エピローグ「金飾りの鳥は歌う」
春になった。
帝都に花が咲く季節になると、ヴォルフハルト公爵邸の庭も変わる。冬の間は枯れていた芝生が緑を取り戻して、花壇に白と黄の花が咲き始める。
フィオナはその朝、作業室の窓を初めて全開にした。
冬の間は隙間風が入るからと閉めていた窓。春になったら開けようと決めていた窓。
外の空気が、部屋に流れ込んできた。
花の匂いがした。
フィオナはその匂いを、しばらく静かに吸い込んだ。
(春は、こういう匂いがするのね)
地下室に春はなかった。季節の変わり目は、石壁の冷え具合でしか分からなかった。
窓から春の匂いがする部屋で目が覚める朝が、こんなに当たり前にある。
まだ時々、それが不思議だった。
あれから、六ヶ月が経った。
クラリスは、右手の損傷が残ったまま、地方の小さな家で暮らしている。魔導器は二度と使えない。装填師どころか、貴族の娘としての社交生活も終わった。
帝都では、彼女のことを語る者はいない。
カサンドラの視力は、片目だけ薄く戻った。でも完全には回復しなかった。福祉施設で静かに暮らしていると、セバスチャンから報告があった。
フィオナは、その報告を聞いて——何も言わなかった。
言うべきことが、なかった。
ベアトリスは、アルトマム家の遠縁が所有する地方の古い屋敷に移った。社交界への出入りはもうできない。かつての財産も、地位も、全部なくなった。
三人は今、フィオナが七年間いた場所よりは、ずっとましな暮らしをしている。
グリム童話では、意地悪な姉たちの目は最後に鳥に突かれて潰れる。
この物語では——それぞれの因果が、それぞれの形で返ってきた。
それで、十分だった。
帝国装填師協会から、正式な認定状が届いたのは、二ヶ月前のことだ。
フィオナ・アルトマン。帝国装填師協会認定、白金級。登録番号四七二九番。
母と同じ、最高位の認定。
認定状を受け取った日、フィオナはルーシーの店に行った。
扉を開けると、ルーシーがフィオナの顔を見て——すぐに分かったらしく、目を細めた。
「届いたのね」
「はい」
「見せて」
フィオナは認定状を差し出した。
ルーシーは両手で受け取って、丁寧に読んだ。それから——そっと、返してきた。
「エリンが喜んでいるわ」
「……そうですか」
「絶対に、そうよ」
フィオナはその日、ルーシーの店で二時間過ごした。お茶を飲みながら、他愛もない話をした。帝都の花屋の話。新しい布地の話。季節の菓子の話。
帰り際、ルーシーが言った。
「あの公爵様は、どう?」
「どう、とは」
「幸せ?」
フィオナは少し考えた。
「幸せかどうかは、まだよく分かりません」
「また同じことを言う」
「でも——後悔していません」
ルーシーが、穏やかに笑った。
「それで十分よ」
春の朝、窓を開けたまま作業をしていると、ノックがあった。
「どうぞ」
入ってきたのはアリスターだった。
いつも通りの黒い上着。でも今日は、執務用ではなく、少し軽い格好だ。
「窓を開けたのか」
「春になったので」
「そうか」
アリスターが作業室に入ってきた。窓の近くに立って、外を見た。
庭の芝生。白と黄の花。遠くで、鳥が鳴いている。
「フィオナ」
「はい」
「今日、外に出るか」
フィオナは手を止めた。
「外、というのは」
「帝都を歩く。どこか行きたいところがあれば」
フィオナは少しだけ考えた。
行きたいところ。
七年間、ほとんど外に出られなかった。今は出られる。でも——どこに行きたいか、と聞かれると、まだうまく答えられなかった。
「……ハシバミの木を、見に行きたいです」
「アルトマム家の」
「取り壊される前に、一度だけ」
アルトマム家の屋敷は、帝国に没収された後、取り壊しが決まっていた。来月には始まるという話だ。
アリスターが、少しだけ考えた。
「行こう」
アルトマム家の跡地は、すでに人気がなかった。
門は開いたまま。庭は手入れがされなくなって、春の雑草が伸び始めていた。
フィオナは庭の端、いつもの場所に向かった。
ハシバミの木は、まだそこにあった。
取り壊し工事が始まれば、この木も切られる。でも今日はまだ、春の葉を茂らせて、静かにそこにある。
根元の石。母の名前が刻まれた、小さな石。
フィオナはしゃがんで、雑草を抜いた。最後に一度。丁寧に。
「終わりましたよ、お母さん」
声が、少し震えた。
「全部——全部、終わりました」
春風が吹いた。
ハシバミの葉が揺れた。木漏れ日が、根元の石を照らした。
フィオナは目を細めた。
背後に、足音がした。
アリスターが、フィオナの隣にしゃがんだ。
何も言わなかった。ただ、隣に。
二人で、しばらく——根元の石を見ていた。
「……来てくれるか、と聞いていいか」
アリスターが、静かに言った。
「どこへ」
「この木を、公爵邸の庭に移植する。来月、工事が始まる前に」
フィオナは、アリスターを見た。
金色の目が、真正面にある。
「移植、できるのですか」
「セバスチャンが庭師を手配する。できると言っていた」
「そんなことを」
「君の母の木だ。捨てるのはおかしい」
フィオナは、しばらく——何も言えなかった。
胸の中で、何かが静かに、溶けた。
七年間、この木の前でだけ「ただいま」と言えた。
その木が——公爵邸の庭に来る。
「……ありがとうございます」
声が、かすれた。
「礼はいい」
「いいえ」
フィオナは言った。
「言わせてください」
アリスターが、フィオナを見た。
「ありがとうございます」
もう一度、はっきりと。
アリスターは答えなかった。
でも——その手が、フィオナの手に重なった。
温かかった。
春風の中、白い鳥が一羽、ハシバミの枝に降りてきた。
フィオナは顔を上げた。
白い鳥は、フィオナを見た。
それから——アリスターを見た。
しばらく、二人を交互に見て。
それから——ゆっくりと、アリスターの肩に降りてきた。
アリスターが、微かに目を見開いた。
白い鳥は、アリスターの肩で羽を畳んで、静かに座っていた。
「……父の鳥か」
アリスターが、低い声で呟いた。
フィオナは止まった。
「知っていたんですか」
「セバスチャンから、ずっと昔に聞いた。父がエリン・ヴェインに贈った使い魔が、今もどこかにいると」
「ずっと昔に」
「君に会う前から、知っていた」
フィオナはアリスターを見た。
金色の目が、白い鳥を見ていた。
「だから——君が現れた時」
アリスターが、フィオナを見た。
「偶然だとは、思わなかった」
フィオナは、しばらく——何も言えなかった。
先代公爵がエリンに贈った使い魔。母の魔力残滓を宿した鳥。七年間フィオナの傍にいて、原石を運び、手紙を届け——そしてアリスターと引き合わせた、あの鳥。
二世代越しの、必然。
フィオナはゆっくりと、白い鳥に手を伸ばした。
鳥がフィオナの指先に、くちばしで触れた。
温かかった。
「……ありがとう」
フィオナは小さく言った。
鳥に向かって。母に向かって。先代公爵に向かって。
全部に向かって。
白い鳥は、一度だけ、鳴いた。
フィオナは笑った。
声を出して、ちゃんと。
「笑った」
アリスターが、少し驚いたように言った。
「笑いましたよ」
フィオナは答えた。
「おかしいですか」
「おかしくない」
アリスターが——また、目元まで笑った。
「きれいだ」
フィオナは、視線を前に戻した。
顔が、少し熱かった。
でも今日は——隠さなかった。
白い鳥は、しばらくハシバミの枝にいた。
それから、春の空に向かって、ゆっくりと飛び立った。
高く。どこまでも高く。
光の中に、溶けるように。
フィオナは見送った。見えなくなるまで。
(ありがとう、お母さん。先代公爵様も)
心の中だけで、呟いた。
手の中に、温かさがあった。
アリスターの手が、フィオナの手を——握っていた。
フィオナは、その手を握り返した。
今度は——迷わずに。
帝都の春は、短い。
でも、毎年来る。
金飾りの籠の中で——フィオナは今日も、調律師として、不協和音を整え続ける。
でもその籠の扉は、開いている。
そしてフィオナは——自分で、ここにいることを選んでいる。
それが、この物語の終わりであり——始まりだ。
ずっと後のこと。
帝国装填師協会の記録に、こんな一節が残ることになる。
「白金級装填師フィオナ・アルトマン=ヴォルフハルトは、母エリン・ヴェインが遺した禁断の構築理論を完成させ、帝国魔導史上初めてEX級魔力の完全制御を実現した。その功績は、現代に至るまで超えられていない」
フィオナが初めてその記録を読んだのは、ずっとずっと後のことだ。
読んで、少しだけ考えて——それから、隣にいる人に言った。
「『=ヴォルフハルト』は余計ではないですか」
「余計ではない」
「装填師として記録されるべきです」
「されている。その上で、ヴォルフハルトでもある」
フィオナは少し黙った。
「……相変わらず、正直ですね」
「君が教えてくれた」
フィオナは記録から目を上げた。
窓の外に、ハシバミの木が見えた。
公爵邸の庭に、きちんと根付いた、あの木。
春になると、白い鳥が来る。
そのたびに——フィオナは思う。
(見ていてくれているかしら、お母さん)
きっと、見ていてくれている。
金のクリスタルが、窓辺で静かに輝いていた。
完




