第十八話「籠の中の調律師」
チョーカーをつけた翌朝、フィオナは普通に起きて、普通に顔を洗って、普通に作業室に向かった。
変わったのは——鏡の中の自分の首元だけだ。
金の鎖が、朝の光を受けて輝いている。クリスタルが、鎖骨の上で静かに息をしている。
フィオナはそれを三秒見て、作業室の扉を開けた。
今日もやることがある。それだけだ。
公爵邸での日々は、構造的にはアルトマン家と似ていた。
朝、起きる。作業をする。夜、調律をする。
でも、全てが違った。
地下室ではなく、窓のある部屋で作業できる。道具が揃っている。食事が温かい。誰も「早くしろ」と怒鳴らない。誰も「どうせお前には」と言わない。
静かだった。
静かすぎて、最初の一週間は何度も目が覚めた。
何かが来る気がして。足音が聞こえる気がして。でも何も来なかった。
七年間、フィオナの体は「静かな時間は危険の前触れ」だと学んでいた。その癖が、抜けるまでに少し時間がかかった。
問題は、アリスターだった。
チョーカーを嵌めた翌日から、彼の「距離の取り方」が変わった。
調律の時間は変わらない。でも、それ以外の時間に——廊下で会うと立ち止まる。書庫にいると入ってくる。食事を一人でとっていると、向かいに座る。
全部、無言で。
「……何か、ご用ですか」
書庫でそう聞いたら、アリスターは本棚を一冊抜いて答えた。
「読書だ」
「そうですか」
「邪魔か」
フィオナは少し考えた。
「邪魔ではありません」
それから二人で、一時間、黙って本を読んだ。
それが、何度か続いた。
フィオナには、これが何なのかよく分からなかった。監視なのか、習慣なのか、あるいは——別の何かなのか。
(でも、邪魔ではない、というのは本当だった)
それだけは確かだった。
十五日目に、フィオナは初めて外出を申し出た。
「ルーシーさんに、報告に行きたいのですが」
朝食の席で、向かいのアリスターに向かって言った。
アリスターが顔を上げた。
「誰だ」
「ドレスを作ってくれた方です。舞踏会の衣装の。母の友人でもあります」
「一人で行くのか」
「はい」
アリスターが少しだけ間を置いた。
「セバスチャンをつける」
「必要ありません」
「つける」
フィオナは反論しようとして——やめた。
これは「許可」だ、と気づいたから。外出の許可が出た。条件つきではあるが。
「……分かりました」
セバスチャンが、扉の外から「承知いたしました」と答えた。
どこにいるんですか、とフィオナは思ったが口には出さなかった。
「銀の針」の扉を開けると、ルーシーが顔を上げた。
フィオナの首元を見て——一瞬、目を止めた。
「……無事だったのね」
「はい。全部、終わりました」
ルーシーが立ち上がって、フィオナの両手を取った。
温かい手だった。フィオナより少し低い体温の、柔らかい手。
「よかった」
それだけだった。でも、その二文字の重さが——フィオナの胸に、静かに落ちた。
フィオナは頷いた。声が出なかった。
しばらく、二人は黙って立っていた。
それからルーシーが「お茶でも」と言って、フィオナは「いただきます」と答えた。
お茶を飲みながら、フィオナは簡単に経緯を話した。
アルトマム家の調査。爵位の剥奪。そして——公爵邸に来たこと。
ルーシーは黙って聞いていた。
「そのチョーカーは」
「そういうことです」
「嫌なの?」
フィオナは少し考えた。
「嫌、ではないと思います。ただ——まだよく分からない」
「そう」
ルーシーがカップを置いた。
「あなたのお母さんもね、そういう人だったわ」
「え」
「よく分からない、って顔をしながら——でも一番大切なことは、ちゃんと知っていた」
フィオナはルーシーを見た。
「大切なこと、というのは」
「自分が何をしたいか、よ」
ルーシーが穏やかに笑った。
「あなたは今、何をしたい?」
フィオナは答えなかった。
答えられなかったのではなく——答えが出るまで、少し時間がかかった。
「……調律を、続けたいと思っています」
「それだけ?」
「今のところは、それだけです」
ルーシーが、また笑った。
「それだけで、十分よ」
公爵邸に戻ると、アリスターが玄関にいた。
玄関に。
フィオナは少しだけ止まった。
「お帰りを、お待ちでしたか」
「違う」
「では、なぜ玄関に」
「たまたまだ」
セバスチャンが背後で、ごく小さく咳払いをした。
フィオナはそれを聞こえないふりをした。
「そうですか」
フィオナは靴を脱ぎながら言った。
「ルーシーさんによろしくとのことでした」
「知らない人間だ」
「存じています」
フィオナは顔を上げた。アリスターが、フィオナの首元——チョーカーを見ていた。
「外では、外套で隠していましたか」
「……いいえ」
「そうか」
アリスターの口の端が、わずかに動いた。
フィオナは何も言わなかった。
言わなかったが——自分の頬が、少しだけ温度を持った気がした。
気のせいだ。作業で熱を持っただけだ。
(そういうことにしておく)
フィオナは廊下を歩き始めた。
後ろで、アリスターがついてくる気配があった。
「夕食まで、書庫にいます」
「そうか」
「ご一緒しますか」
少し間があった。
「行く」
フィオナは前を向いたまま、歩き続けた。
口元に、何かが浮かびそうになるのを、かろうじて抑えた。
その夜の調律は、いつもより少し長くなった。
デバイスの状態は良好だった。調整の必要はほとんどなかった。でも、フィオナは確認を丁寧にした。
アリスターは黙って座っていた。
「今日は、問題ありません」
「そうか」
「調律は、週一回で十分だと思います」
「毎日でも構わない」
フィオナは手を止めた。
「毎日は必要ありません。デバイスに負担がかかります」
「君に会う口実が減る」
フィオナは顔を上げた。
アリスターが——真顔で言っていた。
「……正直すぎませんか」
「嘘をついても仕方がない」
三度目だった。フィオナの言葉を、そのまま返してくる。
フィオナは視線を手元に戻した。
指先が、少しだけ震えた。
震えた理由は——調律の疲れだ。それだけだ。
「週一回、定期調律を行います」
フィオナは平坦に言った。
「必要があれば、随時対応します」
「随時」
「はい。必要な時に呼んでください」
「今が必要な時だ」
「今は終わりました」
「明日も必要かもしれない」
「様子を見てから判断してください」
アリスターが、また口の端を動かした。
フィオナは道具を片付けた。てきぱきと、丁寧に。
「おやすみなさい、公爵」
「アリスターでいい」
「……公爵」
「アリスターだ」
フィオナは扉の前で止まった。
振り返らなかった。
「おやすみなさい」
名前は、呼ばなかった。
でも、呼ばなかったことへの返答として——アリスターの低い笑い声が、部屋に残った。
フィオナは扉を閉めた。
廊下を歩きながら、金のチョーカーに指先で触れた。
温かかった。
クリスタルの温度か、あるいは——体温が移っただけか。
(どちらでもいい)
フィオナは作業室に戻った。
金のクリスタルが棚の上で輝いていた。
今夜も、笑っているみたいに。




