーロッパ風でも、なんでもそうですが、ある世界をリアルに造形しようとすれば、その世界の人物である小説上のキャラクターも、その世界なりの価値観や生活パターンを持つことになります。
なんとなれば、人間の価値観や生活パターンは環境によっても形作られるため、登場人物の価値観や生活パターンと、世界観には密接な関係があるからです。
ということは、例えば、中世ヨーロッパ風の世界を舞台にとるのであれば、その小説上の舞台設定からして、あり得そうな登場人物は、よそ者に対して非常に警戒心が強く、因業で、無知で、迷信深く、ヒステリックで、時には魔女狩りのようなことすら、やらかすかもしれません。風呂にもロクに入っていないので近寄ると異臭がします。
現代日本人の感覚からすると、はっきり言って、ついていけないような人物です。
けれども、登場人物、とりわけ主人公となる登場人物の価値観や行動や生活パターンに、読者がまったくついていけないようだと、読者は感情移入が難しくなりますから、作品としての魅力が落ちてしまいます。ですから、やはりそこは多少マイルドに調整するわけです。
しかし、多少の調整を加えるのはよろしいのですが、調整を加えすぎて、異世界の登場人物のメンタリティーを、例えば現代の中高生そのまんまにしてしまうとどうでしょうか。
そうすると、登場人物が読者とほぼ等身大ですから、読者の感情移入は容易になりますが、それではやはり不自然なわけです。
なぜかといえば、登場人物の価値観を変化させるということは、世界観もまた変化してしまうからですね。つまり、現代の中高生のメンタリティーというのは、この現代社会があってこそ形作られているのであって、すなわち『登場人物の在りかたによって世界の在りようもまた導き出されてしまう』とでもいえるでしょうか。
世界をリアルに表現すれば、登場人物へ読者が感情移入することが難しく、
読者の感情移入がしやすいように、登場人物の価値観を調整すれば、世界観と矛盾をきたす。
異世界ものというのは、構造的に、このような二律背反を抱え込みがちです。
しかしこのような問題を魔法のように解決するすばらしい手法があるのです。
もうお分かりですね。そう【異世界トリップ】です。
【異世界トリップ】という手法は、異世界の内部に、現実世界の価値観、メンタリティーを持った主人公を導入できるという点で優れています。ということはつまり、感情移入のしやすさと、世界観のリアルさを同時に追求できるのです。
まさしく『両方の良いとこ取り』といえましょう。
さらに、視点を、現代世界からトリップしてきた主人公に置けば、一人称の小説であっても、異世界固有の文物を、現実世界の、つまり読者の知っている言葉で説明できるという特典もあります。
これが【異世界トリップ】は、異世界を描写するうえで最高の設定である、と私が考える理由です。
で、そこまでは良いのですが【異世界トリップ】にも弱点が無いわけではありません。
その弱点のひとつが言葉の問題です。
主人公が、現実世界から異世界にトリップするわけですから、普通に考えて、主人公はその世界では言葉が通じないわけです。
この問題をどのように解決すればよいでしょうか。
幾つかの方法がありますので、例を下記で挙げ、特徴や問題点も併記します。
①何らかの翻訳チートのような謎パワーで解決
・いちばん楽。ただしどこかインチキくさく、ご都合主義的印象は免れない。
②主人公が根性で学習
・いちばん正統的ではあり、自然であるが、話の展開に著しい制限が課される。
・主人公は、まったく未知の言語の学習を、辞書も無い状態から独学で成し遂げられるような人材ということになるので、主人公のキャラクター性、メンタリティーがその事実によって規定されてしまう。とりわけ、主人公が、きわめて流暢に言葉をあやつり、細かいニュアンスまでも理解している場合には特にそう。
・このタイプではネット小説で【花蔓】という名作があります。
③異世界で使われていた言語はなぜか日本語だった。
本エッセイは、私が幾多のネット小説を読む過程で、ちょっとアレっと思った部分について書いていくエッセイでありますが、今回問題にするのは、この【③異世界で使われていた言語はなぜか日本語だった】という設定です。
◆
この③のタイプの設定は、なんだか、わざわざ論ずるまでもなく無理がある感じもしますが、しかし、このようなタイプの設定で、異世界トリッパーの言葉の問題を解決しているパターンのネット小説は、多くはないですが、たまにあります。
ですから本稿も多少の意義らしきものはあるかもしれません。
というわけで、ここからやっと本題なのですが【異世界で使われていた言語はなぜか日本語だった】というのは、実際にはどういうことなのでしょうか。
【異世界で使われていた言語はなぜか日本語だった】という設定が意味するところはすなわち、
【トリップした先の異世界が、現代日本とは全く別の世界であるにも関わらず、現代日本で用いられるのと同じ言語が使われている】ということです。
もっと言い換えますと、
【言語というものは、その言語が使用されている世界とは無関係に、それ自体で独立に存在しており、現実世界と異世界で相互に流用可能である】という前提で小説が書かれている、という言い方もできます。
この見方は本当に正しいのでしょうか。
確かに言語というものの、機能・働きの面にのみ注目するなら、この見方はおそらく正しいでしょう。
つまり、日本語だろうと英語だろうとフランス語だろうと、はたまた異世界後だろうと、言語である、言語としての機能を備えているという点では共通である。どのような言語であれ、登場人物が、愛を語り、怒りをぶつけ、悲しみを表わし、喜びを叫ぶことはできる。
何語であれ、言葉は言葉なのだから、異世界語だろうと日本語だろうと、人物どうしの意思疎通ができさえすれば、問題は無い。言語はコミュニケーションのための道具にすぎない。
故に、異世界に日本語を移植しても別に困らなかろう、という考えで、翻訳チートのかわりに【異世界で使われていた言語はなぜか日本語だった】という設定が用いられる場合があるのでしょう。
では、何が問題なのでしょうか?
問題は、言葉というものは、その成立の過程で歴史や経緯を背負っているということなのです。
例えば、以下のような異世界トリップ小説があったとしましょう。
◆
私の名前は『打面頭 魚花』(だめんず うおか)異世界トリッパーよ。
私の場合は、そうね。会社が終わってタイムカードを押した瞬間に目の前が真っ白になったの。そして気がついたら異世界に来ていたわ。
異世界トリップなんていう非現実的な体験をしたけれど、私の場合はパニックにもならずに状況を受け入れられたの。
なぜかって? それはね『小説家になれねえかなー』っていう名前の小説投稿サイトがあってね。そのサイトには私が体験したような、主人公が異世界トリップをするお話がたくさんあったの。
私はここ二、三年ほど休みの日は、一日中ずーっとそのサイトを眺めるのが習慣になってて、異世界トリップについてはばっちり予習済みだったのよ。
どうしてその『小説家になれねえかなー』を眺めるのが習慣になってたかというと、もちろんそのサイトを見るのが面白かったのもあるけれど、一番の理由は、お金がなかったことだと思うわ。お金がなくて休みの日にも、どこにも行けなかったから、そのサイトで時間を潰してたのね。
どうしてお金がなかったかというと男に貢いでたのよ。
彼はね。いつかミュージシャンになるんだって言ってたわ。
彼は夕方になると近くの商店街で、ギターの弾き語りをしてたの。
私はある日仕事の帰りに、何の気なしに立ち止まって、そのギターと歌を聴いて、それで足元に置いてあったギターのケースに百円玉を入れたわ。そしたら、彼とっても喜んでくれた。
そんな体験は初めてだったわ。
会社で仕事をしたって、それは単なる事務作業の繰り返しでしかなかったし、何か良いことしようと思って、募金したり献血したりしてみたけど、誰かがそれほど喜んで見せてくれるわけじゃないわ。だから彼がたった百円でそんなに喜んでくれるのがとっても新鮮だったの。
それから私は仕事帰りにちょくちょく彼の弾き語りを聞くようになったわ。
彼の曲は、まあよくあるJ‐popの劣化コピーみたいなもので、簡単なコードばかり使った、別にどうでもいいような曲だったけど、でも彼がよろこんで弾いてくれるのが嬉しかったの。
そのうちに私と彼とは付き合うようになったんだけど、ある日、彼が新しいギターが欲しいって言ったの。彼は夕方になると商店街で弾き語りをしているくらいだから、あんまりお金のある人じゃないわ。
それでまあ、私は彼にギターを買ってあげたのよ。
それが彼に貢いだ始まりで、それから色々あって、彼はそのうちに全く働かなくなったし、それからはもう、ずるずると……あとはご想像におまかせするわ。
そんなわけで、彼はあんまりいい男じゃなかったわ。でもね、私はどうしても彼に嫌われたくなかったの。
とにかく捨てられたくなかったの。彼に依存してたのよ。だって私には彼しか無かったの。
そう思うのは多分、私は親とも関係が良くないし、友達を作るのもあんまり上手じゃないからだと思うわ。別にひとに嫌われるタイプってわけじゃないみたいだけど、どうも人間関係に積極的になれないっていうか。
まあ、休みの日でも、友達と遊ぶでもなく『小説家になれねえかなー』を眺めてたくらいだから、消極的っていうのかぼっち癖っていうのか、そういう性格なのね。
でもね、彼はなんていうか……そう、ひとの懐にするっと飛び込んで、にっこり笑ってくれるのよ。こっちが子供みたいにまごまごしてても、向こうから積極的につきあってくれるっていうか、ある意味で優しいのね。
ひとの顔色をよく見てくれるっていうか、そういうことよ。
彼はもちろん、利己的だし、私を利用して、ヒモになってぶら下がってたんで、私を愛してはくれなかったけど、それでも、ちょっとした優しさみたいなものはくれたのよ。
それでまあ、それはそうとして、その男のせいで、というか私が貢いだんだから私のせいでもあるんだけど、とにかくお金がなくて、もういいかげん生活にも疲れきってたから、異世界にトリップしてしまっても、たいして悲壮感はなかったわ。喪失感と一緒に、むしろせいせいした開放感があったくらいよ。
トリップした先の異世界ではマリエさんっていう人のお家でお世話になったの。マリエさんは金髪碧眼のとても美人のお姉さまで、森の外れにあるとても大きなお屋敷に住んでいたの。
私は、そのマリエさんの家が外れにある森に、最初にトリップしてきて、森の中をさまよって行き倒れたのね。それで、目が覚めたらそのマリエさんのお家のベッドで寝ていたのよ。マリエさんが行き倒れていた私を拾って介抱してくれたの。
私は、マリエさんとも、マリエさんの家の使用人の人達とも普通に言葉が通じたから、私はこれが異世界トリップものでよくある『翻訳チート』ってやつかと思ってたわ。
マリエさんの家は、そうね。例えるならイギリスとかにあるカントリーハウスみたいな洋館で、マリエさんもマリエさんの使用人の人達もコーカソイドのヨーロッパ人みたいに見えたし、マリエさんの着ているドレスや、使用人の皆さんが着ている服も、18-19世紀のヨーロッパの服装みたいに見えたわ。
だからここは中世か近世あたりのヨーロッパ風異世界なんだと思い込んでいて、疑いもしなかったの。だってそういう舞台設定って異世界トリップものによくあるじゃない。
でも、実は違ったのね。
マリエさんは見ず知らずの私を手厚く世話してくれるくらいで、とても親切で優しい人なの。
私はマリエさんと毎日おしゃべりして、とても仲良くなったわ。現実世界にもあんな良い人はいなかったと思う。やっぱり友情ってものは相手を尊敬できないとなかなか深まらないものね。
それでまあ、マリエさんのお家でしばらくお世話になってたんだけど、やっぱりいつまでもお世話になるわけにいかないから、外に出て働かなきゃいけないと思って、何はともあれ、字が読めるようにならなきゃ働くにしても話にならないと考えたから、マリエさんに字を教えてくれって頼んだの。
私は中学や高校の時でも、英語の成績はとても悪かったから、異世界語なんて読み書きできるように果たしてなるんだろうかと不安だったわ。
翻訳チートは会話のみ適用で、字は読めないっていう設定、けっこうあるもの。
でも結論から言うと、そんな心配は必要なかったのよ。
マリエさんは私に字を教えてくれようとしたけど、その教えてくれようとした字っていうのはつまり日本語だったのね。
「じゃあ、まず初めに自分の名前が書けるようになりましょう」
マリエさんはそう言って、羽ペンで紙に【うおか】と書いたわ。うおかっていうのは私の名前よ。
え……っ、に、日本語!?
と私が心の中でパニックになる間に、マリエさんは、
「ちなみに私の名前はこうよ」そう言って【まりえ】と書いて、
「漢字だとこうね」と言って【真理恵】と書いたわ。
かっ、かかか、漢字ですとォォォッ!?
というわけで、私は『翻訳チート』で話していたんじゃなかったのね。
つまり、トリップした異世界の言葉も、たまたま日本語だったと、そういうことなの。
マリエっていう名前は、日本語の名前みたいには聞こえなかったし、ここは異世界で、自分には異世界語は読めないと思ってたから、何か文章を読もうともしなかったの。だから気がつかなかったのよ。
それで、読み書きはちゃんとできるということが判明したら、勤め先は簡単に見つかったわ。
読み書きも計算もできるみたいです、とマリエさんに言ったら、マリエさんが役所の事務員の仕事を紹介してくれたの。
それで役所で採用試験を受けたわ。
採用試験と言っても、漢字の読みと書取り。それに算数の四則演算に分数、初歩の代数の計算くらいのもので、小・中学生レベルの問題だから当然満点よ。この異世界では教育の水準が現代日本ほどには高くないんだと思うわ。
たぶん、この世界では、読み書きがきちんとできるってだけで、それを技能のひとつとして見てくれるのね。だから、就職も簡単にできたのよ。
後日、役所の所長さんが私のところ、つまりマリエさんのお家まで、採用だって言いに来てくれたの。
「試験は満点という非常に優秀な成績でしたからな。何も問題はありません。マリエ殿には優秀な人材をご紹介いただきありがたく思いますぞ」
所長さんは立派なおヒゲをひねりながら言ったわ。
「すごいじゃない!? さすが魚花ね!」
マリエさんは我が事のように喜んでくれたけれど、私としては、小・中学生の実力テストに大人が乱入して満点を取って、それで褒められているような恥ずかしさがあったわ。
それで役所で働き始めたの。
最初の給料が出たら、小さな部屋を借りて、マリエさんの家も出たわ。
マリエさんは、このままここで一緒に暮らしましょうって言ってくれたけど、でも私だって大人ですもの。いつまでも甘えるわけにもいかないわ。
職場では、中・近世ふうの異世界でのことだから、コピー機とかパソコンとかが無くて、事務作業といってもひどく煩雑で手間がかかったけれど、まあでも前職だって事務員だったわけで、仕事にはすぐに慣れたし、私はそろばんを習ってたから、暗算が速いって褒められたりもしたわ。
そんなふうに、仕事のほうは順調だったんだけど、仕事に慣れて余裕がでてくると、そのうちにとてもさみしい気持ちになるようになったの。仕事が終わって、誰もいない部屋に帰ってくるときなんかは特にそう。
この世界では、最初にマリエさんのお屋敷のある森にトリップしてきて、それでそのままマリエさんのお屋敷でお世話になってたから、友達なんてマリエさんしかいなかった。
それに、そもそも異世界トリップなんてしてしまったから、お気に入りのレンタルビデオショップも無いし、インターネットも無いし、美術館も図書館も、そういう独り遊びの施設や道具がなんにも無いもの。
だから、すっごく孤独感を感じることも多かったわ。
私のようなぼっちには、レンタルのDVDとネットは生活必需品なのよ。
けれど、マリエさんのお屋敷で世話になっていたときは、マリエさんやマリエさんの家の使用人の人達と毎日おしゃべりをしていたから、レンタルのDVDとネットもなくても大丈夫だったわ。
マリエさんは、私がいままで知ってるなかで一番優しい人だった。いつも優しく声をかけてくれて話を聞いてくれて、世話をしてくれて。落ち込んでいたら抱き締めてくれて、額にキスをしてくれたわ。私に、今までそんなことしてくれた人はいなかった。
だから、異世界にトリップしたといっても、何かを失っちゃったっていうより、むしろ、今までの人生ではじめて満たされた感じがしたわ。
でも、マリエさんの家は出てきちゃったんだもの。
さみしくなったからって、そうしょっちゅう押しかけるわけにもいかないわ。小学生や中学生じゃあるまいし。それに、マリエさんに鬱陶しく思われたりしたら終わりだから、マリエさんの家に行くのは二週間に一回くらいと決めたの。
だから職場のほうで友達を探そうとも思ってたんだけれど、役所では、わたし以外に女の人はひとりしかいなくて、あとは全部男の人だったわ。そもそもこの世界じゃ役所とかで働く女の人ってあんまりいないみたいね。
たったひとりの女性の同僚の人も、私よりだいぶん年上で、それになんだか事あるごとに私につっかかってくるのよ。なんでなのか理由はよく分からないんだけど。
それで、どうにもこうにも寂しくてたまらないときは、外にお酒を飲みに行くようになったのよ。
この異世界は現代の日本よりもだいぶん昔風で保守的な感じだったから、独りでお酒を飲んでる若い女なんて他にはいなかったけど、でも夕食を食べにきてる共働きの夫婦とか娼婦の人のグループとか、それなりに話し相手になってくれる人がいないわけじゃなかったから、多少は気が紛れたわ。
でもやっぱりそれは、その場限りのことよね。
一人ぼっちの部屋に帰るのが嫌で酒場に寄って楽しく過ごしても、酒場から出て家に帰るときには、やっぱりさみしいのは同じことよ。
そんなときに彼が現れたの。
彼は、私がよく飲みに行く酒場で、トランペットみたいな楽器を演奏してる人だったわ。
名前はダメンズっていうの。私の苗字と同じ読みよ。
『いつかでっかくなってやるんだ』っていうのと『夢をあきらめない』っていうのが彼の口癖だったわ。
酒場で飲んだ後、家に帰るのがあんまり家に帰りたくなくて、そこで粘ってたら、ダメンズは「じゃあ、送ってってやるよ」って言ってくれたわ。とっても嬉しかった。
それでまあ、そのうちにもっと仲良くなると、送ってってくれるだけですまなくなって、そのままどんどんなし崩し的に事態が進展して――そうなるまでのいきさつは皆様のご想像におまかせするけど、ダメンズは働かなくなったわ。それに私に暴力を振るうようにもなった。
また前の現実世界と同じようなことをやってしまったわけ。
おんなじことの繰り返し。いや、前の彼は、私を殴ったりはしなかったから、むしろ悪化してると言ってもいいわね。
それで、私は彼に腹をたてたり、苛々したり、怯えたり、悩んだり、色々することになったけど、でもそうしてる間は寂しくはなかったわ。
だけど、やっぱり疲れるのよ。すっごく。
それで、しばらく時間がたって、マリエさんの家に行ったとき、マリエさんに、
「魚花、あなたやつれたわよ」と言われてしまった。
「え、そうですか? じゃあダイエットになるかなあ」
ってへらへらしながら言ったら、マリエさんはすごく怒って、
「バカなことを言わないで! 魚花はうちに来るたびに痩せていってるわ! 肌も荒れてるし、ひどい顔してる!」
そう叫ぶとソファーから立って、私のほうにツカツカと寄ってきて、私の脇腹をぐっと掴んだ。
「ぐぎ……っ!?」鋭い痛みがはしって思わず声が漏れた。
「どうしたの。そんなに強く掴んでないでしょう!」マリエさんが私を問いつめる。
「……こないだ階段から落ちちゃって、そこ打ったりなんかして……とか?」
「嘘おっしゃい! あの男に殴られたんでしょう!!」
「……」
魚花はなんだか歩き方がヘンになってるわ。怪我を庇ってるのがまる分かりよ。
厳しい声でそう言いながら、マリエさんが私のワンピースの裾を捲りあげる。
そしたらそこには、わりと大きな青痣があるわけで。
マリエさんの顔色がさっと変わる。
「こんな……こんなになって――っ!?」
「……大丈夫ですよ」
私はもう、弱々しくそう返すしかない。
「大丈夫なわけないでしょう!?」
マリエさんは私をそう怒鳴りつけ、それから、ほろほろと涙をこぼす。
それは私にとっては真珠がぽろぽろ落ちていっているのと同じことで、ああ、もったいないもったいないと、でもなすすべなく私はそれを眺めている。
私は彼に殴られるのも織り込み済みで生活している。
彼が私を利用しているように、私も彼を利用しているからだ。
私がくだらない男に引っかかるのは偶然じゃない。だから現実世界でもこの異世界でも同じような目にあう。
だから私は、哀れな被害者とは言い切れなくて、彼が汚いのと同じように私も汚い。
だからマリエさんの涙は私のためにはもったいない。
それなのに、マリエさんは、
「ねえ、わたしと一緒に暮らしましょう。もう、もう見ていられないわ。居候になるのが嫌なら、部屋代と食費を入れてくれたらいいじゃない。ねえ、お願いよ」
そう言っておんおんと泣きはじめる。もったいない、もったいない。
で、分かりました、お願いします。そう言うしかなくてそう言うと、マリエさんは私を強く抱きしめて、額にひとつキスをくれた。
それでも、私がマリエさんのところにずっといて、マリエさんに子供みたいにべったり甘えてくっついて暮らすのはおそらく正しいことじゃないと私には分かる。
それは、私が彼と一緒に暮らすのが正しくないのと、程度は違えど同じ理由でそうなのだ。今はよくても未来をつくっていく関係じゃないのだ。
でもまあ、ずっとマリエさんのところで、おばさんになるまで暮らすのならちょっとアレだけど、傷んで疲れてしまった心身を癒すあいだくらいはお世話になってもいいと思った。
それから、マリエさんとマリエさんの執事さんが部屋を引き払う手続きをしてくれた。
わたしはずっとマリエさんの家にいて、報告を受けるだけだった。部屋にあった荷物もマリエさんの使用人の人達が全部持ってきてくれた。
あの男と鉢合わせしたりすると面倒だわ。そう言ってマリエさんは、私を、私の住んでた部屋のほうには行かせてくれなかった。
でも、大家さんに部屋のカギを返して挨拶をしなきゃいけなかったから、私の部屋のある建物に最後に一度だけ行った。その建物の二階が私の部屋で、一階が大家さんの部屋なのだ。
私はいいと言ったんだけど、マリエさんは心配して、執事さんと侍女の人と三人で私に付いてきてくれた。
はたして、マリエさんの心配は当たっていて、私が大家さんへの挨拶を済ませて帰るところで、彼が、ダメンズが建物のかげから現れた。
彼は、私に詰め寄ろうとしたけれど、私にマリエさんたちが付いているのを見ると少し離れたところでとまった。
「引っ越すのか?」
「ええ、そうよ」
「俺は聞いてない!」
「言ってなかったもの」
ダメンズはわりと焦って問いかけてくるのに、私はしごく冷静に答える。
私にはマリエさんがいてくれるけど、ダメンズにはマリエさんはいない。
彼と私との違いは、ただそれだけのことで、私の苗字と彼の名前が同じであるように、たいして変わりはしない。
かれがくだらない男であるように、私もくだらない女なんだと思った。
私が彼を歪めた分だけ、彼は私を殴った。
彼が私を殴った分だけ、私は彼を歪めた。
だから、わたしは、彼が自分自身の歪みを自覚できるように、せめてもの罪滅ぼしで言ってやった。
「あんたってくだらない男ね」――と。
◆
今回、例として問題にするのは、この最後の「あんたってくだらない男ね」の部分です。
この【くだらない】という言葉は、
・つまらない。
・価値がない。
・取るに足りない。 などのような意味で使われる言葉です。
しかし、なぜ【くだらない】という言葉には上記のような意味があるのでしょうか。
その言葉の意味に関して重要になってくるのが言葉の『語源』なのです。
【くだらない】という言葉の語源には諸説あるようですが、よく言われるのは、
①動詞の『下る』の否定形。『下る』には、意味が通じるなどと用いるときの『通じる』に、相当する意味がある。それに『ない』を付けて否定して、その否定で『筋が通らない』『意味がない』などの意味になり、転じて『取るに足りない』の意味になった。
②上方から関東に送られる物品を、下りものと言い、上質のものであるとみなされていた。
その反対の上方から送られてくるものでないものは、下らないもの、すなわち上質でない物『取るに足りない』もの、との意味を持つようになった。
③かつて朝鮮半島にあった百済という国の人々は、日本に、大陸からの先進的な知識を伝えたため、頭の良い人とみなされていた。【くだらない】は『百済でない』の意味があり、すなわち頭が良くない、転じて『取るに足りない』の意味になった。
上記①②③の説明については、
●語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/)
●広辞苑第六版
●小学生の頃に持っていた学習用ノートの裏表紙に書いてあった文章
(記憶がさだかでないですが、多分ジャポニカ学習帳だったと思います)
などから引用・参照・参考の資料としております。
さて――つまり、何が言いたいかというと、
言葉には意味があり、
意味は語源から発生し、
語源は、その言葉が存在している世界の歴史や文化と密接な関係がある。
ということが言いたいのです。
多少の例外はあるかもしれませんが、そもそも言葉は事物や観念の対応として存在しているのであって、言葉のみで単独には存在するものではないのです。
【くだらない】という言葉の語源が上記①②③のいずれであるか、筆者には分かりませんが、もし、②あるいは③が【くだらない】という言葉の語源であったとしましょう。
そうすると【異世界で使われていた言語はなぜか日本語だった】という設定が用いられている場合に、その小説中で『くだらない』という言葉が使われた場合、自動的にその小説世界には、関西地方や朝鮮半島の百済、あるいはそれに相当するものの存在が発生してしまうということになるのです。
つまり、言語というものは、他の事柄と関わりなく、それ自体が単独で発生するものではなく、話者を擁する文化における歴史、宗教、価値観、生活習慣、果てはちょっとしたエピソードまで、そのもろもろを背後に抱えており、それら総てによって言語は成立しているのです。
ということは、
現代の日本語が話される場所は、現代の日本でしかありえない。
逆に異世界で話される言葉も、その異世界の言語でしかありえない。
ということになります。
そして、それ故に、異世界トリップもので言語の問題を解決するための手法としては、
【異世界で使われていた言語はなぜか日本語だった】設定ではなく、
異世界の言語を設定したうえで【何らかの翻訳チートのような謎パワーで解決】
を用いるのがよろしかろうという結論になるのです。
今回でネタが尽きてしまったので、とりあえず完結済みにしますが、またネタを思い付いたら完結済みを外してまた書きたいと思います。
お付き合いを頂いた読者の皆様におかれましては、まことにありがとうございました。