第十九話「不協和音の旋律」
一ヶ月が経った。
フィオナは公爵邸の生活に、少しずつ慣れていた。
朝、窓から光が入る部屋で目が覚める。途中で目が覚めることが、減った。作業室で道具を磨く。書庫で本を読む。昼食をとる。夕方から調律の準備をする。夜、アリスターの調律をする。
その繰り返しの中で——フィオナは気づいたことがあった。
自分が、この生活を、嫌だと思っていない。
それが、少し——怖かった。
ある夜の調律の後、アリスターが言った。
「来週、帝国議会の式典がある」
「はい」
「君も来い」
フィオナは道具を片付ける手を止めた。
「……私が、式典に?」
「専属装填師として同行する。公式の立場で」
フィオナはアリスターを見た。
「公式、というのは」
「ヴォルフハルト公爵家専属装填師、フィオナ・アルトマン。そういう立場で、帝国に登録する」
フィオナは少しだけ考えた。
装填師として、正式に登録される。それは——フィオナが七年間、持てなかったものだ。名前。立場。正式な、社会的な存在証明。
「条件はありますか」
「ない」
「本当に」
「ない。ただし」
アリスターが、フィオナの首元を見た。
「チョーカーはつけてくること」
フィオナは一秒だけ黙った。
「……分かりました」
式典の三日前。
フィオナが書庫で資料を読んでいると、セバスチャンが入ってきた。
「フィオナ様。少しよろしいですか」
「はい」
セバスチャンが椅子を引いて、向かいに座った。
眼鏡を外して——初めて見る仕草だった——テーブルの上に置いた。
「閣下のことを、少しお話ししてもよいですか」
フィオナは本を閉じた。
「聞かせてください」
「閣下は——生まれた時から、『バグ』でした」
セバスチャンが静かに語り始めた。
「魔力が制御できない子供というのは、周囲にとって脅威です。近づくと魔導器が壊れる。感情が高ぶると周囲のものが壊れる。だから——人が離れていった」
フィオナは黙って聞いた。
「先代公爵は、閣下を愛していましたが、同時に恐れていた。側近も、使用人も、全員が一定の距離を保って接していた。二十六年間、誰も——本当の意味で、閣下に近づいたことがなかった」
「……二十六年間」
「はい。舞踏会の夜、フィオナ様が初めて——道具も使わず、素手で、怖がらずに触れた」
フィオナは、あの夜を思い出した。
暴走しかけた魔力。「近づくな」と言ったアリスター。それでも手を出させた。
「だから、あの執着は」
「二十六年分です」
セバスチャンが静かに言った。
「フィオナ様を閉じ込めたいわけでも、傷つけたいわけでもない。ただ——手放すことが、怖いのだと思います」
フィオナは窓の外を見た。
庭の芝生が、夕方の光を受けている。
白い鳥が、一羽——庭の木の枝に止まっていた。
「セバスチャンさん」
「はい」
「あの白い鳥のことを、ご存知ですか」
セバスチャンが、少しだけ間を置いた。
「存じております」
「お母さんの使いだと、ずっと思っていたのですが」
「半分は、正しいです」
フィオナはセバスチャンを見た。
「半分?」
「あの鳥は——先代閣下がエリン様に贈った使い魔です」
セバスチャンが静かに言った。
「先代閣下は、エリン様の理論に深く傾倒しておられた。直接会うことは叶いませんでしたが——いつかエリン様に辿り着けるようにと、使い魔を遣わされた」
フィオナは、動けなかった。
「エリン様が亡くなった後も、鳥はあなたの傍にいた。先代閣下の意志と、エリン様の魔力残滓が——あの鳥の中に、両方残っていたのだと思います」
「……では、あの鳥は」
「先代閣下とエリン様、両方の——遺志です」
フィオナは窓の外の白い鳥を見た。
七年間、原石を運んでくれた。連絡を届けてくれた。母の使いだと思っていた、あの鳥。
その中に——アリスターの父の意志も、あった。
(だから、この人と出会った)
偶然ではなかった。
二世代越しの、必然だった。
「セバスチャンさんは」
フィオナは言った。
「なぜ、私にこれを話すのですか」
「フィオナ様に、事情を知った上で選んでほしいからです」
「選ぶ、とは」
「ここにいるかどうか。閣下と、どういう関係を築くか」
フィオナはセバスチャンを見た。
「逃げることも、できると?」
「閣下は『逃げても探す』とおっしゃいますが——」
セバスチャンが眼鏡をかけ直した。
「私が全力で探さないようにすることは、できます」
フィオナは少しだけ、笑いそうになった。
「あなたは、閣下の味方ではないのですか」
「閣下の味方だからこそ——閣下が、本当に望む形でフィオナ様といてほしいのです。籠に閉じ込めた鳥の歌は、美しくない」
沈黙があった。
フィオナは窓の外を見たまま、静かに考えた。
逃げることができる。セバスチャンが、その道を作ってくれると言っている。
でも。
(逃げて、どこへ行く)
アルトマム家はない。帝都に家はない。ルーシーの店は居場所ではあるが、フィオナの仕事場ではない。
そして——。
(この人の魔力を、他に誰が調律できる)
それは言い訳かもしれない。でも——本当のことだ。
アリスター・ヴォルフハルトの魔力を制御できる装填師は、世界に一人しかいない。
フィオナだけだ。
それは、フィオナにとって——重荷か。
考えた。
正直に、考えた。
(重荷では、ない)
むしろ——それが、フィオナに初めて与えられた「誰にも奪えないもの」だった。
七年間、フィオナの技術は搾取され続けた。でも、この仕事だけは——代わりがいない。代わりを立てることができない。フィオナ以外には、できない。
それは、呪いではなく。
フィオナにとって、初めての——誰にも侵せない場所だった。
「セバスチャンさん」
「はい」
「私は、ここにいます」
セバスチャンが、静かに頷いた。
「ただし」フィオナは続けた。
「籠の扉は、開けておいてもらいます」
「……と、閣下に伝えてよいですか」
「はい。そのままお伝えください」
セバスチャンが立ち上がった。
扉に向かいながら、振り返って言った。
「フィオナ様」
「はい」
「あなたのお母さんは、とても賢い人でした。あなたも、そうです」
扉が閉まった。
その夜の調律は、始まる前から何かが違った。
アリスターがいつもより早く作業室に来た。そして——いつもと違う目でフィオナを見た。
「セバスチャンから聞いた」
「はい」
「それでも、いると言った」
「はい」
アリスターが近づいた。
フィオナは逃げなかった。
「なぜだ」
フィオナはアリスターを見た。
金色の目が、近い。
「あなたの魔力を調律できるのは、私だけですから」
「それだけか」
フィオナは一秒だけ、間を置いた。
「……今のところは、それだけです」
アリスターが——笑った。
今までの、口の端が動く程度ではなく。ちゃんと、目元まで動く笑顔。
フィオナは初めて見る表情に、一瞬だけ——何も言えなかった。
「正直だな」
「嘘をついても——」
「仕方がない。知っている」
アリスターがフィオナの手を取った。
傷だらけの、タコだらけの、装填師の手。
その手を——アリスターは両手で、包んだ。
温かかった。
規格外の魔力を持つ手が、フィオナの冷たい指先を包んで、温かかった。
「フィオナ」
名前を呼ばれた。
アリスターに、初めて名前を呼ばれた。
「……なんですか」
「扉は開けておく」
フィオナは目を細めた。
「それは、セバスチャンさんから」
「聞いた。俺が言う」
フィオナはアリスターを見た。
「逃げても探すと言いましたよね」
「言った」
「矛盾していませんか」
「している」
アリスターが、フィオナの手を握ったまま言った。
「でも——扉を閉めた籠に君がいても、意味がない」
フィオナは答えなかった。
答える代わりに、握られた手を——少しだけ、握り返した。
ほんの少しだけ。
アリスターの手が、一瞬だけ力を込めた。
調律が終わった後、フィオナは一人で作業室に残った。
金のクリスタルを手に取る。
温かい。
フィオナは目を閉じた。
七年間待った。全部、計画通りに動かした。姉たちを破滅させた。実家を終わらせた。
そして今、金の鎖のついた籠の中にいる。
でも。
(この籠は——思ったより、悪くない)
そう思う自分を、フィオナはもう否定しなかった。
否定することに、意味がなくなってきていたから。
「まあ、いいわ」
フィオナは呟いた。
「あなたのこの不協和音を直せるのは、世界で私だけなんだから」
金のクリスタルが、静かに輝いた。
窓の外で、夜風がハシバミの葉を揺らすような——そんな気がした。
帝都の夜空に、白い鳥が一羽、横切っていった。
フィオナは窓を開けた。
夜風が、頬を撫でた。
「見ていてね、お母さん」
星が、静かに瞬いていた。




