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第十七話「金の鎖」

 公爵邸での生活は、思ったより穏やかだった。

 少なくとも、最初の数日は。

 朝は作業室で道具の整備をして、昼はセバスチャンが案内してくれる邸内の書庫で母の理論の続きを読んで、夜はアリスターの定期調律をする。それだけだった。

 食事は、ちゃんとしたものが出た。

 これが一番、フィオナには衝撃だった。温かくて、味があって、残り物ではない食事。最初の夜、厨房から運ばれてきた夕食を前に、フィオナはしばらく手をつけられなかった。

「どうした」

 向かいに座ったアリスターが言った。

「……いえ」

フィオナは答えた。

「少し、驚いていました」

「食事が」

「ちゃんとしているので」

 アリスターは何も言わなかった。

 でも、翌日から食事の量が増えた。誰も何も言っていないのに。

 フィオナはそれについても、何も言わなかった。


 定期調律は、毎夜行われた。

 完全に組み直したデバイスは安定しているが、アリスターの魔力量が規格外すぎるため、週に一度は微調整が必要だ。フィオナがそう判断して、アリスターは何も言わずに従った。

 調律の間、二人はよく話した。

 最初は作業に関係することだけだった。魔力の状態。クリスタルの消耗具合。次回の調整で変えたい部分。

 でも、少しずつ——別の話もするようになった。

「書庫で読んでいた本は何だ」

「母の理論書の続きです。帝国装填師協会が封印した文献を、セバスチャンさんが取り寄せてくれました」

「エリン・ヴェインの」

「ご存知でしたか」

「名前は知っている」

 アリスターが、少し間を置いた。

「父が、探していた装填師だ」

 フィオナは手を止めた。

「先代公爵が?」

「父も私と同じ『バグ』を持っていた。制御できなかった。エリン・ヴェインという装填師なら扱えるかもしれないと、探していたが——見つかった時には、もう死んでいた」

 フィオナは指先でクリスタルを押さえたまま、動かなかった。

 先代公爵が、母を探していた。

 母が「禁断の書」を書いた理由が——少しだけ、見えた気がした。

「……お母さんは」フィオナは静かに言った。

「きっと、知っていたんだと思います」

「何を」

「あなたのような人が、いつかいることを。だから書を遺した」

 アリスターは答えなかった。

 でも、調律の間の沈黙が——その夜は、少し違う質を持っていた。


 十日目の夜だった。

 定期調律を終えて、フィオナが道具を片付けていると、アリスターが立ち上がらなかった。

 いつもは調律が終わると、短い礼を言って部屋を出る。でも今夜は、椅子に座ったまま、フィオナを見ていた。

「……まだ、何かありますか」

「ある」

 アリスターが、内ポケットに手を入れた。

 取り出したのは、細長い箱だった。

 黒い箱。金の留め金。

 フィオナは箱を見た。

「なんですか、それは」

「開けろ」

 命令口調だった。でも、いつもの命令より——少しだけ、声が低かった。

 フィオナは箱を受け取った。

 留め金を外して、開ける。

 中に入っていたのは——チョーカーだった。

 細い金の鎖に、小さなクリスタルが一粒だけついている。クリスタルの色は、金色だった。フィオナが舞踏会の夜に持っていた金のクリスタルと、同じ色。

「これは」

「魔導のチョーカーだ」

 アリスターが立ち上がった。

「君の首に、嵌める」

 フィオナは箱を持ったまま、アリスターを見た。

「どういう意味のものですか」

「所有権の証だ」

 真っ直ぐに、言った。

「この邸に、君がいることを示す。外から見ても、君が誰のものかが分かるように」

 フィオナの手が、わずかに止まった。

「私は物ではありません」

「知っている」

「なら」

「でも」

 アリスターが一歩、近づいた。

「君を手放す気もない」

 フィオナはアリスターを見た。

 金色の目が、真正面にある。逸らさない。揺れない。

 この目は——怖いと思う。恐ろしいとも思う。でも同時に——嘘がない、とも思う。

 アリスターは、今まで一度も、フィオナに嘘をついたことがない。

「嵌めても、逃げることはできますか」

「できない」

「正直ですね」

「嘘をついても仕方がない」

 フィオナの言葉を、そのまま返してきた。

 フィオナは箱の中のチョーカーを見た。

 細くて、きれいで——でも確かに、鎖だ。

(灰かぶりから、籠の鳥に)

 そういうことだ、とフィオナは理解した。

 家という名の籠から出たと思ったら、別の籠に入っていた。ただし今度の籠は——灰の地下室ではなく、金の鎖で出来ている。

 でも。

(逃げても、また探す。あの人はそう言った)

 そして——その言葉を、フィオナは嘘だとは思えなかった。

 七年間、逃げ続けた。逃げることに慣れていた。でも今、目の前にいるこの男から逃げ続けることが——できるかどうか、フィオナには分からなかった。

 それは恐怖ではない。

 もっと、厄介な感情だった。

「一つ、条件があります」

 フィオナは顔を上げた。

「聞こう」

「私の仕事を、仕事として認めてください。所有物としてではなく、装填師として、あなたのデバイスを管理する立場として」

 アリスターが、少しだけ考えた。

「……それだけか」

「それだけです」

「認める」

 即答だった。

 フィオナは箱からチョーカーを取り出した。

 細い金の鎖が、指先に絡んだ。冷たい。でも、クリスタルに触れた瞬間に——温かさが返ってきた。

(この石も、声を持っている)

 聴こえた。

 静かで、穏やかで——でも確かに、存在を主張している声。

 フィオナはチョーカーをアリスターに差し出した。

「嵌めてください」

「自分では」

「手が届きません。後ろの留め金が」

 アリスターがチョーカーを受け取った。

 フィオナは前を向いたまま、髪を片手で前に避けた。

 アリスターの指が、首の後ろに触れた。

 冷たい金の鎖が、喉元に触れる。クリスタルが、鎖骨の少し上に落ち着く。

 留め金が、閉まった。

 かちり、という小さな音がした。

 フィオナは動かなかった。

 アリスターも、すぐには離れなかった。

 首の後ろに、指先の温度が残っている。

「……」

「……」

 沈黙があった。

「君の指先は」

 アリスターが、低い声で言った。

「いつも、灰を洗い落としたみたいに冷たい」

「地下室にいたので」

「ここには灰はない」

「分かっています」

「なら」

 アリスターの声が、耳に近かった。

「これからは、私の中だけをかき乱していればいい」

 フィオナは、動かなかった。

 動けなかったのではない。動く必要があるかどうか、一瞬——判断できなかった。

 それだけのことだ。

 それだけの、はずだった。


 アリスターが部屋を出た後、フィオナは鏡の前に立った。

 作業室には大きな鏡はないが、隣の寝室には一枚ある。フィオナは久しぶりに、自分の顔を正面から見た。

 金のチョーカーが、喉元で光っていた。

 ルーシーのお店で見た鏡の中の自分とは——また少し、違う顔をしていた。

(灰かぶりから、籠の鳥)

 そうだ。でも。

 フィオナは自分の顔を見た。

 目が——同じだった。

 灰青色の目。クリスタルの声を聴く時に細くなる目。計算をしている時に温度が下がる目。

 七年間、変わらなかった目。

 籠が変わっても、この目は変わらない。

 フィオナは鏡から離れた。

 作業台に戻って、金のクリスタルを手に取った。

 指先に、温かさが返ってくる。

「……まあ、いいわ」

 誰もいない部屋で、フィオナは呟いた。

「あなたのこの不協和音を直せるのは、世界で私だけなんだから」

 金のクリスタルが、静かに輝いた。

 籠の中で——フィオナは初めて、自分から笑った。


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