第十二話「血の儀式・カサンドラ」
二日目の朝、カサンドラは一人で出発した。
クラリスは同行しなかった。右手の包帯を庇いながら、見送りにも来なかった。ベアトリスだけが玄関先で短く何かを言い含めて、馬車を見送った。
フィオナは地下室の小窓から、馬車が遠ざかるのを見ていた。
深紅のドレス。出発前に着替えたのだろう。カサンドラは昔から、舞台に上がる前に必ず「一番強く見える色」を選ぶ。
(深紅、ね)
フィオナは視線を小窓から外した。
今日も、待つだけだ。
ヴォルフハルト公爵邸の第三応接室に、カサンドラ・アルトマンが通されたのは午前十時だった。
部屋の質素さに、カサンドラは眉をひそめた。クラリスから「小さくて地味な部屋だった」と聞いていたが、本当に何もない。窓が一つ。長椅子が二脚。小さなテーブル。
(試されているのかしら)
カサンドラは背筋を伸ばした。
動じない。どんな部屋でも、私は私だ。
「お越しいただきありがとうございます」
セバスチャンが入ってきた。銀縁の眼鏡。整えた黒髪。昨日クラリスから聞いた通りの男だ。
「カサンドラ・アルトマンと申します」
「存じております」
セバスチャンが頭を下げた。それから、テーブルの上に小さなクリスタルを置いた。
昨日と同じ、無色透明の原石。
「試験の内容はご存知でしょうか」
「ええ。このクリスタルに魔力を通すんでしょ」
「左様です。いつでも」
カサンドラは手袋を外した。
昨夜、カサンドラはクラリスから全てを聞いた。
試験の内容。どのようにやったか。何が起きたか。
クラリスは「魔力が足りなかったのかもしれない」と言っていた。でもカサンドラには分かった。足りなかったのは魔力ではなく——覚悟だ。
クラリスは怖かったのだ。公爵の前で、失敗することを。だから魔力が中途半端になった。
でも私は違う。
カサンドラは昨夜、フィオナのノートをもう一度読み直した。「強い感情の魔力を込めるほど共鳴が深まる」。「迷わず、強く、直接流し込む」。
覚悟さえあれば——できる。
クリスタルに手を触れた。
冷たい。固い。でも確かに、微かな振動が伝わってくる。魔力が通る余地がある。ここに、込める。
カサンドラは目を閉じた。
強い感情。何でもいい、強い感情が必要だ。
浮かぶのは——フィオナの顔だった。
あの目。何もかも見透かしているような、冷たい灰青色の目。七年間、地下室に押し込めていたのに、それでも折れなかった目。舞踏会で金色のドレスを着て現れたと、今になって分かった、あの夜のことへの怒り。
私たちが搾取していた娘が、実は私たちより遥かに高いところにいたという——屈辱。
その感情が、魔力に乗った。
ぱきり、という音は、昨日より大きかった。
カサンドラの手首のデバイスが砕けた瞬間、衝撃が指先から腕を駆け上がった。
「——っ!」
悲鳴を上げる間もなかった。
手のひらが、燃えるように熱い。指が、動かない。視界が白くなる。
カサンドラはよろめいて、長椅子の背に手をついた。
「カサンドラ様!」
セバスチャンが立ち上がった。でもカサンドラには、その声が遠くに聞こえた。
手を見た。
右手の手首から指先にかけて、赤い筋が幾本も走っていた。クラリスの傷より深い。魔力の反動が、皮膚の下の組織まで達している。
でも、それより。
視界が——滲んでいた。
(なんで)
おかしい。目を擦ろうとして、手が震えて届かない。
光が、歪んでいる。輪郭が、溶けている。
クリスタルの破砕が生み出した魔力の逆流は、皮膚だけでなく——目の神経を通って、視覚を焼いていた。
カサンドラには、それが分からなかった。
ただ、世界がぼやけていくのを、止められなかった。
昼過ぎ、屋敷に異変が起きた。
馬車が戻ってきた音がした。でも、降りてくる足音がおかしかった。二人分——カサンドラと、誰か別の人間。カサンドラを支えている。
ベアトリスの悲鳴が聞こえた。
短く、鋭い。今まで聞いたことのない声だった。
フィオナは作業台から立ち上がった。
地下室の扉に近づいて、耳を澄ます。
「目が——目が見えないって——」
「落ち着いてください、奥様。医師を——」
「なぜ! なぜこんなことに——フィオナ! フィオナはどこ!」
フィオナは扉から離れた。
呼ばれている。でも、今すぐ上に行く必要はない。
ベアトリスはパニックになっている。今フィオナが顔を出しても、話にならない。少し待って、嵐が落ち着いてから行けばいい。
フィオナは長椅子に座った。
膝の上で、手を組んだ。
カサンドラの視覚が焼けた。
想定していた結果ではあった。「憎悪の魔力」を大量に流した場合、魔力の逆流が感覚器官に影響する可能性があることは、計算に入っていた。
でも、実際にそうなると——。
フィオナは目を閉じた。
怖い、とは思わない。
悲しい、とも思わない。
ただ——これが、七年分の重さだ、と思った。
軽くあってはいけない。この結末は、軽くあってはいけない。
カサンドラが受け取ったものは、カサンドラが七年間フィオナに与え続けたものの、総量だ。
(母の形見を燃やした夜、あなたは笑っていた)
フィオナは目を開けた。
手の組み方を、静かに解いた。
しばらくして、ベアトリスが地下室に来た。
いつもの威圧的な足音ではなかった。どこか、重心が定まらない歩き方だった。
扉を開けて、フィオナを見た。
ベアトリスの顔は、青かった。化粧が少し崩れている。目の下に、濃い疲労の色がある。
「カサンドラの目が——見えなくなるかもしれないと、医師が言っている」
「……そうですか」
「あなたに直せる?」
フィオナは答えなかった。
直せるか、という問いへの答えは——ない。魔力の逆流による視神経への損傷は、魔導器の修理とは全く別の問題だ。フィオナにできることは何もない。
「魔導器の問題ではありません。医師に診ていただくしかありません」
「医師に診せているわ! でも魔力が絡んでいるから、普通の治療では——」
「でしたら、帝都の魔力医療専門の病院に相談されることをお勧めします」
ベアトリスが、フィオナを見た。
長い沈黙があった。
フィオナは視線を逸らさなかった。
「……あなたは」ベアトリスが、絞り出すように言った。
「何も感じないの? カサンドラのことが、何とも思わないの?」
フィオナは一秒、考えた。
「思います」
「なら——」
「でも」
フィオナは続けた。声は、平坦だった。
「私にできることは、何もありません」
それだけだった。
ベアトリスは何も言わなかった。
重い足音で、地下室を出ていった。
一人になったフィオナは、金のクリスタルを棚から取り出した。
指先で触れる。温かい。
明日——三日目だ。
ベアトリスが、何かを仕掛けてくる。娘二人を失った女が、最後の賭けに出る。それがどんな手かは、まだ分からない。
でも、フィオナには——あと一日ある。
金のクリスタルが、静かに輝いた。
フィオナはそれを掌に包んで、目を閉じた。
もう少し。
あと、もう少しだ。




