第十三話「継母の最後の賭け」
三日目の朝は、静かだった。
静かすぎた。
フィオナは朝早くに目が覚めて、天井を見つめた。いつもなら朝の支度の音や使用人の足音が聞こえる時間なのに、今日は何も聞こえない。
屋敷全体が、息を潜めているようだった。
カサンドラが昨夜出て行って、まだ帰っていない。
フィオナは起き上がった。金のクリスタルを確認する。今日——四日目ではなく、今日この朝に——何かが動く気がした。
その予感は、午前十時に的中した。
地下室の扉が、ノックもなく開いた。
ベアトリスだった。
でも昨日とは別人のような顔をしていた。青白さは消えて、代わりに何か固い決意のようなものが顔に張りついていた。化粧を丁寧に直している。髪も整えている。
昨夜、何かを決めた顔だ。
「フィオナ。着替えなさい」
「……はい?」
「今から、ヴォルフハルト公爵邸に行きます。あなたも来なさい」
フィオナは一秒だけ止まった。
(来た)
ベアトリスが何をしようとしているか、大体の予想はついていた。
娘二人が失敗した。クラリスの失敗は公式記録に残った。カサンドラの昨夜の動向は不明だが——おそらく、同じ結末を迎えているだろう。
最後の手は、フィオナを「差し出す」ことだ。
本物を連れていくことで「うちの家にいた本物を、今ここに連れてきました」という形にする。恥を取り繕いながら、フィオナの技術を最後にもう一度利用する。
七年間、ずっとそうだった。
(でも今日は——利用されてあげましょう)
フィオナは立ち上がった。
「……分かりました。ただし」
「なに」
「正式な装填師の服装で参ります。少し、準備させてください」
ベアトリスが一瞬だけ眉を動かしたが、頷いた。
馬車の中で、ベアトリスは一度もフィオナを見なかった。
窓の外を見ている。手袋をした手が、膝の上で微かに動いている。
フィオナは黙って座っていた。
ルーシーが仕立ててくれた深緑のワンピース。「公式の場用に一着持っておきなさい」と言って作ってくれた服を、今日初めて着た。髪は丁寧に編んで、金のクリスタルは内ポケットに入れてある。
窓の外を、帝都の朝の街並みが流れていく。石畳の道。並木。露店の準備をしている人たち。
(今日——全部、公式の記録に刻む)
七年間、灰にまみれて積み上げてきたもの全部を。
公爵邸の正門で、馬車が止まった。
降りようとしたベアトリスを、門番が止めた。
「アポイントメントをお持ちですか」
「アルトマン伯爵家のベアトリスです。補佐官のセバスチャン様にお取次ぎを」
「少々お待ちください」
門番が中に入った。
五分ほど待って、戻ってきた。
「セバスチャン様より、伝言でございます」
「なんですって?」
「『本日のご来客はお一人様のみお受けできます。フィオナ・アルトマン様、こちらへどうぞ』と」
ベアトリスが、固まった。
フィオナは門番に向かって静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。参ります」
「フィオナ!」
ベアトリスの声が、背中に刺さった。
フィオナは振り返らなかった。
案内されたのは、大応接室だった。
第三応接室とは全く別の場所だ。天井が高い。窓が三つ。正式な会議用のテーブルと椅子が並んでいる。
そして——テーブルの端に、二人の男が座っていた。
帝国装填師協会の立会人だ。黒い制服に、銀の徽章。書記用の羊皮紙を前に、無表情で待機している。
セバスチャンが入口でフィオナを迎えた。
「お越しいただきありがとうございます」
「前と、場所が違いますね」
「はい」
セバスチャンが静かに言った。
「クラリス様の記録を受けて、協会側が関心を持ちました。本日は正式な認定試験として、記録に残します」
フィオナは部屋の立会人たちを見た。
羽ペンを持って待機している。この場で起きることが全部——記録される。
(偽物の失敗と、本物の成功を。同じ記録に残す)
それが、最も鮮やかな決着だ。
「準備はよろしいですか」
フィオナは内ポケットの金のクリスタルを、指先で確かめた。
「はい」
テーブルの中央に、クリスタルが置かれていた。
無色透明の、小さな原石。クラリスの憎悪の魔力を受けて少しだけ乱れていたはずの——でも今は、静かに待っているクリスタル。
セバスチャンが、正式な口調で述べた。
「ヴォルフハルト公爵家専属装填師認定試験。フィオナ・アルトマン様です」
フィオナは全員に向かって、静かに頭を下げた。
「フィオナ・アルトマンと申します。亡き母エリン・ヴェインの理論を継いだ装填師です」
立会人の一人が、顔を上げた。
「エリン・ヴェイン——白金級の」
「はい」
「……続けてください」
フィオナは椅子に座った。
手袋はしていない。最初からしていなかった。
テーブルの上のクリスタルに、素手の指先で触れた。
瞬間——「声」が、聞こえた。
静かで、澄んだ声。フィオナが設計した回路の声。
(ちゃんと覚えていてくれたのね)
魔力を流した。
ごく自然に。川が流れるように。設計した通りに。
クリスタルが——金色の光を放った。
深く、静かに、内側から湧き出すような光。
部屋の全員が、息を飲んだ。
立会人の一人が、椅子から少し身を乗り出した。
「……これは」
「静寂化配列です」
フィオナは静かに答えた。
「クリスタルの内部構造に合わせて、魔力の流れを外から整えるのではなく、内側から最適化する設計思想です。母の遺した理論を基に、独自に発展させました」
「舞踏会でヴォルフハルト公爵の魔力を制御したのも、この理論で?」
「はい」
羽ペンが、一斉に動き始めた。
試験が終わった後、白髪の七十がらみの認定官がフィオナに近づいた。
「少し、よろしいですか」
「はい」
「エリン・ヴェインの理論書を、あなたは読んでいる」
「はい。地下室で、七年間」
男性が、フィオナを見た。
「協会は、あの理論書を封印した。危険思想として」
「存じています」
「あなたは、それを使った」
「はい」
「危険だとは思わなかったのですか」
「危険なのは」フィオナは答えた。
「理論ではなく、理論を理解せずに使う人間だと思います」
沈黙があった。
それから——男性が、静かに笑った。
「エリンも、同じことを言っていた」
フィオナは止まった。
「ご存知でしたか、母を」
「若い頃に、一度だけ。同じ目をしているな。あの、全部見透かすような目が」
男性が頭を下げた。
「フィオナ・アルトマン殿。本日の試験結果は、協会として正式に記録します。白金級見習いとしての認定申請を、推薦しましょう」
フィオナは——一瞬だけ、言葉が出なかった。
白金級。母が持っていた、最高位の認定。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけかすれた。
男性が去っていった後、フィオナはテーブルの上のクリスタルを見た。
金色の光は消えていた。でもクリスタルの内部に——かすかな温もりが残っていた。
(お母さん。聞こえてる?)
心の中だけで、問いかけた。
答えはなかった。
でも、クリスタルが、ほんの少しだけ、温かかった。
公爵邸を出る前に、セバスチャンが言った。
「フィオナ様。閣下よりお願いがございます」
「はい」
「アルトマム家の件を——正式に、調査したいとのことです」
フィオナは止まった。
先に言われた。自分が頼もうとしていたことを。
「……閣下が、そうおっしゃったのですか」
「はい。七年分の記録を、明るみに出すべきだと」
フィオナはしばらく、廊下の先を見た。
「……私からも、お願いがあります」
「承っております」
「全件。父の遺産の横領から、私の労働の搾取まで。全部の記録が、地下室にあります」
「承知いたしました」
セバスチャンが頭を下げた。
「それから」
セバスチャンが続けた。
「閣下が直接お礼を申し上げたいと」
案内された部屋で、アリスターが待っていた。
窓際に立っていた。フィオナが入った瞬間に振り返った。
金色の目が、フィオナを——上から下まで、一度だけ見た。
「……服が、違う」
「今日は正式な場でしたので」
「そうか」
アリスターが、フィオナに近づいた。
「試験は」
「通りました。白金級見習いの推薦をいただきました」
「当然だ」
フィオナは少しだけ目を細めた。
「当然、とは随分な言い方ですね」
「事実だ」
アリスターが、フィオナの右手を取った。
傷だらけの、タコだらけの、装填師の手。
「この手が——今日、公式の記録に残った」
フィオナは答えなかった。
「七年分が、ようやく」
アリスターの声は、低くて、静かだった。
フィオナは視線を自分の手に落とした。
七年分。
そう言われると——胸の奥で、何かが動いた。
「……はい」
声が、また少しだけかすれた。
アリスターが、フィオナの手を——両手で、包んだ。
温かかった。
フィオナは顔を上げなかった。
でも、握られた手を——少しだけ、握り返した。
帰り際、フィオナは正門の外でベアトリスと鉢合わせた。
馬車の傍で待っていたベアトリスは、フィオナの顔を見た瞬間に何かを読み取った。
「……何を、したの」
「調査が入ります」
フィオナは静かに言った。
「ヴォルフハルト公爵家からの、正式な調査が。七年分、全件」
ベアトリスの顔が、みるみる青くなった。
「あなた——」
「馬車で帰りましょう、継母様」
フィオナは先に馬車に乗り込んだ。
ベアトリスは、しばらく動けなかった。
それから、ゆっくりと、重い足取りで乗り込んできた。
馬車が動き出す。
二人の間に、言葉はなかった。
窓の外を、帝都の街並みが流れていく。
フィオナは金のクリスタルを、ポケットの中でそっと握った。
温かかった。
公爵邸の窓から、白い鳥が一羽、空を横切っていった。
フィオナは目で追った。
見えなくなるまで。




