第十六話「調律師の声」
フィオナ・アルトマンが公爵邸に来て、五日が経った。
アリスター・ヴォルフハルトは、自分が奇妙なことをしていると自覚していた。
廊下を歩く時に、作業室の前で足が止まる。書類仕事の合間に、窓から庭を見る——彼女が窓際にいないかを確認するために。食事の時間が近づくと、妙に落ち着かなくなる。
二十六年間、こういうことはなかった。
「こういうこと」が何なのか、アリスターにはまだ言語化できていなかった。ただ——何かが変わった。それは確かだった。
五日目の深夜。
アリスターは執務室で書類を片付けていた。
帝国議会への提出書類。魔導器管理局からの照会。日常的な、退屈な作業。でも今夜は、いつもより時間がかかっていた。集中できなかった。
理由は分かっていた。
作業室に、まだ灯りがついている。
執務室の窓からは、廊下を挟んだ作業室の明かりが見えた。消灯しているはずの深夜十二時を過ぎても、細い光の筋が扉の下から漏れていた。
(眠れていないのか)
アリスターは書類を置いた。
廊下に出る。作業室の扉の前に立つ。
中から、小さな声が聞こえた。
「……ちゃんと、聴こえてる?」
フィオナの声だった。
誰かに話しかけている。でも、セバスチャンではない。もっと小さな、独り言に近い声。
「今日ね、書庫でお母さんの論文の続きを読んだの。第三部の最初の理論——あれ、難しかった。でも、面白かった。あなたを研磨した時の感覚と、繋がっていた」
クリスタルに、話しかけている。
アリスターは扉に手をかけて——止まった。
開けなかった。
「……直せると思う。アリスターの魔力。応急処置じゃなくて、本当の意味で。お母さんの理論を全部読めたら、もっと精度が上がる。そしたら——」
少し、間があった。
「そしたら、もっと川が流れやすくなる。あの人の中で」
アリスターは動かなかった。
「あの人、笑う時の顔が、少し変なのよね。口の端がちょっとだけ動くの。笑ってるのか笑ってないのか、最初分からなかった。でも今日の書庫で——ちゃんと笑ってた」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「見てた? お母さん」
アリスターは、扉から手を離した。
廊下で、しばらく動けなかった。
翌朝の朝食。
フィオナは定刻に食堂に来た。
アリスターはすでに席に着いていた。フィオナが向かいに座る。いつも通りの朝だ。
でも——アリスターは昨夜のことを知っている。
フィオナは知らない。
厨房から朝食が運ばれてきた。温かいスープ。焼きたてのパン。果物。卵料理。
フィオナが——止まった。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、食事の前で止まる。それからゆっくりと手をつける。その動作に、何か——馴染んでいない感じがある。
アリスターは気づいていた。五日間、毎朝。
でも今日、初めて——その意味を考えた。
(七年間、ちゃんとした食事を食べていなかった)
調査書類に書いてあった。「残飯のみを与えられていた期間、複数年」。
文字で読んでいた。でも、毎朝この一瞬を見るたびに——それが現実だったと、改めて分かる。
「……どうかしましたか」
フィオナが顔を上げた。じっと見ていたことに気づかれた。
「いや」
「そうですか」
フィオナはスープを一口飲んだ。
それから、少しだけ——目を細めた。
美味しい、と思っている顔だった。本人は気づいていないだろうが。
アリスターは視線を自分の食事に戻した。
(この顔を)
毎朝、見たい。
そう思ったのは——初めてのことだった。
七日目の午後。
アリスターが書庫に行くと、フィオナがいた。
でも今日は本を読んでいなかった。作業机の前に座って、便箋に何かを書いていた。書いては、止まる。止まっては、また書く。それを繰り返している。
「邪魔するか」
声をかけると、フィオナが少しだけ驚いた顔をした。
「いいえ。どうぞ」
アリスターは本棚から適当に一冊抜いて、向かいの椅子に座った。
フィオナがまた便箋に向かった。書いては止まる。止まっては書く。
「手紙か」
「……はい。ルーシーさんに」
「何を書いている」
「お礼を」
フィオナが便箋を見たまま言った。
「ドレスを作ってくれたことと、色々と助けてもらったことの——お礼を」
「難しいのか、それが」
「……」
フィオナがしばらく黙った。
「ありがとう、という言葉を——どう書けばいいのか、よく分からなくて」
アリスターは本を閉じた。
「言葉を知らないのか」
「知っています。でも」
フィオナが便箋から目を上げた。
「七年間、誰かに感謝したことが——ほとんどなかったので。書き方が、分からないんです。なんか、軽くなってしまう気がして」
アリスターは、フィオナを見た。
灰青色の目が、少しだけ困っていた。
この目が困っているのを、アリスターは初めて見た。
いつも、計算している目。冷静に全部測っている目。それが今——本当に分からなくて、困っている。
「書けたか」
「三回書き直しました」
「何が気に入らなかった」
「最初は『ありがとうございました』だけ書いたら、短すぎて、感謝が伝わらない気がして。次は長く書いたら、今度は言い訳みたいになってしまって」
「今は」
「四回目を書いています」
アリスターは少しだけ考えた。
「ルーシーという人は、君のことをどう思っているんだ」
「母の友人です。私のことを、昔から見ていてくれた」
「なら」
アリスターが言った。
「何を書いても、伝わる」
フィオナが、アリスターを見た。
「短くても長くても——受け取る相手が決まっているなら、言葉の形はあまり関係ない」
フィオナはしばらく、アリスターを見ていた。
それから、便箋に向かった。
今度は——止まらずに、書いた。
二分ほどで書き終えて、封をした。
「ありがとうございます」
フィオナがアリスターに言った。
小さな声だった。でも——確かに、言った。
アリスターは答えなかった。
答える代わりに——本を開いた。読まずに、ただ開いた。
視線を本に落としながら、胸の中で何かが、静かに、確かに動いた。
能力が欲しいわけではない。
制御装置が欲しいわけでもない。
ありがとうという言葉の書き方が分からなくて、三回書き直す——その不器用さごと。
毎朝、食事の前に一瞬だけ止まる——その七年分の傷ごと。
夜中に金のクリスタルに話しかける——その孤独ごと。
この人間が——欲しい。
アリスターは本のページを、ゆっくりとめくった。
その夜の調律の後。
フィオナが「では、おやすみなさい」と立ち上がった時、アリスターは言った。
「フィオナ」
「はい」
「昨夜、作業室で——クリスタルに話しかけていただろう」
フィオナが、止まった。
完全に、固まった。
三秒の沈黙の後。
「……聞こえていましたか」
「扉の前で」
「どこまで」
「全部」
フィオナの顔が、わずかに赤くなった。
アリスターは今まで、フィオナが赤くなるのを見たことがなかった。
「……それは」
フィオナが、珍しくとても小さな声で言った。
「プライバシーの侵害です」
「扉は閉まっていた」
「でも聞こえていた」
「廊下に立っていただけだ」
「それが問題です」
「そうか」
アリスターは全く反省していない声で言った。
「笑う時の顔が、少し変、と言っていたな」
「っ——」
「口の端がちょっとだけ動く、と」
「忘れてください」
「忘れない」
「お願いします」
「嫌だ」
フィオナが、アリスターを見た。
顔が赤い。灰青色の目が、珍しく泳いでいる。
アリスターは——笑った。
口の端だけではなく、目元まで。
「今もそういう顔をしている」
「っ——おやすみなさい!」
フィオナが扉に向かった。
アリスターは笑ったまま、その背中を見た。
「フィオナ」
扉に手をかけたところで、フィオナが止まった。振り返らない。
「明日も、ここにいてくれ」
少しだけ間があった。
「……います」
扉が閉まった。
部屋に一人残ったアリスターは、しばらくその扉を見ていた。
それから、自分の右手を見た。
デバイスの中で、魔力が川のように流れていた。
この感覚を、最初に与えてくれた人が——いる。
能力のためではない。
この人間のために——扉は、開けておく。
そう決めたのは、この夜のことだった。




