第二十一話「不協和音の終わりに」
三ヶ月が経った。
フィオナは公爵邸の作業室で、新しいクリスタルを研磨していた。
道具を使って。
ルーシーが「道具くらい使いなさい」と言って、上質な研磨道具を一式贈ってくれたのが先月のことだ。
フィオナは最初「指先の方が正確です」と断ったが、「両方使えた方がいいでしょ」という反論に負けた。
実際、道具と指先を組み合わせると、作業効率が上がることが分かった。
七年間、道具がなかったから気づかなかっただけで——あれば、使えばいい。
(当たり前のことね)
でもそういう「当たり前」を、フィオナはまだ時々、新鮮に感じた。
三ヶ月の間に、いくつかのことが変わった。
一つ目。フィオナは帝国装填師協会に、正式に登録された。
「白金級見習い」という破格の評価で。本来は試験と実績審査が必要だが、ヴォルフハルト公爵家の推薦と、舞踏会での実績——暴走寸前だった公爵の魔力を制御した事実——が、審査を短縮した。
フィオナ・アルトマン。帝国装填師協会登録番号、四七二九番。
登録証が届いた日、フィオナは作業室で一人、それを長い時間見つめた。
母が持っていたものと、同じものだ。
二つ目。セバスチャンが、母の文献をさらに発掘してきた。
帝国図書館の封印書庫に、エリン・ヴェインが協会に没収された理論書の原本が保管されていた。アリスターが公式に開封許可を取って、フィオナの手元に届いた。
まだ全部は読めていない。でも——読む時間がある。毎日。
三つ目。
フィオナは、アリスターを名前で呼ぶようになった。
いつからかは、覚えていない。気づいたら、そうなっていた。
その日の夜の調律は、いつも通りだった。
でも、終わり際に——アリスターが珍しく、先に話を切り出した。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「君は今——幸せか」
フィオナは手を止めた。
「幸せ」という言葉を、最後に誰かに聞かれたのはいつだったか。
思い出せなかった。
フィオナは道具を置いて、アリスターを見た。
金色の目が、真正面にある。いつも通り、逸らさない。でも今夜は——少しだけ、違う。何かを怖がっているような、そういう目だ。
(この人が、怖がっている)
二十六年間、誰も近づかなかった人が。
フィオナは少しだけ考えた。
幸せか、と問われたら。
七年間の地下室を思う。灰の匂い。冷たい床。残り物の食事。母の形見を燃やされた朝。誰にも届かない場所で、一人で理論を読んでいた夜。
それと今を、比べたら。
「幸せかどうかは」フィオナは言った。
「まだ、よく分かりません」
「そうか」
「でも」
フィオナは続けた。
「ここにいることを——後悔していません」
アリスターが、静かに息を吐いた。
長い、深い、息だった。
「それで十分だ」
「十分ですか」
「十分だ」
アリスターが立ち上がった。
フィオナも立ち上がった。
二人の間の距離は、近かった。
「フィオナ」
「はい」
「もう一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
アリスターが、フィオナの手を取った。
いつものように、両手で包む。タコと傷だらけの指先を、温かく包む。
「ここに——ずっといてくれるか」
フィオナは、アリスターを見た。
怖がっている目。でも、逸らさない目。
フィオナは一秒、二秒、三秒——考えた。
逃げることはできる。扉は開いている。帝都に、ルーシーがいる。装填師として登録された今、自分の力で生きていける。
それでも。
(この人の不協和音を整えられるのは、私だけだ)
それは義務ではない。
フィオナが初めて手にした、誰にも奪えない場所だ。
「……ずっと、は」
フィオナは言った。
「約束できません」
「そうか」
「でも」
フィオナは、握られた手を——今度は自分から、しっかりと、握り返した。
「明日も、明後日も——たぶん、ずっと先も。ここにいると思います」
アリスターが、フィオナを見た。
「たぶん、か」
「たぶん、です」
「確実ではないのか」
「確実ではありません」フィオナは言った。
「でも——今この瞬間は、確実にここにいます」
アリスターが、静かに笑った。
目元まで動く、あの笑顔で。
「それで十分だ」
「さっきもそう言いましたよ」
「本当のことだから、二度言った」
フィオナは、視線を外した。
外したが——口元が、どうしても動いた。
笑っていた。
隠さなかった。
その夜、フィオナは眠れなかった。
眠れないのは、不安からではなかった。
ただ——頭が、静かに動いていた。
母の理論書のこと。次の調律の設計のこと。装填師協会から来た問い合わせへの返答。それから——アリスターの問いへの、自分の答えのこと。
ずっとは約束できない、と言った。
本当のことだ。未来は分からない。でも——今この瞬間、フィオナがここにいたいと思っていることも、本当のことだ。
どちらも、嘘ではない。
フィオナは作業台に起き上がって、金のクリスタルを手に取った。
深夜の作業室は暗い。でもクリスタルが、かすかに光を放っている。
三ヶ月前、地下室でこれを研磨した夜を思い出す。
あの夜のフィオナには、ここに来ることが分かっていたか。
分からなかった。計画はあったが、その先は——霧の中だった。
(でも、ここにいる)
フィオナは金のクリスタルを掌に包んだ。
温かい。
七年間、この温かさだけが——フィオナの地下室にあった温度だった。
今は、もう少し温かい場所にいる。
翌朝。
朝食の席に行くと、アリスターがすでに座っていた。
新聞を読んでいた。フィオナが来ると、新聞から目を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
フィオナは向かいに座った。
いつもは向かいに座るのに、今日は——少し迷って、隣に座った。
アリスターが、かすかに動いた気がした。でも何も言わなかった。
セバスチャンが朝食を運んできた。
テーブルの上に、温かい食事。
窓から、朝の光が差し込んでいる。
フィオナは食事に手をつけながら、窓の外を見た。
庭の芝生が、朝露に濡れて光っている。
遠くに、白い鳥が一羽——ハシバミの木の枝のような形の木の上に、止まっていた。
(ここに、ハシバミの木はないのに)
でもそこにいる。
フィオナは小さく、息を吐いた。
「どうした」
アリスターが聞いた。
「いいえ」
フィオナは答えた。
「……白い鳥がいます」
「ああ」
「知っていますか」
「この邸に、時々来る」
フィオナは窓の外の白い鳥を見た。
「そうですか」
「気になるか」
「少し」
アリスターが、窓の外を見た。
「なんの鳥だ」
「……お母さんの使いだと、思っています」
アリスターが、フィオナを見た。
フィオナは窓の外を見たまま、続けた。
「論理的ではないのは分かっています。でも——七年間、そう思ってきたので」
「そうか」
「笑いますか」
「笑わない」
アリスターが、窓の外の白い鳥を見た。
「来ていい場所だと、教えてやれ」
フィオナは、止まった。
それから——胸の奥で、何かが、静かに、溶けた。
七年間、硬く固まっていた何かが。
「……はい」
声が、少しだけかすれた。
アリスターは何も言わなかった。
ただ、フィオナの方に——少しだけ、寄った。
肩が触れるくらいの距離で。
白い鳥が、庭の木の枝で羽を広げた。
それから——ゆっくりと、飛び立っていった。
どこまでも高く。
朝の光の中に、溶けるように。
フィオナは金のチョーカーに、指先で触れた。
温かかった。
この籠の扉は、開いている。
でもフィオナは——今日も、ここにいる。
それは諦めでも、服従でも、ない。
フィオナが——選んだことだ。
朝の光の中で、二人は並んで座っていた。
不協和音は、まだそこにある。
でも今は——美しく、流れていた。




