ー20ー
「ノエルっ!?」
深月の悲鳴が聖域に響いた。
深月へ突撃したナラシンハは、割って入ったレーベの拳に阻まれている。
「やってくれたな、死に損ないがっ」
「くくっ。……分かっていたとも」
ナラシンハが血を吐きながら嗤う。
「貴様らがあのガキを庇いながら戦っていることはな」
その言葉が深月の胸を抉る。
――ボクのせいだ。
自分を守るためにみんなが動いた。その隙を突かれた。自分がここにいなければ、こんなことにはならなかった。
「ノエル! 大丈夫か!?」
結界の残骸を蹴って思わず駆け寄ろうとする深月を、ノエルは血反吐を吐きながらそれでも笑いかけ、制する。
「大丈夫ですよ、深月」
腹部に深々と刺さった金剛杵。その柄を握り、ノエルは一息に引き抜いた。
「ちょっと痛いですけど、すぐに魔法で治しますから」
傷口が淡い光に包まれていく。
「いいや。貴様は終わりだ猫」
ナラシンハの声は冷たく、しかし嘲るように続く。
「その金剛杵には我が主より承った権能の全てを込めた。魔物を意のままに操る力をな」
ノエルの動きが止まる。
「いかにアイネロウスの寵愛を受けたシャルベーシャとて、抗えはせぬ。さあ、自らの手でその世界のバグを殺せ!」
「ノエル!?」
ノエルの喉から押し殺した呻きが漏れる。翠の瞳が濁っていく。膝をつき、頭を抱え、必死に何かへ抗おうとして。
「ぐっ、う……。だめ、です。深月、離れ……!」
その声が途切れた。
同時に周囲の空間へ亀裂が走る。ノエルの制御を失った結界が音を立てて崩れていく。深月を守る半円の膜も、ナラシンハを閉じ込める壁も、まとめて砕けていく。
「深月様を守れ!」
レーベの号令が飛ぶ。
顔を上げたノエルの手から黄金の炎輪が放たれた。狙いはまっすぐに深月。
「深月ノ前ニハ、行カセナイ!」
「深月様!」
ネルとアイリスが身を挺して前に立つ。
――『不死王の吐息』
倉木の吐いた腐蝕の霧が炎輪を正面から呑み込み、朽ち果てさせる。
その隙にアレンが剣を振りかぶってノエルへ飛びかかる。だがその刃は、ノエルが張った透明な障壁に阻まれ、火花を散らして弾かれた。
崩れゆく結界の向こうから見知った景色が戻ってくる。石造りの柱、灯明の揺らめき。テーベリスの大神殿、その大広間。異界と現世を隔てていた結界はもはや失われている。
「深月様! 背中に!」
「わかった!」
アイリスの背へ飛び乗る深月。
「このままでは、周囲に被害がっ!」
アレンの叫びに応えてレーベが地を踏み鳴らした。
結界の制約が消えた今、彼女を縛るものはない。
床が隆起し、無数の石槍がナラシンハめがけて殺到する。何本もが巨躯を貫く。
「効かぬわ!」
だがナラシンハはそれを力ずくで振り払った。
同時に別の石槍がノエルへも向かうが、こちらはノエルの障壁に阻まれる。
「今まで大した役に立っていないくせに、敵に回すと厄介な駄猫め!」
「レーベ!!」
「殺しはしません!」
深月の悲鳴にレーベが即座に返した。
「捕らえるだけです!」
そのやり取りの間にも、操られたノエルは、炎輪を飛ばしながら両手を掲げていた。集束する膨大な魔力。
――『天陽降臨』
小さな太陽が神殿の天井近くに生まれる。
「着弾したらこの辺一帯、吹き飛びますよ!」
炎輪を避けながら疾走するアイリスが悲鳴じみた声を上げた。
「任せた!」
「えぇっ、いきなりすぎっ!?」
レーベが拳の一撃でナラシンハを倉木の方角へ吹き飛ばし、身を翻す。そして落下してくる偽りの太陽へ右腕を掲げた。
――『万象を呑む終末の顎』
レーベの右腕を覆っていた漆黒の鎧が蠢き、膨れ上がる。
現れたのは巨大な顎だった。牙の並んだ大口が開かれる。
そして小太陽を丸ごと一息に呑み込む。
顎が閉じる。それきり光は音もなく消えた。
「おおっ、カッケェ!!」
深月が思わず歓声を上げる。
「そんなことも出来たんだな!」
「ええっ。この顎は魔力の類いを全て消化吸収します。ですが基本的には殴った方が早いので、使い勝手は悪いのですが」
深月に褒められどこか得意気なレーベ。さすがレーベ。素晴らしい脳筋。
吹き飛ばされたナラシンハには倉木、アレン、ネルが相対している。三人がかりで下がりながらも辛うじてナラシンハの足を止めている。
「腕を二本獲って、なおこれですかっ!」
アレンが刃を差し込みながら歯噛みする。
「深月ノトコヘハ、行カセナイ!」
ネルが鋏で受け、尾で牽制する。
「二人とも離れて!!」
倉木が2人が飛び退ったことを確認し、両腕を掲げる。その顔にいつもの気の抜けた笑みはない。
「世界を区切る結界がなくなったってことはさ。こーゆーことも出来るんだよねぇ!!」
――『死者のための行軍歌』
ナラシンハの足元の床が闇に沈んだ。
そこからいくつもの腕が伸び上がる。乾いたミイラの群だ。巨躯を掴み、地の底へ引きずり込もうと群がっていく。
ナラシンハの一薙ぎでミイラは容易く吹き飛ぶが、闇の中から次から次へと新たな手が伸びてくる。
実体のある亡者だけではない。いつの間にか神殿の大広間は、半透明の死霊で埋め尽くされている。
武具を手にした戦士の亡霊だけではない。神官の装束をまとった者。宝飾を身につけた貴人。粗末な衣の女や、まだ小さな子供までもが。
彼らは弱い。ナラシンハの咆哮ひとつでまとめて散らされてしまうほどに。
それでも。
この地に眠る死者たちは次々と立ち上がり、ナラシンハに押し寄せた。
途方もないほど長きに渡ってこの国を、この国の民を、たった独りで守り続けてきた守護神。その恩に報いようと、我らが神の仇敵を討ち果たさんと。
自らが再び砕けることなどまるで恐れずに。
「神殿って場所もよかったねぇ」
倉木が心底楽しそうに笑う。
「みんな、すっごいやる気! やっぱり戦いは数だよ深月ちゃん!」
結界のせいで得意の戦法を封じられ、散々に斬られ貫かれて鬱憤が溜まっていたのだろう。不死の王は水を得た魚のように生き生きとしている。
その頃、レーベはノエルへ向き直っていた。
拳を振るう。障壁が展開され、これを阻む。
「――ならば」
レーベの右腕が再び顎へと変わり、その牙が障壁に食らいついた。透明な壁を容易く食い千切る。
「懐かしいな! 昔もこうして、貴様の結界を突破した!」
がら空きになった胴へ拳が突き刺さる。ノエルの身体が吹き飛び、床を転がった。
すかさず床から石槍が生え、その手足を貫いて宙へ縫い止めた。
「見ろ、ノエル!」
レーベが怒鳴りつける。
「貴様を慕い、黄泉から帰参してまで戦いに身を投じる者たちを! 貴様はあの光景を見て何とも思わんのか!?」
ノエルは答えない。
虚ろな翠の瞳がレーベを素通りして深月だけを見ている。
そして自らの傷など顧みず、貫かれた手足を無理やり引き抜いた。肉が裂ける音がして、血が滴る。それでも表情ひとつ変えず、ノエルは再び両手を深月へ向けて構えた。
「――このクソバカがっ……!」
レーベの手刀が閃き、ノエルの両腕を斬り飛ばす。
だがノエルは淡々と回復魔法を紡いだ。腕が瞬く間に再生していく。
そして、また。
――『天陽降臨』
三たび太陽が生まれ始めた。
「深月様、申し訳ございません」
レーベは何が、とは言わない。
だが深月には分かってしまう。
それがノエルの命を奪うことへの謝罪だと。この状況を終わらせる方法は、もう一つしか残されていないのだと。彼女をあの支配から解き放つにはそれしかないのだと。
レーベの右腕にあの顎が形成され、魔力が集束していく。
――やめてくれ。
深月の頭の中が真っ白になった。
何もできなかった。いつもずっとただ見ているだけだった。
仲間が傷つき、血を流し、命を削って戦っている間、自分は結界の中で拳を握って祈ることしかできなかった。
そして今、その仲間の一人がもう一人を殺そうとしている。
ボクを守るために。
――ふざけるな。
怒りが。悔しさが。悲しさが。やりきれなさが。全部いっしょくたになって喉の奥からせり上がってくる。
涙が頬を伝って落ちていく。
深月は息を吸い込み、ありったけ。全身全霊をその一声に込めて。
「帰ってこいバカノエルッッ!!」
――――愛しい人……。
深月の心臓が一度、大きく脈打った。
どこまでも甘く、優しく、そして切ない声。いつか聞いたあの声だ。
深月は何かを確信したわけでも、予感があったわけでもない。
だが気づいた時には左手首の腕輪を外していた。
溢れる。
深月を中心に、魔力が波となって広がっていく。
それは届かないと知りながら、それでも手を伸ばさずにいられない想い。誰かをただ一心に想い続けるということ。
温かくて、甘くて、胸が締めつけられるほど切ない。
例えようのない何かが、神殿の隅々にまで静かに満ちていった。
その波に触れて、戦っていた者たちが一斉に動きを止める。
死霊たちですら争いを忘れたように立ち尽くした。乾いた眼窩の奥に、生前の誰かを想う色が、ほんの一瞬だけ灯って消える。
ただ胸の奥で眠っていた、『想い』の一点だけが、そっと掘り起こされていく。
「――――」
ノエルの掲げていた両手が力なく下がった。
濁っていた翠の瞳にゆっくりと光が戻っていく。
張りついていた何者かの意志が、溶け落ちるように消えていった。塗り潰されていた場所から、彼女自身の心が当たり前の顔をして戻ってくる。
あの声を、聞こえたから。自分を呼ぶ、あの馬鹿みたいにまっすぐな声を。
そして頭上に生まれかけていた小さな太陽が向きを変えた。
落下先はナラシンハ。
「手間を掛けさせてくれるっ」
レーベが咄嗟に大地を操作し、せり上がった岩壁がナラシンハと太陽をまとめて閉じ込めた。
内側で閃光、そして轟音。神殿全体が大きく揺れる。
「ノエル!?」
深月がアイリスの背から飛び降り、床に崩れ落ちたノエルへ駆け寄った。
「ご心配、お掛けしました……」
息も絶え絶えにそれでもノエルは深月へ笑う。
「深月のお陰で、戻ってくることができました」
「よかった。本当によかった……!」
「戻ったか」
レーベが鎧を解きながら歩み寄ってくる。
「危なかったな。深月様の奇跡がなければ、今頃魂魄ごと消化していたところだ」
「レーヴァイア。……貴女にも、お礼を言わなければ」
ノエルがじろりとレーベを睨め上げる。
「よくもまぁ、まったく遠慮なくボコボコにしてくれて。……後で覚えとけにゃ」
「はっ、礼などいらん」
レーベが楽しそうに、にやりと犬歯を見せた。
「これからも深月様のため、身命を賭して励め」
瓦礫の中から現れたナラシンハは、もはや原形をとどめていなかった。
全身の半ばが炭化し、四本あった腕も一本を残すのみ。それでもその巨躯はかろうじて立っている。
落ち窪んだ眼窩の金色の光がゆっくりと深月を捉えた。
「主の権能を、破ったか」
その声に憎悪も怒りもない。あるのはただ深い諦観だけ。
「やはり貴様は……決して、この世界にいてはならぬ存在よ」
身体の端から砂のように崩れ始める。
「申し訳、ございません。我が主、よ……」
最期までその言葉は主へ向けられていた。
二万年の封印を耐え、滅びの際まで忠義を貫いた悪魔は静かに崩れ落ち、風もない神殿の中で塵となって散っていった。
後には静寂だけが残された。
深月はその塵が積もった床から、しばらく目を離せなかった。
二万年。命じた主はもういないのに、それでも命令を守り続けた。この世界のどこにも味方などいないまま、たった独りで。
……こいつは、何だったんだろう。
ボクのことを世界の不具合と呼んだことと、『ミツキフェロモン』、そして違う世界からやって来たこと。それは何か関係があるのだろうか。
悪魔と呼ばれ、討たれ、砂になって。それでもナラシンハの最期の言葉は、怒りや敵意ではなく、主へ謝罪だった。
喉の奥に、名前のつけられない苦さが澱のように残った。
「…………勝った?」
深月が呆然と呟く。
「ええ」
レーベが恭しく一礼した。
「深月様の完全なる勝利です。さすが深月様」
その言葉を聞いた途端、張り詰めていた糸が切れた。
「……あ、やべ。腰、抜けた」
深月はその場にへたり込んだ。隣でアイリスも同じように脚を折る。
「わ、私も、もう、限界です……」
全身から力が抜けていく。指先がまだ震えていた。
それでも深月は顔を上げ、ぼろぼろの仲間たちを見回した。
「……とりあえず、全員、お疲れ」
声が少し掠れた。
「よくやった! えらい! すごい! さすが、ボクの頼れるみんなだ!!」
深月の言葉に応える仲間たちの顔は傷だらけで、砂まみれで。
それでも誰もが笑っていた。
次回第三章エピローグです。




