第十五話「アリスターの手」
ヴォルフハルト公爵邸は、広かった。
当たり前だ。帝国最高位の公爵家の邸宅なのだから。でも「広い」という言葉が追いつかないくらい広かった。アルトマン伯爵家の屋敷が丸ごと三つ入りそうな敷地に、白い石造りの建物が左右に翼を広げるように建っている。
でもフィオナが案内されたのは、その豪奢な建物の一角にある、こじんまりとした部屋だった。
窓が二つ。作業台が一つ。棚。椅子。それから——道具箱。
道具箱を開けると、装填師用の工具が一式、きちんと揃っていた。研磨用の細工刀。クリスタル固定用の保持具。回路確認用の魔力検知器。全部、上質な品だ。
「こちらがフィオナ様のお部屋になります」
セバスチャンが言った。
「作業室、ということですか」
「作業室兼、お部屋です。隣に寝室がございます」
フィオナは道具箱を閉めた。
(作業室が、部屋)
七年間の地下室を思えば、これだけで十分すぎた。でも、素直に喜ぶには——まだ状況の整理が追いついていなかった。
「閣下は?」
「執務をされています。本日はゆっくりお休みいただくよう、とのことです」
「……調律の件は」
「明日以降で、とのことです」
フィオナは窓の外を見た。
庭が見えた。手入れされた芝生。整然とした花壇。アルトマム家の荒れた庭とは、全く別の世界だ。
「セバスチャンさん」
「はい」
「一つ聞いていいですか」
「もちろん」
フィオナはセバスチャンを向いた。
「あなたは、お母さんのことを知っていましたか。エリン・ヴェインのことを」
セバスチャンが、少しだけ間を置いた。
「存じておりました」
「白い鳥のことも」
「……はい」
フィオナは頷いた。
「教えてもらえますか。いつか」
「いつか——そのうちに」
セバスチャンが静かに笑った。初めて見る、眼鏡の奥の柔らかい表情だった。
「まずは、お休みください。長い旅でしたから」
扉が閉まった。
フィオナは部屋に一人残された。
作業台に手をついて、しばらく立っていた。
長い旅、とセバスチャンは言った。
(そうね。長かった)
七年間。それが今日、終わって——別の何かが始まった。
フィオナは鞄から金のクリスタルを取り出した。
部屋の窓から差し込む西日を受けて、クリスタルが金色に輝いた。
地下室では見たことのない光だった。
翌朝。
フィオナが作業台で道具の確認をしていると、ノックがあった。
「どうぞ」
入ってきたのは——アリスターだった。
セバスチャンではなく、本人が来た。
執務用の、飾り気のない黒い上着。昨日より肩の力が抜けている。でも金色の目は、変わらず鋭かった。
「邪魔するか」
「いいえ」
フィオナは立ち上がった。
「今日、調律を?」
「頼めるか」
「はい。座っていただけますか」
アリスターが椅子を引いた。座る。
フィオナは道具箱から必要なものを選んだ。研磨済みのクリスタル——昨夜、金のクリスタルの「声」を聴きながら、本修理用の補助クリスタルを選んでおいた。細工刀。保持具。
それから——金のクリスタルを、作業台の隅に置いた。
「あれは」
アリスターが、金のクリスタルに目を向けた。
「舞踏会の夜に使ったものです。今日は直接使いませんが、参照用に」
「参照用」
「設計の基準になります。あなたの魔力の『声』を一番よく知っているクリスタルなので」
アリスターが、少しだけ目を細めた。何かを考えている目だ。
「声、と言うのか。クリスタルに」
「私にはそう聞こえます」
フィオナは答えた。
「全部のクリスタルが、違う声を持っています」
「私の魔力の声は」
フィオナは一秒だけ考えた。
「……嵐、というより」
正直に言うかどうか迷って——言うことにした。
「川です。今は」
アリスターが、黙った。
フィオナは続けた。
「舞踏会の夜に初めて触れた時は、津波のようでした。でも応急処置の後から——方向を持った、大きな川になっています」
「川」
「はい。とても、大きな」
アリスターはしばらく自分の右手を見ていた。
それから、フィオナに右手首を差し出した。
本修理は、一時間かかった。
応急処置と違って、デバイスのクリスタルを全て外して、新しい配置で組み直す。フィオナの「絶対連環」が、アリスターの魔力の回路に合わせて、一つ一つのクリスタルの最適位置を弾き出していく。
細工刀が動く。クリスタルが固定される。回路が繋がる。
作業の間、アリスターは一度も動かなかった。
喋りもしなかった。ただ、フィオナが手元で作業するのを、静かに見ていた。
その視線を、フィオナは感じていた。
感じながら、でも作業に集中した。今この瞬間の世界は、指先とクリスタルと、声だけだ。それはいつも変わらない。
最後のクリスタルを固定して——フィオナは細工刀を置いた。
「流してみてください」
アリスターが魔力を流した。
フィオナはデバイスに指先で触れて、声を聴いた。
川が、流れていた。
応急処置の時よりずっと、滑らかに。太く。深く。大きな川が、きちんとした川床の中を流れている。溢れない。でも、勢いは全く殺していない。
「……」
アリスターが、息を飲んだ。
音もなく、でも確かに。
「どうですか」
「今まで」
アリスターが、低い声で言った。
「今まで、一度も——自分の魔力が、自分のものだと感じたことがなかった」
フィオナは手を離した。
「今は」
「今は」アリスターが、右手を見た。
「ある」
それだけだった。
それだけだったのに——部屋の空気が、変わった気がした。
フィオナは道具を片付け始めた。細工刀を拭く。クリスタルの破片を集める。手を動かしながら、何か言うべきかどうか考えた。
でも、何も思いつかなかった。
この沈黙は——悪くない、とだけ思った。
道具を片付け終えた頃、アリスターが言った。
「礼を言う」
「お仕事ですから」
「仕事ではない」
フィオナは手を止めた。
「君が来たのは、仕事のためではないだろう」
フィオナはアリスターを見た。
金色の目が、真正面にある。相変わらず、逸らさない。
「……今のところは、仕事のつもりでいます」
「今のところは」
「はい。今のところは」
アリスターが、かすかに——口の端を動かした。
笑ったのか、と思った。笑い方を知らないような顔をしていた人が、今確かに、口の端を動かした。
「正直だな」
「嘘をついても仕方がないので」
「そうだな」
アリスターが立ち上がった。
フィオナより頭一つ以上高い。近いと、それがよく分かる。
「一つ、言っておく」
「はい」
「君を、帰す気はない」
フィオナは答えなかった。
「今すぐ逃げようとするなら止めない。でも」
アリスターの金色の目が、フィオナを真っ直ぐに捉えた。
「君以外に、私の魔力を扱える人間はいない。それは君も知っている」
「……知っています」
「だから」
一歩、近づいた。
「逃げても——また、探す」
それは脅しではなかった。
ただの、事実の確認だった。
だからこそ——フィオナは、反論できなかった。
「……今夜のところは、逃げません」
「今夜のところは」
「はい。今夜のところは」
また、口の端が動いた。
今度ははっきりと——笑っていた。
アリスターが部屋を出ていった。
扉が閉まる。
フィオナは作業台に手をついた。
指先が、少しだけ温かかった。
アリスターの魔力に触れた後遺症か。あるいは——別の何かか。
(今夜のところは、逃げない)
自分で言ったことを、頭の中で繰り返した。
明日のことは——明日考えればいい。
作業台の隅で、金のクリスタルが静かに輝いていた。
まるで、またあの笑い方をしているみたいに。




