きれいは汚い、汚いは…… 4
紅子との婚約発表直後からの葛笠に対する周囲の態度はさまざまであった。
まずは、葛笠の両親。彼らはテレビを通して息子の婚約を知ることになって、さぞや驚いているに違いない。だが、久しぶりに葛笠が電話をしてみれば、彼らは、まったく平静であった。彼らは、自分の息子が大金持で美人の令嬢と結婚できるわけがないと頭から信じ込んでいた。しかも、彼らの息子への評価は、冬樹と同等かそれ以下だったようだ。両親は、足や目が不自由なことを気にしすぎて変にやさぐれていた葛笠を真っ当な社会人にしてくれたとして、源一郎に大変な恩を感じていた。
それに、葛笠が障害を負った時の事故をめぐっての報道以来、彼の両親には、マスコミに対する不信感がある。今回の源一郎の件も、胡散臭いと感じているとのこと。ゆえに、息子が紅子の偽婚約者を演じることで騒ぎが収まるのであれば願ってもないことだと、彼らは言っていた。親戚や報道関係者がこちらにくるようならば適当に話をしておくから任せてほしいと、なにやらやる気満々だった。
葛笠をからかう機会があれば全力で乗ってくる月子と夕紀は、「今日から、葛笠さんを『お兄さま』って呼ばなくちゃ」とはしゃいでいた。これは、予想どおりの反応だった。娘の就職活動が難航していた時でさえ面白がっていた朱音が大喜びしたことも、想定の範囲内ではある。
「今後、わたくしたち姉妹を『さま』づけで呼ぶのはやめるように」と、紫乃から電話をもらった時には、かなり恐縮した。もちろん『紅子さま』も禁止だそうだ。葛笠が姉妹に対してへりくだった態度を取り続けることで、紅子が姉妹の中で肩身の狭い思いをするようなことがあってはならないと紫乃は言っていた。マスコミ対策としての偽の婚約でしかないというのに……というよりも、マスコミを騙さなくてはならないからこそ設定に些細な綻びもあってはならないと、紫乃は考えているのだろう。
姉の方針に同調したのか、和臣も葛笠に『さま』禁止令を出した。
「口調も、オフの時は砕けた感じでいいよ。紅子には前からそうしているんだろう?」
「はあ」
前からというより、紅子が六条家の御令嬢と知らぬまま話して以来、ずっとだった。
「では、お言葉に甘えて、しばらくの間ご無礼いたします」
「しばらく……ねえ」
神妙な顔で頭を下げたというのに、和臣は不服そうだった。やはり馴れ馴れしすぎたかもしれないと、葛笠は反省した。
***
葛笠の絶対的支配者である六条源一郎は、いつにも増して支離滅裂なことになっていた。
「いいか、葛笠。結婚するまでは、紅子におかしな真似をするんじゃないぞ。絶対だ!」
「そんなの当り前じゃないですか。絶対にしませんから、安心なさってください」
「なんだと。紅子には手を出すほどの魅力がないとでも言いたいのか」
「いや、そういうことではなくてですね」
何度も言うが、この婚約は、偽装であるはずだ。おかしな真似などできるわけがない。源一郎は怒り狂うだろし、なにより、紅子を困らせるようなことはしたくない。そう釈明する葛笠に、源一郎が憐れむような眼差しを向けた。
「紅子を困らせたくないって…… おまえさあ、もっと自分に自信を持ってもいいんだぞ。まあ、和臣が常にそばにいるのが自信喪失の原因のひとつではあるんだろうがな。だけど、俺から手を出すようにけしかけるってのも、なんかムカつく……」
「社長、なにをブツブツおっしゃっているのですか?」
「なんでもねえよ」
源一郎がそっぽを向いた。
「まったく。なんで、俺がこんなことで気を揉まなくちゃならねえんだ。ああ、いっそ冬樹なら……」
「はあ?」
まさか、冬樹を見習えというのだろうか。それとも、紅子の偽婚約者の役を冬樹と交代させるつもりだろうか?
(紅子と……冬樹だと?)
ありえない。
「そんなのダメです!」
「葛笠?」
つい大きくなってしまった葛笠の声に驚いたのか、源一郎が目を白黒させている。だが、今回に限って言えば、悪いのは社長だ。冬樹なんて論外だ。紅子だって嫌なはずだ。当の冬樹だって「葛笠さんのいうとおりだよ」と、葛笠に加勢してくれるではないか。
「おっさんは、葛笠さんに、紅子にぐいぐいアタックしてくれればいいと思ってんだろ。昔の俺みたいにさ。カッコつけて、プレゼントや適当な誉め言葉で相手を喜ばせて、夢中になるように仕向けて……」
「なんだ、冬樹くんを見習えって話だったのか」
自分と冬樹を交代させる話ではないとわかって、葛笠の肩から力が抜けた。同時に、彼は、冬樹の真似をしろと言われているのに腹も立たない自分に戸惑ってもいた。それどころか、ニヤニヤしている自分が、自分でも気持ち悪かった。冬樹から見ても気味が悪かったのだろう。「なあ、本当に俺なんかの真似したらだめだぞ。絶対に後悔するぞ」と、真剣な面持ちで諭し始めた。おかげで、葛笠の頬は緩みっぱなしになった。
(だってさ、あの『竹里冬樹』が、だよ)
ここに来た当初と比べれば、冬樹の性格は、かなり改善されている。それでも、まだまだわずかな変化でしかなく、「叱られるのは嫌だから」「できないのは悔しいから」「ほめられると嬉しいから」などといった、変わった結果が自分への褒美となって返ってくるようなことに限られていた。
そんな冬樹が、葛笠の心配をしてくれている。それどころか『過去の自分のようになってはならない』と、自分の過去を恥じるようなことも言った。怒られて嫌な思いをするかもしれないのに源一郎に意見までした。
他人のために冬樹がここまでするのは、これが初めてではないだろうか。であるならば、それは変化どころか進歩とみなしてよいのではないだろうか。源一郎も葛笠と同じように感じたのだろう。「おっさんも馬鹿なことそそのかすなよ!」と冬樹からどやされても、源一郎は不機嫌にならなかった。それどころか、「そうだな。今のは俺の失言だった。葛笠が俺たちみたいになったら、俺が紅子に嫌われてしまうな」と笑いながら(紅子に嫌われるかもしれないと自分で言っておきながら、笑顔でいられる源一郎など、異常でしかない)「お前も成長したなあ」と冬樹の頭を撫でることまでした。
「こ、子供扱いするなっ!」
冬樹は嫌がるように手を振り回したが、その表情は、まんざらでもなさそうだった。
**
一方、秘書室の葛笠の同僚たちは、拍子抜けするほど普段と変わらなかった。それはそうだろう。彼らは、紅子との婚約が嘘だと知っている。
「偽装婚約だから騒ぎ立てる理由がないってだけだな。うん」
「まだ、そんなこと言ってんのか?」
社長室から戻ってきた葛笠の独り言を聞きつけて、がっしりとした体格に角刈り頭の男が近づいてきた。先輩秘書の遠峯だ。彼は葛笠宛に届けられた祝電の束を運んできてくれたところだった。全部で二十通ほどある。主な差出人は、紫乃との縁談が持ち上がった頃に葛笠と同じように弘晃の正体を探っていた他社の社員だった。あの頃の葛笠は、写真を手に入れるどころか実在さえあやふやだった弘晃の実像に少しでも近づくために、彼らと頻繁に情報を交換しあっていたものだ。
「いい加減に覚悟を決めろよ。あの社長でさえ、社長なりに現実を受け入れようとしてるんだから」
「覚悟?」
「紅子さまを嫁にして、社長の義理の息子になる覚悟だな。ところで、この電報もそうだけど、葛笠って結構すごい人脈を持ってるよな」
遠峯が、トランプの札を配る要領で、葛笠のデスクに祝電を並べていく。
「社長は、きっと、こうなることがわかってたんだろうな。だから、葛笠が紅子さまに相応しい男となるように、新人の頃から着々と手を打ってきた……」
遠峯の言葉が気になったのだろう。フロア中の先輩たちが葛笠たちの周りに集まってきた。
「着々……。なるほどね。この祝電の送り主たちの肩書を見ると、そう思いたくなるなあ」
「誰もが知っている大企業の役職ばかりだもんな」
「でも、知り合った当時は、みなさんそれほど偉くなかったですよ」
あの頃の彼らは、入社したての葛笠よりもせいぜい5歳から10歳ほど年上で、まだまだ『若手』と呼んでも差し支えのない年代だった。
「それに、将来のために着々……と言われても、今回の婚約自体が嘘なわけですから……」
「……」
葛笠を取り囲んだ面々が、なぜか一斉にため息をついた。額を押さえて天を仰ぐ者もいた。爆笑している者もいる。
「本当に自覚がないんだねえ。冬樹くんが来た時に、あれだけ牽制しておきながら」
「それは彼の素行が問題だったからですよ」
「それだけじゃないだろう」
先輩たちの笑い声が大きくなる。
「紅子さまのアルバイトのお迎えの時だってさ。俺たちからだと、社長が葛笠をせっついているというより、葛笠がそわそわしてるから、社長がさっさと行くように促しているようにも見えていたわけだよ」
「……いや、そんなことは……」
「普段から馬鹿みたいに忙しいくせに、迎えが必要な日に限って強引にスケジュールをやりくりして毎回秘書室で待機していたのは、どこどいつだ?」
「そ、それは、社長や和臣さまの計らいで……」
「そうだな。社長と和臣さまと、ついでに佐々木室長までもが、葛笠が迎えにいけるような環境を『わざわざ』整えてくれてたよね」
先輩たちが楽しそうに、葛笠を追い詰めていく。
「さて、一方、お相手の紅子さまだが」
反論できなくなっている葛笠に、遠峯が続けた。
「紅子さまは、これまでずっと『自分は独身主義者』だと、主に社長に向かって猛アピールをしていた。就職活動やアルバイトまでして、上の3人のお姉さまのように親から言われるまま嫁に行くつもりがないことを行動で示していた。それにもかかわらず、葛笠との婚約が内定した途端、その設定をすっかり忘れたかのように、お父さまの言いつけに従う気満々になっているわけだが?」
「だから、それは偽装……」……なわけあるかっ!」
先輩たちが一斉に葛笠の言葉尻を奪い取った。
「唐突な婚約発表だったにもかかわらず、あんなに嬉しそうな顔で応じてたんだぞ」
「しかも、テレビで全国放送の生中継だ」
「演技しようなんて考える暇もなかったはずだよ。そして、誰が見ても、親から押し付けられた縁談が嫌で独身貫こうとしている女の子の顔じゃなかった」
「あの表情が演技なら、紅子さまは、たいした女優だよ。テレビを観ていた全員が信じちゃっただろうからね」
「いや、でも、あの時、彼女が嬉しそうだったのは……」
先輩たちの言葉に誘導されるようにして、葛笠の脳裏に葛笠と婚約させられることを知った時の紅子の嬉しそうな顔が浮かんだ。たしかに、あれは可愛かった。そう。テレビで全国放送はもちろんのこと、他の誰にも見せたくないほど可愛かったが……
それでも彼らの言葉を受け止めきれない葛笠は、最後の抵抗を試みた。
「あ、あれは……俺と婚約することによって、マスコミの興味が紅子さまから逸れ、夕紀さまのコンクールを気兼ねなく観に行けるようになるから……では?」
「それも本気で言っているのか?」
「馬鹿なの?」
「ってか、そんだけ顔赤くして、なに言っちゃってるの?」
「ほんとだ。こいつ耳まで真っ赤だぞ!」
背後にいる先輩の誰かが、長めの前髪に隠れている葛笠の両耳を強く引っ張った。
「ああ、もう、やめてくださいよ!」
葛笠は、力任せに耳を押さえている誰かの手を払いのけた。両手で顔を覆って、下を向く。もう、どういう顔をしたらいいのか、わからない。そんな葛笠を見て、先輩秘書たちが、「やっぱり自覚してなかったか」「仕方ないか。葛笠だもんな」「恋愛未経験者はこれだから」と、はやし立てた。
「……というよりも、考えないようにしていたんだろ?」
遠峯の声が、急に優しいものになる。
「なにせ、考えたが最後、あの社長と対峙することになるわけだから」
慰めるように、うつむいたまま視線を上げた葛笠の頭に手を置いた。「そうだよなあ」「怖いよなあ」と、他の皆も神妙な顔でうなずいている。
「それでも、せっかくチャンスが巡ってきたんだ。今は、偽造婚約かもしれない。だが、社長公認だ。マスコミ対策かもしれない。でも、社長が『いい』って言ったんだ。この状況を全力で利用しないでどうする。いや、利用しろ」
「そうだよ。頑張ってみろよ」
「おまえなら大丈夫だよ」
「ただし、絶対に紅子さまを幸せにしろよ。泣かすんじゃないぞ。……いや、ここで葛笠が頑張ってくれないと、マジで紅子さまが泣くな」
『紅子が泣く』
その言葉に、全員が青ざめた。
「まずいぞ、紅子さまが泣いたら、社長が泣いて怒るぞ」
「俺たちにとばっちりがくるじゃないか!」
「頑張れ葛笠。お前ひとりが娘を奪った男として社長に恨まれるがいい!」
遠峯が、掴み上げるようにして葛笠を上向かせる。葛笠と目が合うなり、遠峯は彼にいきなりデコピンを喰らわせた。遠峯に続いて他の先輩たちまでもが、激励の言葉と共にデコピンまたは、それに類するような一撃を浴びせていった。
****
その日の夜には、菱谷商事の田代に飲みに誘われていた。
田代は、昼間の電報の差出人のひとり。体つきといい目鼻立ちといい全体的にこじんまりとした感じの、一見とても人が良さそうな御仁である。だが、老獪とか妖怪とか言われて畏れられている菱屋商事の会長に日ごろから便利に使われているだけあって、なかなかに強かで目端の利く人物だ。彼は、待ち合わせた新橋駅の機関車の前で額の一点を赤くしている仏頂面の葛笠を見ただけで、何があったか見当がついたようだった。
「逆玉の輿っていうのも、なかなか大変ですね」
「……経験者は語る、ですか?」
痛む額を隠すように手で押さえながら、葛笠は、田代に恨めし気な視線を投げた。
「私の場合は、そんな晴れがましいものじゃありませんでしたよ」
田代は、葛笠の嫌味を涼やかに受け流した。
ちなみに、今日の店は、同じ新橋界隈でも二人にとって馴染のある高架下の飲み屋ではなく、数年前にオープンしたばかりのビルの5階にある小料理屋だ。「いつもの居酒屋では、どこの記者が聞き耳を立てているかわかったものではありませんからね」というのが、この店に決めた理由だそうだ。なるほど、自称《菱谷の会長の使い走り》の田代と、六条源一郎の娘をもらうことになった葛笠が酒を酌み交わしているというシチュエーションだけでも、陰謀めかした記事が幾つか仕立てられることだろう。田代が、菱谷の会長の孫娘の夫と知っている者ならば、なおさら勘ぐりたくなるというものだ。
「……面倒くさいことになったもんだ」
「そうでしょうとも」
葛笠の独り言に、田代が笑いながら同意した。
「とはいえ、すでに六条社長からの承諾を得ているあなたは、最大の難関を超えてますよ。私なんて、ありとあらゆる人から大反対されましたからね」
菱谷の親戚連中の中には、いまだに田代を結婚詐欺師だと疑っている者がいるそうだ。
「でも、どういうわけだが、うちの会長だけは口出しなさいませんでしたね。それに、彼女が、どうしても私じゃないと嫌だと言ってくれましたのでね。……って、ほらぁ、全然信じてないって顔をしてる」
田代が葛笠の顔に向かって人差し指を突きつけた。
「うちの奥さんみたいな頭もよければ育ちもいい美人が、私のような、糸目だってこと以外に特徴がない、中肉中背のごくごく平凡な下っ端社員なんぞを好きになったはずがないって思っているでしょう」
「そ、そんなことは……」
「あ、やっぱり思ってましたね」
「思っていません!」
葛笠はブンブンと首を横に振った。
「田代さんは、とても有能です。しかも良い人です。あの菱谷の会長から信頼されているなんて、すごいと思っています」
「ありがとうございます。うちの奥さんと一緒になりたくて、しゃにむに頑張ったおかげですね。今の私は、会長のみならず他の皆様からも、結婚詐欺師ではなく妻の配偶者として認めてもらいつつあります。だから、葛笠さんも――」
ビールを運んできた店員が出ていくまでの少しの間、田代が沈黙する。
「――どうして俺なんか……なんて、自分を卑下することないんですよ」
そのことをどうしても直接伝えたかったのだと、田代が照れくさそうに微笑んだ。
「あなたは、とても優秀で、実に気持ちのいい性格をしていらっしゃる。六条社長とその息子さんから、信頼されてもいる。ついでに言えば、容姿が人並なのに高嶺の花に好かれるということは、容姿以外の魅力があるからだと、私は思うことにしています。もっとも、葛笠さんは、良い御顔立ちをしてますけどね。だから、そんなあなたに六条家のお嬢さまが惚れないわけがないんですよ」
「いや、でも……」
「その傷、やっぱり気になりますか?」
田代が、眉から頬にかけてうっすらと傷跡が残る葛笠の右目あたりに視線を向ける。
「……いいえ」
今は、気にしていない。なぜなら、紅子が……
「ですよねえ。紅子さんが、あなたのコンプレックスを払拭してくれましたものね。可愛らしいピン止めをくれて、あなたが顔を隠す必要がないことを教えてくれた?」
「ええっ、なんでそれを?!」
「我々『中村弘晃の正体を探る会』改め『中村弘晃氏と六条紫乃嬢の恋の成就を願う会』あるいは『葛笠さんと紅子お嬢さまの恋も見守っちゃおう会?』の面々の情報収集能力を侮ってはいけません」
お通しのタコを箸でつまんだまま固まった葛笠に、田代はニヤニヤと笑いながら「収集ついでに、鬼太郎もどきの前髪写真もみんなで回覧しちゃいました」と、とどめを刺した。
「なんで、そんな写真まで……」
「そりゃあ、あなたが学生さんの時に、我が社を含めたいろんな会社に履歴書を出しまくったからですね」
「……。そうでした」
がっくりと葛笠がうなだれる。そうだった。葛笠は、名の知れた企業という企業に身だしなみの整わない履歴書を出しまくって、ことごとく落とされたのだった。拾ってくれたのは、六条源一郎社長ただ一人だった。
「あなたを調べたのは、はじめは単なる好奇心からでしたよ」
愕然としている葛笠に田代が説明する。
「だって、六条社長と彼の秘書兼相棒の佐々木さんが、入社早々から跡継ぎの右腕として育てている男ですよ。しかも、親戚でもないのに、六条家に住んでいるという。その男が我々の目の前で六条社長が大切に大切にしている娘さんのひとりと着々と親密になっていく。こちらとしては、マークしないわけにはいかないじゃないですか」
「ですから、それは……」
「うん、うん。それは?」
反論しようとした葛笠に、田代が糸目を更に細くする。
「もしかして、マスコミが期待しているとおりの偽装婚約だとか?」
「ま、まさか、そんなことはあるわけないじゃないですか」
「そうでしょうね。そんなことありませんよね」
動揺を隠して愛想笑いを浮かべている葛笠は、かなり胡散臭かったに違いないが、田代は、見て見ぬふりをしてくれるつもりらしい。彼は、葛笠以上に胡散臭げな笑みを浮かべながら何度もうなずくと、秘書室の先輩たちと同じようなことを言いだした。
「だって、おふたりは、とてもお似合いですからね。既に熟年夫婦のような風格までありますし」
「そう、でしょうか?」
「ええ。私も、『中村弘晃の正体を探る会』改め『葛笠さんと紅子お嬢さまの恋も見守っちゃおう会?』の面々も、そう思っておりますよ。ですから、どういう経緯でこの婚約が成立するに至ったのかなんて、私は、あえて訊ねません。野暮ですからね」
やはり、いろいろと感づいているようだ。
酒の勢いで、葛笠は訊いてみた。
「私、そんなにわかりやすかったんですか?」
「そりゃあもう」
「え、そんなことはなかったと……」
「では、私が『会長に頼んで、菱屋の一族の中から紅子さんと歳が近くてハンサムで有能な若者をご紹介しますよ』って言ったら、あなたはどうしますか。六条にとっても、菱屋にとっても、非常に有益な縁談だと思うのですが」
一人二人三人……と、田代が思わせぶりに右手の指を立てていく。葛笠だって伊達に何年も六条源一郎の秘書をやっていないから、当然その三人に心当たりがあった。三人とも、冬樹のように親の威光を笠に着て好き勝手してきた問題児ではなく、菱屋系列の会社でそれぞれ頭角を現しつつある切れ者の若者たちだ。もしも、その縁談が実現すれば、弘晃と紫乃との縁談以上の恩恵を六条家にもたらす可能性も高い。
「いや、でも、それは……」
「ほら。嫌なんでしょう?」
とてもわかりやすではないかと、田代が笑う。
「冗談ですよ。簡単に墓穴を掘るぐらいなら、素直になればいいのに」
彼は、葛笠の拗ねた顔を堪能した後、「経験者として高嶺の花を手に入れるコツを伝授するなら、いっそ厚かましくなることです」とアドバイスをくれた。
***
すでに六条のお嬢さま方を妻にしている男性たちは、大はしゃぎしてくれた。
「ようこそ、義兄弟同盟へ!」
田代と飲んだ二日後。葛笠は、六条家長女紫乃の夫である中村弘晃と次女明子の夫である森沢俊鷹、そして三女橘乃の夫である梅宮要から、クラッカーで歓迎された。場所は、梅宮の勤め先でもある茅蜩館ホテル東京のスイートルームである。
「ぎ、『義兄弟同盟』?」
「文字通り、六条源一郎を義父と呼ぶことになった男たちの会です」
葛笠の髪やスーツにくっついたクラッカーの細かいテープを払いながら梅宮が説明してくれた。会場は、主にここ茅蜩館ホテルか弘晃の書斎であるとのこと。そのうちに和臣もメンバーに加えるつもりだという。
「要するに、六条のお義父さんと渡り合うために日ごろから親交を深めておきましょうって会だね。あの人と一対一だと大変だから」
源一郎から無茶ぶりされ放題になっている森沢の説明は、常日頃から社長に振り回されている葛笠とって非常に納得のいくものだった。
「それに、先のことも考えると、いろいろあるだろうからね。連携は密にしておいたほうがいい」
「え、この先?」
「まあ、それは、おいおいね」
不穏な予感に身構える葛笠を丸め込むように、弘晃が、有無を言わせぬ微笑みで、話を切り上げた。
「ともかく、僕たちは、あなたが参加してくれるのを心待ちにしていたのですよ。いずれ参加するのは間違いないから、初回から誘おうという話もあったぐらいです」
「あの……でも……」
「わかってますよ。紫乃さんから聞きました。今のところ本当に婚約したわけではないというのでしょう。それでもいいんですよ」
そうはいっても、弘晃によれば、紅子から『偽装婚約』のことを聞かされた紫乃は「ふたりして、なにをどうしたら、そんな誤解ができるのかしら」と呆れ果てていたのだそうだ。
「そうそう。偽でなくなっても偽のままでも、かまわないよ。六条家にとって、どのみち葛笠さんは家族みたいなものだから」
それでも、必ずや真実になるだろうことを自分たち夫婦は確信していると、森沢が言う。
子どもの頃から源一郎を知っている梅宮は、ふたりとは少し違う考えであるようだった。
「偽の婚約なんかであるわけがありませんよ」
流れるような所作でシャンパンを注ぎながら、彼は断言した。彼の妻の橘乃も、紅子がなんと言おうが、源一郎はこの婚約を前向きに進めるはずだと確信しているという。
「『紅ちゃんは、昔からずっと葛笠さんが好きなのよ。ほとんど一目ぼれの初恋で、以来他の男性なんかに目もくれずに、一途に葛笠さんを想ってきたの。だったら、お父さまが葛笠さんと結婚させないわけがないじゃない』と、橘乃さんは言ってます。僕も、そのほうが六条さんらしいと思います。むしろ、愛娘の望みを常に全力でかなえてきた六条さんが、結婚に限って娘の意志を尊重しないと考えるほうが不自然ではないでしょうか?」
「ひと目ぼ……え?」
「言われてみれば、確かに」
『一目ぼれ』という言葉に動揺する葛笠の横で、弘晃と森沢が腑に落ちたというようにうなずいた。
「そうだよな。もしも、葛笠さんが紅子ちゃんとの結婚を嫌がって逃げたとしてもだ。お義父さんなら、地獄の底まで追いかけてでも紅子ちゃんと結婚させるだろうな。それ以前に、娘を嫌がる男の存在そのものを認めないだろうけど」
森沢が独り言のように早口でつぶやく。ちなみに、娘をないがしろにする男を源一郎が破滅させることは、森沢の従兄でもある明子の元夫の末路をもって実証済みだ。
「娘に釣り合わない男と結婚させることも論外でしょうね」
弘晃も言う。「相手の男性の気持ちはさておき、娘が慕っている男が目の前にいる。ならば、まずは、その男を娘を託するに足るだけの人物に引き上げてしまえばいい。なるほど、六条さんはそう考えたわけですね」
「そうか。だから、いきなりの秘書室入りだったんだ」
源一郎と付き合いの長い森沢の祖父や梅宮の祖母の話によれば、かなり珍しい人事だったそうだ。そのことは、秘書室で何年も過ごすうちに葛笠も気が付いてはいた。室長を筆頭に同僚の遠峯や斎藤といった秘書室のメンバーは、コネで入社したものばかり。おおかたは、佐々木秘書室長や遠峰のように、源一郎が手に入れてきた会社の主要人物かその子孫だ。残りは、冬樹のように、源一郎が『再教育』のために引き受けた元問題児であるようだ。どちらでもないのは、葛笠のみであるらしい。
ちなみに、源一郎が趣味で行っているという就職活動全敗者向けの入社面接は、葛笠採用後も例年のように行われている。だが、秘書室への配属は葛笠だけだ。他は、六条の子会社のどこかに配属されている。
「しかし、なんて気の長い育成計画なんだ。男性版『若紫』かよ。途中で紅子ちゃんの気が変わったらどうするつもりだったんだ」
「和臣くんには、片腕となる人材が必要でした。それまでのダークなイメージからの脱却を目指していた六条さんにしてみれば、六条とのしがらみがない人物であるほうが望ましかったでしょう」
紅子の気持ちがどう転んだとしても、葛笠を鍛えることは六条の損にはならないと、弘晃が森沢に言う。『確かに、そうだな』 『そうですよね』と両者から同意を求められるように視線を向けられても、葛笠は目を白黒させることしかできない。
「みなさん、はじめから諦めていただけなんですよ」
葛笠の動揺が落ち着いた頃を見計らって、梅宮がグラスに酒を注ぎ足していく。
「あの六条源一郎だから。野心家の人でなしという評判だから。のし上がるためであれば、何でもやりかねない男だから。だから、娘たちのことも、自分の野心のために有効に活用するだろう。誰もが……当の娘さんたちでさえ、そう信じていた」
だが、現実はどうだろう。
それこそ結婚を自分の目的を果たすための手段だと割り切っていた長女の紫乃は、父親が勧める見合いに乗っかるかたちで弘晃と出会ったが、最終的には自分の意志で弘晃を選んだ。
次女の明子は、短く不幸な結婚生活を間に挟んだものの、彼女を本当に大事にしてくれる森沢と出会い、駆け落ちめいたことまでして一緒になった。あの時の源一郎は、森沢に腹を立てはしたものの明子の気持ちは尊重していた。結婚にも反対しなかった。
橘乃の時はどうだ。源一郎は、始めから『橘乃が選んだ男性であれば誰でもいい』と宣言していたではないか。
そして、紅子は……
皆が言ってくれることを信じるならば、父親が縁談を持ってくる以前に自分で葛笠を選んでいた。
(俺を選んだ?)
(それで、社長が……?)
「ふふ……。葛笠さんって、照れると耳が真っ赤になるんですねえ」
弘晃にまで、先輩たちと同じことを言われてしまった。
「まあ、葛笠さんにしてみれば晴天の霹靂のような縁談でしょうから、戸惑って当然です。とはいえ、マスコミ対応のためにも、この婚約は、しばらく続けざるをえません。その間に、ゆっくりと覚悟を決めればいいんじゃないでしょうか」
「……でも、どっちつかずな状態を続けるのは、彼女に対して不誠実だと思うんです」
姿勢を正すと、葛笠は、弘晃に向き直った。
このまま成り行きに任せれば、葛笠は楽だろう。だが、ここで楽をするのはよくない。『絶対に後々面倒が倍になって返ってくるぞ』と、入社以来人騒がせな源一郎のせいで培われた葛笠の勘が、彼の脳内で激しく警告している。
「今ちゃんとしないと、本当に……いや仮に、結婚するとなった時に、うまくいかなくなるような気がするんです」
「葛笠さんがそう考えている時点で『偽の婚約か否か?』の結論が出ているような気がしますけどね」
「中途半端な状態に踏ん切りをつけるために、あらためてプロポーズなさればいいのでは。きっかけと勢いが必要ならば、茅蜩館は喜んでお手伝いさせていただきますよ」
弘晃の脇から、梅宮が、プロポーズ成功率100パーセントだと噂されている茅蜩館ホテル東京でのクリスマスディナーと、ウェディングフェアのリーフレットをさりげなく葛笠の前に置いてくれた。
「これが、あの噂の……」
葛笠はしげしげとパンプレットを眺めた。茅蜩館ホテルのクリスマスディナーといえば、紅子が、たいそう憧れていたやつではないか。リーフレットを眺めながら、葛笠が「昔から、『行ってみたいなあ』って、紅子さま……紅子さんから何度も言われてましたが……」と話したら、森沢に呆れられた。
「葛笠さん、それ、婉曲に葛笠さんに誘ってほしいって、ねだられてたんだよ」
「え? 彼女、ずいぶん昔から言ってますよ」
「それはね。君のことが、ずいぶん昔から好きだったからだよ」
「一途だよねえ」とからかうような口調で言われて、葛笠は再び顔を赤くして押し黙った。そして、とうとう「……正直、今さら、どんな態度をとったらいいのかわからないんですよ」と、大きなため息と一緒に本音を吐いた。
葛笠は、もともと紅子を気に入っていた。
紅子母子の近くの部屋に寄宿していることもあって、彼女と接する機会も多かった。
葛笠は、外見にコンプレックスを持っていたせいもあって、この年齢に至るまで恋愛とは無縁であった。だから、まったくピンとはきていなかったのだが、つらつらと思い返してみれば、なるほど自分は紅子から特別な想いを向けられていたように思える。葛笠は葛笠で、誰もいないときだけ紅子に対して砕けた口調で接するなど、他にはない気持ちや態度を彼女にだけ向けていたような覚えがある。さらにいえば、紅子の姉妹や和臣や彼女の友人たち、紅子の母とその従者、その他源一郎の複数いる妻や使用人、葛笠の上司や同僚に至るまで、今まで気が付かなかったのが不思議なほど、なにかと気を回してもらっていたようでもあり……
「たしかに、今まで普通に……いいえ、普通以上に仲がいいのが普通でしたものね。今日から恋人同士だっていわれたら、逆に戸惑いますよね」
「ですから、うちのクリスマスディナーに是非」
「いや、でも、クリスマスまで3か月近くあるのに、この状態もつらいだろ」
「その前に、数日後に夕紀ちゃんの予選がありますね。最終まで行ければ、全部で4回でしたっけ」
「え、そのような予定は特には……」
一緒に見に行くのですよねと弘晃から念を押すように問われて、葛笠が戸惑う。
「仕事もありますし……」
紅子からも特に誘われてはいない。
「そこは、誘えよ」
森沢が、すかさず突っ込んだ。
「っていうか、葛笠さんが、即座に『仕事だからいけない』って即答しなかったのは、そうしようと思えば一緒に見に行けるからだろう」
源一郎のことだから、コンクール期間中に開催地である浪浜市の再開発関係者と現地で会うような手はずになっているのではないかと訊かれれば、そのとおり。波浜市は音楽の街であるのだから再開発にはこのコンクールの熱狂を肌で感じる必要があるからだと、源一郎は至極もっともな主張をしている。だが、彼の波浜市行きの一番の目的が、夕紀の演奏を生で聞くことであることは疑いようがない。
葛笠も和臣も、源一郎に同行する。それどころか、源一郎が東京に戻ることになっても、葛笠だけは、娘たちと共に同地に留まるように言われている。ちなみにコンクールの予選のチケットは、葛笠の分まで確保済みだ。席が指定になるのは最終の本選のみ。予選の間は、全席自由席だとも聞いている。
状況的に、葛笠が誘わなくても、紅子と予選を観ることになるとは思うのだが……
「だけど、ちゃんとデートとして誘わなかったら、月子ちゃんも一緒に予選を観ることになるよね?」
葛笠の考えを読んだかのように、森沢が言う。そして、一語一語念を押すようにしながら、「紅子ちゃんをちゃんと誘いなさい」と命じた。
「では、葛笠さんが誘いやすいように、デートに誘うためのデートを僕がセッティングしてあげましょう」
森沢と葛笠とのやり取りを面白そうに眺めていた弘晃が言った。
「場所は、森沢さんの会社の近くにある、『All Day Long』。滝本さんのお店といったほうが、わかりますか。そこで、会って話を聞いてきてもらいたい人がいるんです」
「弘晃さん、いきなりその案件を葛笠さんに振るのは、ちょっとひどくないか?」
「義兄弟同盟における『この先のいろいろ』を先に言い出したのは、森沢さんですよ」
咎めるような顔をする森沢に対して、弘晃は涼しい顔だ。
「それに、適任かどうかで考えれば、葛笠さんと紅子ちゃんに行ってもらうのがベストだと思いますけど」
「そうだな。俺は当事者みたいなものだし、梅宮くんも滝本さんに近すぎる」
「だから、僕が行こうかと思いましたが、男ひとりで彼女と話すのは気が重いというか、かといって、特に潔癖な紫乃さんに付き合ってもらうのは、話の内容的にマズイというか……」
「却下。マズいどころじゃない。紫乃さんが怒り狂う」
「茅蜩館じゃないところに弘晃さんが内緒でひとりで出かけたりしたら、紫乃さんと中村家に捜索願を出されてしまいますよ」
状況がわからないながらも葛笠は森沢と一緒になって止めた。過去に本当にそういうことがあったからだ。
「よくわからないけど、弘晃さんが行かなくてはならないぐらいなら、俺が行きます。ところで……」
「うん。例えば、この件のようなことに対処するのが、義兄弟同盟の2つ目の目的です。つまり、マスコミが大騒ぎしている六条家から、僕たちが『この先にいろいろ』と引き受けることになるのは、プラスのものばかりだとは限らないということです」
「負の遺産ということですか。いったい、俺は、誰と会うことになるのですか。危ないことなら、紅子……さんは連れて行かないほうがいいのではないでしょうか」
「……いや、葛笠さんは、どうしても紅子ちゃんに付いてきてもらいたくなると思うよ」
素が出すぎて、あやうく『紅子』と呼び捨てにしかけて内心焦っている葛笠に、森沢が申し訳なさそうな視線を向けた。梅宮までもが、「そうですね。葛笠さんのようなウブで真面目な方が一人で行くのは……」と、同情的な顔をする。
「いったい、誰に会ってこいっていうんですか」
「唯さんです」
「ああ、なんだ……」
葛笠はホッとした。唯こと喜多島唯、旧姓香坂唯は明子の元夫達也の現在の妻だ。明子と達也が破局した原因でもある。たしかに葛笠は。彼女が嫌いだ。でも、会えないほどではない。
だが、続く話を聞いて、葛笠は、ひとりで唯に会いに行くことを断念した。
ひとりでは、とても彼女と話せそうにない。ついてきてもらうように頼めるのも、紅子以外に思いつかない。
唯は、妊娠しているのだそうだ。
しかも、達也との離婚を望んでいるという。




